Эриванский уезд
Երևանի գավառ
エリヴァニ郡
ロシア帝国の旗 ロシア帝国
Flag of Armenia (1918–1922).svg アルメニア第一共和国および
Flag of the Armenian Soviet Socialist Republic (1922).svg アルメニア社会主義ソビエト共和国の郡
Coat of arms of Armyanskaya Oblast.JPG
1841年 - 1930年

エリヴァニ郡の紋章

紋章

エリヴァニ郡の位置
エリヴァニ県ロシア語版内における位置
首都 エリヴァニ
歴史
 - グルジノ・イメレチア県に設置 1841年1月1日
 - チフリス県ロシア語版に移管 1846年12月14日
 - エリヴァニ県に移管 1849年6月9日
 - アルメニア第一共和国領となる 1918年5月28日
 - アルメニア社会主義ソビエト共和国領となる 1920年12月2日
 - 廃止 1930年9月
面積
 - 1897年 3,032 km2 (1,171 sq mi)
人口
 - 1897年 150,879 
     人口密度 49.8 /km2  (128.9 /sq mi)
現在 アルメニアの旗 アルメニア
1903年の地図

エリヴァニ郡(エリヴァニぐん、ロシア語: Эриванский уездアルメニア語: Երևանի գավառ)は、ロシア帝国アルメニア第一共和国およびアルメニア社会主義ソビエト共和国エリヴァニを首府とし、1840年に設置されてからは主にエリヴァニ県ロシア語版に属した。

沿革編集

1828年トルコマーンチャーイ条約によってロシア帝国領とされるまでは、この領域はエリヴァニ・ハン国トルコ語版として、ガージャール朝の勢力下にあった[1]。併合直後にはアルメニア州が置かれたが、その後1840年4月10日公布、翌1841年1月1日発効の政令によってグルジノ・イメレチア県が新設され、エリヴァニ郡はその一部とされた[1]。さらに1846年12月14日採択の法令によってチフリス県ロシア語版が設置されると、エリヴァニ郡もその一部となる[2]。そして1849年6月9日採択の法令によってさらにエリヴァニ県ロシア語版が設置されると、エリヴァニ郡はナヒチェヴァニ郡アレクサンドロポリ郡アルメニア語版とともにエリヴァニ県へ移管された[2]。その後、ロシア帝国の崩壊とアルメニア第一共和国時代、アルメニア社会主義ソビエト共和国時代を経て、1930年9月の行政区画再編によって廃止された[3]

地理編集

面積は2664平方ベルスタ(3032平方キロメートル)[4]。領域の大部分を北東部の高地が占め、アラクス川渓谷に位置する南西部の狭い領域(長さ約70ベルスタ、幅8-13ベルスタ)が低地となっていた[4]エリヴァニ近郊の標高約3200フィート地点が郡内最高地点、シャルロ・ダララゲズ郡 (ru) との境の標高2667フィート地点が最低地点となっていた[4]。平野部全域は、アラクス川左岸から引かれた水路によって分割されていた[4]。高地部はアグマンガン山脈に連なる溶岩台地となっている[4]。山間部にはザング川(50ベルスタ)、ガルニ・チャイ川アルメニア語版(50ベルスタ)やヴェジ・チャイ川(47ベルスタ)などが流れ、それらは夏季には灌漑利用され、雨期や雪解けには急流となってアラクス川へ流れていた[4]

1913年の時点で、郡にはアラムス、イマンシャル、オグルベクル、カナキル、カマルル、カラノインル、カラハチ、サダラクロシア語版、シラバド、ダヴァルフランス語版、チグダムル、ドヴィン・アルミャンスキー、トルン、ナラコヴィト、バシュ・ガルヌィ、ボユク・ヴェジアルメニア語版の16の村が設置されていた[5]

経済編集

ロシア帝国時代の主な産業は農業と畜産業であり、低地部は農業用地、山地部は夏場の放牧用地として利用されていた[4]1900年の収穫高は、冬・春小麦191万8000プード、大麦20万プード、米210万プード、ジャガイモ4600プード、綿花7万835プードとなっている[4]。その他にもキビ、エンドウ、レンズ豆、麻、亜麻、トウゴマ、スイカ、メロンなどの栽培も行われていた[4]。桃、杏、プラム、林檎、梨、イチジク、ザクロなど、果物栽培も約1320デスャチーナロシア語版の作付面積で行われており、とりわけ葡萄は5448デスャチーナ(エリヴァニ県全域での半分を占める)の作付面積から111万8380プードの収穫があった[4]。家畜数は馬・ラバ7630頭、牛5万9680頭、水牛3330頭、羊・山羊5万2700頭、ラクダ1630頭、ロバ4150頭と、エリヴァニ県全体の11パーセントの数を擁した[4]

対して工業はほとんど発達していなかったが、それでもエリヴァニ県の他の郡に比較すればはるかに盛んであった[4]。工業施設のほとんどはエリヴァニに集中しており、ワイン・ウォトカ・スピリッツの醸造や製粉・精米が盛んであった[4]。エリヴァニでは449の工場が49万3520ルーブルを売り上げ、これは県全体での生産高の37パーセントに達する[4]。対してエリヴァニを除いた郡内の商業生産高は500ルーブル足らずであった[4]。皮革産業は主にクルド人によって、織物・鞄・靴製造などの手工業は主にアルメニア人によって担われていた[4]

人口編集

1897年ロシア帝国国勢調査ロシア語版においては、郡の総人口は15万879人(男性8万2899人、女性6万7980人)とされ、使用言語別の主要な内訳は

である[6]。首府エリヴァニの人口は2万9006人となっている[7]1926年ソビエト連邦時代の統計では、郡の総人口は17万8652人(男性9万2461人、女性8万6191人)であり、都市人口が6万7736人、農村人口が11万916人となっている[8]

脚注編集

  1. ^ a b Зурначян (2012) С. 69—71
  2. ^ a b Зурначян (2012) С. 72
  3. ^ ՎԱՐՉԱՏԱՐԱԾՔԱՅԻՆ ԲԱԺԱՆՈՒՄ ՀՍՍՀ // Հայկական Սովետական Հանրագիտարանロシア語版 / Վիկտոր Համբարձումյան — Երևան: Հայ սովետական հանրագիտարան հրատարակչություն, 1987. — Т. 13. — С. 19.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Эривань” (ロシア語). ブロックハウス・エフロン百科事典: 全86巻(本編82巻と追加4巻). サンクトペテルブルク. (1890-1907) 
  5. ^ Волостныя, станичныя, сельскія, гминныя правленія и управленія, а также полицейскіе станы всей Россіи съ обозначеніем мѣста ихъ нахожденія — К.: Т-ва Л. М. Фишъ, 1913. — С. 193. — 196 с.
  6. ^ Первая всеобщая перепись населения Российской Империи 1897 г. Распределение населения по родному языку и уездам Российской Империи кроме губерний Европейской России: Эриванский уезд — весь”. Демоскоп Weekly. 2016年4月9日閲覧。
  7. ^ Первая Всеобщая перепись населения Российской империи 1897 года. Наличное население в губерниях, уездах, городах Российской Империи (без Финляндии): Эриванская губерния”. Демоскоп Weekly. 2016年4月6日閲覧。
  8. ^ Всесоюзная перепись населения 1926 г. Белорусская, Украинская, Закавказская, Узбекская, Туркменская республики и их основные регионы. Населенные места. Наличное городское и сельское население: Эриванский уезд”. Демоскоп Weekly. 2016年4月6日閲覧。

参考文献編集