エンリケ・カストロ・ゴンサレス
キニ(Quini)ことエンリケ・カストロ・ゴンサレス(Enrique Castro González, 1949年9月23日 - 2018年2月27日)は、スペイン・オビエド出身の元サッカー選手。スペイン代表であった。ポジションはFW。
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1983年のキニ | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
エンリケ・カストロ・ゴンサレス Enrique Castro González | |||||
愛称 | エル・ブルホ(魔術師) | |||||
ラテン文字 | Quini | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | スペイン | |||||
生年月日 | 1949年9月23日 | |||||
出身地 | オビエド | |||||
没年月日 | 2018年2月27日(68歳没) | |||||
身長 | 176cm | |||||
体重 | 74kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW (CF) | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
ドン・バスコ | ||||||
エンシデサ | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1967-1968 | エンシデサ | 22 | (17) | |||
1968-1980 | スポルティング・ヒホン | 381 | (214) | |||
1980-1984 | バルセロナ | 100 | (54) | |||
1984-1987 | スポルティング・ヒホン | 62 | (17) | |||
通算 | 567 | (302) | ||||
代表歴 | ||||||
1968 | スペイン U-18 | 2 | (0) | |||
1971 | スペイン U-23 | 2 | (0) | |||
1969-1972 | スペイン アマチュア | 9 | (11) | |||
1970-1982 | スペイン | 35 | (8) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
リーガ・エスパニョーラ通算219得点は歴代6位である。プリメーラ・ディビシオン(1部)でのピチーチ賞受賞5回は、テルモ・サラの6回に次いで2位タイである。同じく5回獲得した選手に、リオネル・メッシ、ウーゴ・サンチェスとアルフレッド・ディ・ステファノがいる。セグンダ・ディビシオン(2部)での2回の得点王を合わせ、合計で7回得点王を獲得した。
経歴
編集クラブ
編集スポルティング・ヒホン
編集アストゥリアス州オビエドに生まれ、1968年にアマチュアクラブのエンシデーサから隣町ヒホンにあるスポルティング・ヒホンに移った。同年にトップチームデビューし、1969-70シーズンにはセグンダ・ディビシオン(2部)で24得点を挙げて得点王に輝いた。そのシーズン終了後にプリメーラ・ディビシオン(1部)昇格を決めると、1970-71シーズンは初のプリメーラ・ディビシオン挑戦ながら30試合に出場して13得点を挙げた。その後の9シーズンでリーグ戦一桁得点に終わったシーズンは1度しかなく、プリメーラ・ディビシオンで3度、セグンダ・ディビシオンで1度のリーグ得点王(ピチーチ賞)に輝いた。1973-74シーズンにはプリメーラ・ディビシオンで初の得点王を獲得したが、皮肉にもプリメーラ・ディビシオンで2度目の得点王を獲得した1975-76シーズンにセグンダ・ディビシオン降格となった。1976-77シーズンにはセグンダ・ディビシオンで2度目となる得点王に輝き、1979-80シーズンにはプリメーラ・ディビシオンで3度目の得点王に輝いた。
FCバルセロナ
編集1980年夏、スポルティング・ヒホンのセグンダ・ディビシオン降格以来興味を示されていたFCバルセロナに移籍した。1981年3月1日、エルクレスCF戦(6-0)で2得点を決めた試合後、2人組の男に銃を突きつけられて小型トラックに乗せられ、誘拐された[1][2]。事件は様々な展開を見せたが、スペイン警察とスイス警察の協力により、3月25日に無事に救出された。この期間内にFCバルセロナは4戦して1分しかできず、結局はタイトルレースから脱落することになった。このような事件があったにもかかわらず、1980-81シーズンと1981-82シーズンだけでリーグ戦合計47得点を挙げ、ふたつのクラブをまたがって3シーズン連続となるリーグ得点王の栄誉に輝いた。移籍初年度のコパ・デル・レイ決勝(3-1)では古巣スポルティング・ヒホン相手に2得点して優勝し、1981-82シーズンのUEFAカップウィナーズカップ決勝(2-1)ではベルギーのスタンダール・リエージュ相手にカンプ・ノウで逆転勝利を収めた[3]。ホームでのCDカステリョン戦でクラブの通算3000得点目を決めたが、1982-83シーズンと1983-84シーズンは出場機会が減少し、35歳だった1984年に現役引退を表明した。
スポルティング・ヒホン復帰
編集FCバルセロナは引退記念試合を開催したが、彼は現役引退の考えを改めて古巣スポルティング・ヒホンと契約し、FCバルセロナでの晩年よりは比較的多くの試合に出場した。1987年6月14日、FCバルセロナ戦が現役最後の試合となった。プリメーラ・ディビシオンでは448試合に出場して219得点を挙げた。現役引退後はスポルティング・ヒホンのフロントに入った。
代表
編集1970年10月28日、サラゴサで行われたギリシャとの親善試合(2-1)でスペイン代表デビューし、初得点も決めた。1974年11月20日のUEFA欧州選手権1976予選・スコットランド戦では2得点を挙げたが、UEFA欧州選手権1976本大会に出場するメンバーからは外れた。1978年3月から4月にかけて、ノルウェーとメキシコとの親善試合で立て続けに得点し、1978 FIFAワールドカップ本大会に出場するメンバーにも選ばれたが、本大会では得点することなく1次リーグ3位でアルゼンチンを去った。1980年にはUEFA欧州選手権1980に出場し、ベルギー戦(1-2)で1得点を挙げたが、彼が主要国際大会で挙げた得点はこの1得点のみである。1982年には母国開催の1982 FIFAワールドカップに出場したが、2次リーグで敗退した。スペイン代表としては通算35試合に出場して8得点を挙げた。
死去
編集2018年2月27日、帰宅途中の車内で心筋梗塞を起こし、救命措置が行われたものの搬送中に容態が悪化、死去した。68歳没[4]。
タイトル
編集クラブ
編集- FCバルセロナ
- コパ・デル・レイ (2) : 1981-80, 1982-83
- UEFAカップウィナーズカップ (1) : 1981-82
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ (1) : 1982-83
- コパ・デ・ラ・リーガ (1) : 1982-83
個人
編集- プリメーラ・ディビシオン ピチーチ賞 (5) : 1973-74, 1975-76, 1979-80, 1980-81, 1981-82
- セグンダ・ディビシオン ピチーチ賞 (2) :1969-70, 1976-77
- ドン・バロン・アワード 最優秀スペイン人選手賞 (1) : 1978-79
個人成績
編集代表での得点
編集# | 開催日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 大会 |
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1. | 1970年10月28日 | サラゴサ | ギリシャ | 2–0 | 2–1 | 親善試合 |
2. | 1974年11月20日 | グラスゴー | スコットランド | 1–1 | 1–2 | UEFA欧州選手権1976予選 |
3. | 1–2 | |||||
4. | 1978年3月29日 | ヒホン | ノルウェー | 1–0 | 3–0 | 親善試合 |
5. | 1978年4月26日 | グラナダ | メキシコ | 1–0 | 2–0 | |
6. | 1980年4月16日 | ヒホン | チェコスロバキア | 2–2 | 2–2 | |
7. | 1980年6月15日 | ミラノ | ベルギー | 1–1 | 2–1 | UEFA欧州選手権1980 |
8. | 1982年2月24日 | バレンシア | スコットランド | 2–0 | 3–0 | 親善試合 |
脚注
編集- ^ El secuestro de Quini puede tener móviles económicos El País、1981年3月3日
- ^ Quini: Un secuestro que tuvo en vilo al país Sport、2007年9月19日
- ^ 1981/82: Home sweet home for Barcelona UEFA.com、1982年6月1日
- ^ 元バルサの“レジェンド”が死去。リーガ得点王5回、歴代8位の219得点 フットボールチャンネル、2018年2月28日
外部リンク
編集- BDFutbol profile
- National team data
- エンリケ・カストロ・ゴンサレス - National-Football-Teams.com
- International appearances RSSF
- FC Barcelona archives
- エンリケ・カストロ・ゴンサレス – FIFA主催大会成績