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オドアケル

オドアケルに帝冠を渡すロムルス・アウグストゥルス
オドアケルの金貨
オドアケルの王国の版図

オドアケルラテン語: Odoacer, 433年 - 493年3月15日)は、西ローマ帝国傭兵隊長を経てローマ帝国のイタリア領主となった人物。オドワカル(Odovacar)あるいはイタリア語オドアクレOdoacre)とも言う。

人物・生涯編集

その出自は不明で、ヘルール族の王であったとか、テューリンゲン族英語版の出身であるとか、あるいは東ゲルマン族英語版スキリア族英語版出身であるなどとされる。父の名はEdeko(406年頃 - 454年)、兄弟にOnoulphus(430年頃 - 493年)がいる。

470年までにオドアケルはローマ軍の将軍となり、472年にはゲルマン人の将軍リキメルの下でローマ皇帝アンテミウスの討伐にも参加した。

476年、西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位し、元老院を通じて「もはや西ローマ帝国に皇帝は必要ではない」とする勅書を東ローマ帝国皇帝ゼノンへ送り、西ローマ皇帝の帝冠と紫衣を返上した。ゼノンはオドアケルにローマ貴族とイタリア領主(dux Italiae)の称号、およびにローマ皇帝の代官としてイタリア本土を統治する法的権限を与えた[1]。一方でゼノンは、オドアケルがゼノンの支持するユリウス・ネポスを西ローマ皇帝として受け入れるべきだとも提案した。元老院はゼノンの提案に反対したが、オドアケルは提案を受け入れた。オドアケルは忠誠の証として新たに発行した金貨にネポスの名と肖像を刻印したが、結局ネポスをイタリアへ迎え入れようとはしなかった。そして480年にネポスが殺害されると、ゼノンは法的にも西ローマ皇帝と東ローマ皇帝の地位を廃止し、自身を西ローマ帝国と東ローマ帝国を合わせたローマ帝国全土のローマ皇帝とした。

ゼノンとオドアケルは、西ローマ皇帝位の廃止後も元老院など西ローマ帝国の政府機構はそのまま残し、古代ローマ式の統治方法を継続した。オドアケルはローマの法を厳格に実行して元老院と執政官の権威の復興に務めたため、西ローマ帝国の人々から大きな信頼を獲得した。また、自身はイタリアの守護者として軍官の地位にとどまり、帝国の民政行政については元老院とローマ人の文官に委ねたので、それまでローマ皇帝によって押さえつけられていた元老院議員やローマ首長英語版らもオドアケルの支配を歓迎した。元老院と執政官は鋳造権を回復し、良質な銅貨幣が発行された。オドアケル時代のこうした政策は、後に皇帝アナスタシウス1世が行った財政改革の手本とされた[2]。彼自身は異教徒であったが、キリスト教会とも良好な関係を維持した。教皇フェリクス3世は彼の治世を賞賛し、後にオドアケルを滅ぼしたテオドリックの熱心な支持者であったパヴィア司教のエノディウス英語版ですらオドアケルの支配を非難することはせず、5つの教会の再建と1つの嘆願が聞き届けられたことを記すだけだった。Sr. Genevieve Marie Cook は、テオドリックを支持したエノディウスの「沈黙」は、オドアケルに対する無言の賛辞であったとしている[3]

対外的にはヴァンダル王国の王ガイセリックと交渉してシチリア島の一部を帝国へ返還させ、イタリアへの攻撃を491年まで停止させた。487年にはルギイ族の王ファワを降伏させて連れ去られていた帝国の自由市民を取り戻した[4]。西ローマ帝国内で繰り広げられていた蛮族の王たちによる権力争いは急速に抑制され、もはやイタリアは安全であると見なすことができた。オドアケルのもたらした平穏と繁栄によってローマの人口は増加し、西ローマ帝国は大いに復興することとなった。

しかし、484年から488年にかけての東ローマ帝国の内乱において、オドアケルはゼノンの対立皇帝レオンティウス英語版側に与してゼノンと対立した。そのためゼノンは東ゴートテオドリックにオドアケル討伐を命じ、翌年テオドリックはイタリアに侵攻を開始する。イゾンツォの戦いヴェローナの戦いと相次いで敗れたオドアケルは首都ラヴェンナへと追い込まれ、493年に降伏した(ラヴェンナ包囲戦 (490年-493年))が、その直後に配下の兵たちと共に暗殺された。妻スニギルダは幽閉されて餓死、幼い息子のテーラ(Thela)はガリアに追放されやがて処刑された。兄のフンウルフは矢で針鼠にされた。テオドリックは、オドアケル討伐の功として東ローマ帝国の皇帝アナスタシウス1世からイタリア支配とイタリア王の地位を承認され、東ゴート王国が成立した。エドワード・ギボンは『ローマ帝国衰亡史』でオドアケルを破ったテオドリックの武勇を賞賛するとともに、オドアケルについても戦術と政治の術に優れた英雄であったと評価している[5]

今日ではオドアケルがイタリアの領主に任命されたことをもって西ローマ帝国の「滅亡」と表現する場合があるが、J.B.ベリーら研究者はオドアケルによるイタリア統治の開始を西ローマ帝国の「滅亡」と呼ぶことには否定的である[6]。西ローマ帝国の政府機構は少なくとも6世紀中頃までオドアケルや東ゴート王らとは別々に存続しており、民政行政も西ローマ帝国政府の任命した文官によって引き続き行われていたし、軍事こそゲルマン人が掌握していたがそうした体制は既に帝政後期には始まっていたものであって、少なくとも法律・制度・行政機構の面においては西ローマ帝国にいかなる断絶も見出すことができず[7][8]、オドアケルへのイタリアの委任も、これまで帝国の各地でゴート族フランク族らの王を領主に任命して統治を委任してきたのと同じことが、皇帝ゼノンによってイタリアに適用されただけだと考えるべきだからである[6]

脚注編集

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  1. ^ このことからオドアケルをローマ帝国の初代イタリア王(rex Italiae)とみなす場合もあるが、オドアケルをイタリア王に含めるかどうかついては議論がある。
  2. ^ A.H.M.Jones, The Later Roman Empire: 284–602 (Baltimore: Johns Hopkins, 1986), pp. 254f
  3. ^ Sr. Genevieve Marie Cook, The Life of Saint Epiphanius by Ennodius: A translation with an introduction and commentary (Washington: Catholic University of America, 1942), pp. 12f
  4. ^ 『ブリタニカ国際大百科事典』[オドアケル]
  5. ^ ローマ帝国衰亡史』5巻、p292
  6. ^ a b J. B. Bury, History of the Later Roman Empire: From the Death of Theodosius I to the Death of Justinian, ch.12
  7. ^ 『ブリタニカ国際大百科事典』[ローマ史]、TBSブリタニカ、p759
  8. ^ 『アシェット版 図説ヨーロッパ歴史百科 系譜から見たヨーロッパ文明の歴史』原書房、p79

参考文献編集

先代:
イタリア王
476年 - 493年
次代:
テオドーリコ