オノレ4世 (モナコ公)
オノレ4世(Honoré IV, 1758年5月17日 - 1819年2月16日)は、モナコ公[1](在位:1814年 - 1819年)。
オノレ4世 Honoré IV | |
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モナコ公 | |
![]() | |
在位 | 1814年 - 1819年 |
出生 |
1758年5月17日![]() |
死去 |
1819年2月16日(60歳没)![]() |
配偶者 | マザラン女公及びラ・メユレ女公ルイーズ・ドーモン |
子女 |
オノレ5世 フロレスタン |
家名 | グリマルディ家 |
父親 | モナコ公オノレ3世 |
母親 | マリー・カトリーヌ・ブリニョール |

生涯 編集
モナコ公オノレ3世とマリー・カトリーヌ・ブリニョールの間の長男。誕生時よりモナコ公世子だったが、モナコは1793年2月14日フランスに併合された[2]。弟ジョゼフがヴァンデの反乱に加担していた[3]ことが原因となり、反革命容疑者法に基づき父、妻及び義妹マリー・テレーズと共に逮捕され、1794年の恐怖政治の終了まで収監されていた。1795年父が死ぬと、名目的にモナコ公位を引き継いだ。
1814年5月30日のパリ条約でフランスが1792年以降に併合した全領土を放棄したのに伴いモナコ公国は復活した。しかしオノレ4世は恐怖政治下での監獄生活のために健康を著しく損なっており、摂政による統治代行が必要となった。始めは弟ジョゼフが、1815年からは長男の公世子オノレ(5世)が務めた[4]。
1777年7月15日パリにて、マザラン女公及びラ・メユレ女公ルイーズ・ドーモンと結婚し[5]、間に2人の息子を儲けたが、夫婦関係は不幸で、すぐに別居した。2人は1798年正式に離婚した。息子は以下の2人である。
引用・脚注 編集
- ^ “モナコ公国(Principality of Monaco) 基礎データ”. 日本国外務省 Ministry of Foreign Affairs of Japan. 2020年2月10日閲覧。
- ^ オリヴィエ・ブラン(著)・小宮正弘(訳)『一五〇通の最後の手紙 フランス革命の断頭台から』朝日新聞社、1989年、P129。
- ^ ブラン、P130。
- ^ de la Canorgue, Victor (1851). Les règnes d'Honoré V et de Florestan I, princes de Monaco (Digital ed.). University of Lausanne 2017年12月4日閲覧。
- ^ Paul Theroff. “MONACO”. Paul Theroff's Royal Genealogy Site. 2020年2月11日閲覧。
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