オリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)

オリガ・ニコラエヴナ・ロマノヴァロシア語: Ольга Николаевна Романова英語: Olga Nikolaevna Romanova, Grand Duchess Of Russia, 1895年11月15日 - 1918年7月17日)は、ロシア皇帝ニコライ2世アレクサンドラ皇后の第1子で、第一皇女。ロシア大公女1917年二月革命で成立した臨時政府によって家族と共に監禁された。十月革命で権力を掌握したウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキの命を受けたチェーカー秘密警察)によって翌1918年7月17日に超法規的殺害(裁判手続きを踏まない殺人)が実行され、エカテリンブルクイパチェフ館において家族・従者と共に銃殺された。正教会聖人新致命者)。

オリガ・ニコラエヴナ・ロマノヴァ
Ольга Николаевна Романова
ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家
Olgachair.jpg
1914年頃
続柄 ニコライ2世第1皇女

全名 オリガ・ニコラエヴナ・ロマノヴァ
Ольга Николаевна Романова
身位 ロシア大公女
敬称 殿下
出生 1895年11月15日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国サンクトペテルブルクツァールスコエ・セロー
死去 (1918-07-17) 1918年7月17日(22歳没)
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシアSFSRエカテリンブルクイパチェフ館
埋葬 1998年7月17日
ロシアの旗 ロシアサンクトペテルブルクペトロパヴロフスキー大聖堂
父親 ニコライ2世
母親 アレクサンドラ・フョードロヴナ
宗教 キリスト教ロシア正教会
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オリガ・ニコラエヴナ・ロマノヴァ
致命者
崇敬する教派 ロシア正教会
列聖日 2000年8月
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1906年
1909年頃に皇室ヨット『スタンダルト』号にて。オリガとニコライ2世、アレクサンドラ皇后
フランス語家庭教師ピエール・ジリヤールの授業を受けるオリガ(1909年)
1910年頃。結婚が噂されていたドミトリー大公
1910年頃
母と妹タチアナと共に兵士たちの看護をしていた時の看護服姿のオリガ1915年
1916年

人物編集

金髪の波状毛に明るい青の瞳、いかにも賢そうな広く突き出た額をしていた。妹のタチアナ皇女マリア皇女ほど美しくはないと一般的に見なされていたが[1]、母親の友人であったリリ・デーン英語版は「平均よりやや背が高く、健康的な顔色、濃い青色の目、明るい栗色の髪の毛の量、可愛らしい手と足の持ち主だった」と表現し、15歳の頃のオリガは明らかに美しかったと書いた[2]

あらゆる面で才能を発揮する教養の深い皇女だったと言われる。アナスタシア皇女も含め、4皇女はOTMAというサインを結束の象徴として使用していた。

父親似と言われ、また彼女も父を深く慕っていた。頑固で意志が強く情け深い性格であったが、一方で粗野で率直過ぎる面もあった。そのためか、母のアレクサンドラ皇后とは反りが合わなかったと言われる。文学少女であり姉妹の中では最も賢く、複雑なロシア語の文法も説明出来た。乗馬を嗜み、騎馬隊長を務めた事もあった。

ルーマニア王太子カロル(後のカロル2世)及びイギリス王太子エドワード(後のエドワード8世、ウィンザー公)との縁談もあったが、オリガ自身は「私はロシア人だからロシアに残りたい」と、外国の王族とは結婚する気が無く、結果家族の悲劇に巻き込まれてしまった[3]。また、オリガはカロルが好きではなく、1914年春にルーマニアを訪れた時はカロルと世間話をするのに苦労した[4]。カロルの母親のマリア王妃もオリガの性格を無愛想過ぎるとして、彼女の頬骨の高い顔も「可愛くない」と言い、あまり良い印象を持っていなかった[5]。 また、一説ではニコライは自身の従弟にあたるドミトリー大公と彼女を結婚させるつもりであったとも言われる。

また彼女は、グリゴリー・ラスプーチンの葬儀に家族内で唯一出席しなかったと言われる。ドミトリーとフェリックス・ユスポフがラスプーチンを殺害した時に一家から殺人者が出た事を恥じていた。オリガはこれより前から兵役を退避したユスポフを軽蔑していた。

トボリスク滞在時のオリガの様子を記憶しているクラウディア・ビットナーは回顧録の中で次のように述べている[6]

彼女は父親の多くの性質を受け継いでいます。・・・家事的なことを嫌いました。孤独と本を愛しました。よく本を読みました。基本的に冷静でした。彼女は、彼女の家族よりもはるかに自分の置かれた立場をわかっていたし、その危険性を知っていたように私には思えました。彼女の両親がトボリスクを去った時、彼女はひどく泣いていました。おそらく、何かを知っていました。彼女は不幸を経験している人だという印象を私に与えました。・・・彼女の父親と同様に、彼女はまったく素朴で、優しく、親切であり、友好的でした。誰よりも人を愛し、マリア・ニコラエヴナに似ていました。
 
1916年春。マヒリョウ近郊にて妹のタチアナとアナスタシア、農民の子供達と
 
1918年5月。トボリスクからエカテリンブルクへ向かう船にて。アレクセイと共に既知の最後の写真

イパチェフ館での生活編集

姉妹の中で一番母親と一緒にいた。[7]

6月19〜20日にと届いた「ロシア軍の一将校」の最初の手紙の回答はフランス語を塾達していた彼女が21〜23日の間に書いた可能性が高いと考えられている。

建物の角からバルコニーまでの間に窓が街路側に五、広場に二。窓は全部接着幽閉され白く塗ってある。小さい子はまだ病臥中で一歩も歩けず、ちょっと動かすだけでも痛がる。一週間前アナーキストのせいで夜中にわれわれはモスクワに連れ出されようとした。成功の絶対的確信なしには、いかなる危険も冒されるべきではない。われわれはほとんど常時厳重な監視下にある

[8]

外部の紅衛兵アンドレイ・ストレコティンの1934年の回想録では彼女についてこう振り返った。

紅衛兵アレクサンドル・スタルコフはこう述べた。"皇女らには特別なものはない。しかし私は彼女らを特別だと思った。何も特別なものはない。もし彼女らのドレス等の衣装を我々の貧しい娘達に着せたなら、確かに多くの娘達は魅力的になるだろう"
次の二人の女性はお互い似ていません。そのうちの一人はタチアナ。ふっくらとした健康的な美しい黒髪の女性でした。二人目、つまり長女のオリガは平均より背が高く、痩せていて、顔色が悪く病弱な感じでした。彼女は庭を少しずつ散歩し、姉妹のどちらとも仲が悪く、よくドレスに着替えて金や宝石で自分を飾り立ていました。

[9]

また彼は回想録の中で警備兵と交友関係を持ったマリアに酷く腹を立てたと振り返ったと「The Fate of the Romanovs」で書かれている[10]が著者が参考にしていた彼の回想録にはそのような記述は書かれていないだけでなく、そもそもマリアの名前は一字も書かれていない。[11]

7月4日に司令官に任命されたヤコフ・ユロフスキーの1922年の回想録では彼女についてこう振り返った。

タチアナとオルガ、あるいはマリア、殆どはタチアナが、"そろそろ散歩に出ていいか"と言いに来た。
散歩中のオリガが、紅衛兵の1人に声をかけ、「どこの所属にいたのか?」と尋ねた。彼は「擲弾兵連隊に所属していて、観兵式で皇帝の娘たちを見た」と答えた。オリガはニコライの方を向いて言った。「パパ、この人はあなたの擲弾兵の一人です」と言った。ニコライは近づき、「こんにちは」と言った。「健康を祈ります」(軍の慣例)という言葉を期待していたようだが、ただ挨拶されただけだった。それからだいぶ経ってから、紅衛兵の同志が、「私(ユロフスキー)が来て会話が終わったので、話す機会がなかった」と報告してきた。 
最も聡明だったのはタチアナで、二番目は表情も含めてタチアナにとてもよく似ていたオリガでした。マリアについては、彼女は最初の二人の姉妹とは似ていないし、外見も似ていない。彼女はどこか内向的で、所謂義理の娘として家族の中にいた。末っ子のアナスタシアは、可愛い小さな赤ら顔していた。

[12][13]

外部の警備兵だったアナトリー・ヤキモフが彼女についてこう振り返っている。

タチアナは女王のような存在でした。母親と同じように厳しそうで、重厚そうな顔をしていた。他の娘たち、オリガ、マリア、アナスタシアはどうでもいい存在だった。素朴で優しい人たちでした。

[14]

処刑執行者のピョートル・エマルコフはリチャード・ハリバートンのインタビューにて

オリガは長女で、特別な存在ではありませんでした。22 歳くらいか、おそらく 23 歳くらいでした。マリアが刑務所で 19 歳の誕生日パーティーを開いたことを覚えています。看守の 1 人が彼女にケーキをいくつか持って行きました。彼女はツァーリのお気に入りのようでした。 二人はいつも庭を一緒に歩いていた。アナスタシアはまだ髪を後ろに下ろしていた。彼女は17歳以下だった。おそらくもっと若い。タチアナはオルガとマリアの間にいた。私は彼女が4人の中で一番綺麗だと思った。彼女は尊厳もあり、常に他の人の世話をしていました。私たちは皆、彼女が一番好きでした。

[15]

7月14日は日曜日のミサを取り仕切ったストロジェフ司教は一家の様子についてこう振り返った。

アーチの向こうの前方には、すでにアレクサンドラ皇后と二人の娘、そして車椅子に座ったアレクセイ・ニコラエヴィチが、セーラー服のような襟付きのジャケットを着ているのが見えていた。顔色は悪かったが、最初の礼拝のときほどではないが、意識ははっきりしているように見えた。アレクサンドラ皇后も5月20日と同じドレスを着て、より明るい表情を見せていた。ニコラス・アレクサンドロビッチはというと、初回と同じ衣装を着ていた。ただ、今回は胸にセント・ジョージの十字架を付けていたのかどうか、なぜかはっきりと想像できないのだ。タチアナ・ニコラエブナ、オルガ・ニコラエブナ、アナスタシア・ニコラエブナ、マリア・ニコラエブナは、黒いスカートと白いブラウスを身に着けていた。頭髪も伸びて、後ろは肩の高さまである。
ニコライ・アレクサンドロヴィッチも、その娘たちも、落ち込んでいるとは言わないまでも、なんとなく疲れているような印象を受けた。今回も5月20日と同じように、ロマノフ家の人々は神式の典礼に着席していた。アレクサンドラ皇后の肘掛け椅子は、アレクセイ・ニコラエヴィチの隣に、アーチから離れた、彼の少し後ろに置かれていた。彼の後ろには、タチアナ・ニコラエヴナ(彼女は後で、礼拝後に彼らが十字架で横になっていたとき、彼の肘掛け椅子を取った)、オルガ・ニコラエヴナ、そして確か(誰だったかは覚えていない)、マリア・ニコラエヴナもいたようである。アナスタシア・ニコラエヴナは、アーチの右側の壁際にいつものように陣取っているニコライ・アレクサンドロヴィッチのそばに立っていた。
ミサの順序に従って、特定の場所で「聖人たちと一緒に、安らかに眠ってください」という祈りを読む必要があります。どういうわけか、今度は執事が朗読の代わりにこの祈りを歌い、私はそのような規則からの逸脱に少し恥ずかしそうに歌い始めましたが、歌うとすぐにロマノフ家のメンバーが立っていると聞きました私の後ろでひざまずきました...。
帰り際、大皇女のすぐ近くを歩いていると、かすかに「ありがとう」という言葉が聞こえたが、それは印象だけではなかったと思う...。

[16]

7月15日に館に派遣された4人の掃除婦によると、4人の若い女性は全員とも前日の服装と同じ長い黒のスカートと白のシルクのブラウスであり、その短い髪は「ボサボサで乱雑」であった。オリガは元気が無く、具合が悪そうに見えたという[17]

7月16日、ロマノフ一家が夕食を食べている時に新任の警護隊長ヤコフ・ユロフスキーが入ってきてアレクセイの遊び相手で14歳の皿洗いの少年、レオニード・セドネフの館からの離脱を発表した。実はロマノフ家のメンバーと一緒に彼を殺したくなかったために警護兵が少年をイパチェフ館から通りの向かいの宿舎へ引っ越させていた。しかし、殺人の計画を知らないロマノフ一家はセドネフの不在に怒っていた。タチアナと一家お抱えの医師エフゲニー・ボトキンは夕方にユロフスキーのオフィスまで出向き、アレクセイを楽しませてきたセドネフを復帰させるように要求した。ユロフスキーはセドネフは直ぐに戻ってくると伝えることでタチアナを宥めたが、家族は納得しなかった[18]

殺害編集

 
1994年。復顔術によって生前の姿に顔面が再建された

イパチェフ館に監禁されていた元皇帝一家らは1918年7月16日の夜に眠りに付くが、遅い時間に起こされ、市内の情勢が不穏なので、家の地下に降りるように言われた。アレクサンドラやアレクセイを楽にさせるために他の家族は枕やバッグなどを運んで自分の部屋から出た。アナスタシアは家族の3匹の犬のうちの1匹、ジミーという名前のを連れて出た。写真を撮影すると言われ、自分とアレクセイのための椅子を求めていたアレクサンドラは彼女の息子の左に座っていた。ニコライ2世はアレクセイの後ろに立っていた。ボトキン医師がニコライ2世の右に立ち、オリガは彼女の姉妹や使用人達と一緒にアレクサンドラの後ろに立っていた。元皇帝一家らは約30分、支度に時間を掛けることを許された。銃殺隊が入室し、彼らを指揮するユロフスキーが殺害を実行することを発表した。オリガと彼女の家族はしばらく言葉にならない叫び声を上げていた。7月17日の早朝の時間帯だった[19]

最初の銃の一斉射撃によって父のニコライ2世、母のアレクサンドラ、料理人イヴァン・ハリトーノフフットマンアレクセイ・トルップが殺害され、ボトキン、マリア、メイドアンナ・デミドヴァが負傷した。その数分後に銃殺隊が銃撃を再開してボトキンが殺害された。殺害実行者の一人、ピーター・エルマコフ英語版が弟のアレクセイを銃剣で繰り返し刺殺しようと試みるが、衣服に縫い付けてあった宝石が彼を保護していたために失敗した。最終的にアレクセイはユロフスキーが頭部に向けて発射した2発の弾丸によって殺害された。ユロフスキーとエルマコフはお互い寄り添い合って母親の遺体がある方を向いて叫び声を上げながら、背面の壁にうずくまるオリガとタチアナに近付いた。エルマコフはオリガとタチアナの両者を長さ8インチの銃剣で刺したが、これも2人の衣服に縫い付けてあった宝石によって失敗した。2人が立ち上がって逃げようとしたところに、ユロフスキーがタチアナの背後から彼女の後頭部に向けて発射した一発の弾丸によってタチアナは即死した。その直後にオリガもエルマコフが彼女の頭部に向けて発射した弾丸によって死亡した[20][21]

聖人編集

オリガの遺体は最終的にはニコライ2世、アレクサンドラ、タチアナ、アナスタシアや4人の従者とともに殺害から80年後の1998年7月17日にサンクトペテルブルクペトル・パウェル大聖堂に安置された[22]

オリガは他の6人の家族とともに2000年にロシア正教会によって列聖された。これより20年近く前の1981年在外ロシア正教会によって聖なる殉教者として列聖されていた。

脚注編集

  1. ^ ロバート・K.マッシー (英語). Nicholas and Alexandra. Atheneum. p. 132-133 
  2. ^ The Real Tsaritsa” (英語). AlexanderPalace.org. 2014年4月2日閲覧。
  3. ^ 植田樹. 最後のロシア皇帝. ちくま新書. p. 91-92. ISBN 978-4480057679 
  4. ^ マイケル・ジョン・サリヴァン (英語). A Fatal Passion: The Story of the Uncrowned Last Empress of RussiaHardcover. Random House. p. 281. ISBN 978-0679424000 
  5. ^ マイケル・ジョン・サリヴァン (英語). A Fatal Passion: The Story of the Uncrowned Last Empress of Russia. Random House. p. 280 
  6. ^ OTMA's Camera - Tumblr” (英語). Otmacamera.tumblr.com. 2014年4月24日閲覧。
  7. ^ https://www.sakharov-center.ru/asfcd/auth/?t=page&num=12457
  8. ^ マーク・D. スタインバーグ, ヴラジーミル・M. フルスタリョーフロマーノフ王朝滅亡?革命期の政治の夢と個人の苦闘大月書店
  9. ^ https://statearchive.ru/assets/images/docs/n02/
  10. ^ The Fate of the Romanovs. Wiley. (4月21日 2008) 
  11. ^ Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 title は必須です。{{{title}}}”. statearchive.ru. 2022年12月30日閲覧。
  12. ^ Yurovsky Note 1922 English - Blog & Alexander Palace Time Machine”. www.alexanderpalace.org. ALEXANDER PALACE TIME MACHINE. 2022年11月11日閲覧。
  13. ^ Воспоминания коменданта дома Ипатьева Я.М. Юровского «Последний царь нашел свое место». Подлинник.”. statearchive.ru. Государственный архив Российской Федерации. 2022年11月11日閲覧。
  14. ^ ソコロフ Убийство царской семьи”. rus-sky.com. http://rus-sky.com/.+2022年11月11日閲覧。
  15. ^ Seven League Boots. Long Riders Guild Pr 
  16. ^ http://rus-sky.com/history/library/sokolov.htm#_Toc459375247 ソコロフ УБИЙСТВО ЦАРСКОЙ СЕМЬИ
  17. ^ ヘレン・ラパポート (英語). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 172. ISBN 978-0312603472 
  18. ^ ヘレン・ラパポート (英語). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 180 
  19. ^ ヘレン・ラパポート (英語). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 184-189 
  20. ^ グレッグ・キング (英語). The fate of the Romanovs. Wiley; 1 edition. p. 303 
  21. ^ ヘレン・ラパポート (英語). The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg. St. Martin's Griffin; Reprint edition. p. 190 
  22. ^ 17 July 1998: The funeral of Tsar Nicholas II” (英語). Romanovfundforrussia.org. 2006年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月24日閲覧。

関連項目編集