メインメニューを開く

オーロラの下で(オーロラのしたで)は、戸川幸夫による児童文学、及び1990年8月3日に公開された日本ソビエト連邦合作の映画である。

目次

小説編集

 初出は1971年度の学研の『4年の学習』誌連載。  1925年1月、アラスカ北部の都市ノームへ1,085km離れたネナナからわずか5日半でジフテリアの血清を犬橇でリレー急送した実話を下敷きにしている。主人公の狼犬“吹雪”が生まれる前のフィクションから始まり、狼の群れ内での成長譚が主だが、この吹雪が実話で血清移送の最終区画を担当した犬橇のリーダー犬として後世最も注目を集めるようになった“バルトー”となるという展開である。

映画編集

シベリアの広大な自然を舞台に、日本人マタギオオカミとの交流と友情を描く。DVDは2008年3月21日発売。

概要編集

岡田茂東映社長と『デルス・ウザーラ』などの製作者、モスフィルム所長ニコライ・シゾフとで「日本とソ連で四つに組んで合作をやろう」「世界に通用する映画を作ろう」と長い期間交渉を続け8年越しで実現した企画[1]

製作の経緯編集

1980年モスクワオリンピックにあたり、岡田とニコライ・シゾフの製作で、日本体育協会日本バレーボール協会のバックアップを得て、ソ連と東映の共同製作で『甦れ魔女』を製作した際に「次にちょっと大きなものをやりたい」という話が出て、バレエ映画や井上靖原作の「おろしや国酔夢譚」(1992年大映電通製作で映画化)などが候補に挙がったが、「バレエ映画は『赤い靴』に始まっていっぱいあるし、今作っても当たらない」などと岡田がやる気が起きず、岡田が直感的に思いついたのがシベリアオオカミを主人公にした映画、という企画だった[1]。ソ連側にオオカミの調教が出来るか、と問いただしたところ「出来る、間違いない、ソ連で保証する」と言い切るので製作を決めたという。監督は後藤俊夫がこの種の映画に打ってつけだろうと、ソ連側にも打診すると後藤の『マタギ』(1981年)をベルリン映画祭か何かで観ていて「彼なら撮れるだろう」と回答があった。その後、3、4年、本企画の打ち合わせで岡田は何回もモスクワに足を運び、本格的準備を始めた矢先にソ連側の役人が尋ねてきて、動物愛護団体の強い反対などがあってソ連としては製作出来ないと言ってきた。この時まで既に2000万円を使っていて、後藤以下スタッフも困り、やむなく後藤がかねがねやりたいと言っていた「マタギⅡ」『イタズ』(1987年)を二年がかりで作らせた。この時、後藤が戸川幸夫と親しくなり、戸川の隠れたベストセラー「オーロラの下で」の映画化権を買った。「オーロラの下で」は毎年ジワジワ売れ続け、当時で小中高校生向きで200万部出ていた[1]1925年アラスカで実際に起こった事件で、人間にはまったく馴れ親しまないといわれるオオカミが、大自然の中の孤島というような小さな寒村を襲った伝染病の脅威から子供たちをオオカミが救ったという実話。今もニューヨークセントラルパークにそのオオカミの銅像が立っているという。それらのシチュエーションをシベリアに置き換えてソ連に再提示したところ好感触を得た。またゴルバチョフ政権によるペレストロイカなどがあり、一線を退くニコライ・シゾフが長年の友人・岡田への置き土産と方々に根回しをしてくれ、8年越しで製作に漕ぎ着けることが出来た[1]

逸話編集

制作費は10億円と発表された。うち肉代が7000万円。オオカミ何十頭を飼育するのに冷凍肉ではダメで、血がしたたる肉でなければダメというソ連側の説明だった。またオオカミは飼育されているものが既にいるわけではなく、シベリアの原野に棲息しているのを捕まえることから始める。その後、調教を少しずつ行うが、映画でソリを引くことになる白銀のオオカミは飼育犬と野生のオオカミを合わせた混血のオオカミを使った。捕獲→飼育→撮影と3年がかりの計画であった。オオカミを馴らすという試みは当時世界でソ連しかやっておらず、いかにオオカミを馴らすかが見所の一つとなる。製作に当たりソ連側から「(オオカミの調教を)やります、やれます」と回答があり、テレビ朝日田代喜久雄社長が大の愛犬家と聞いて、オオカミを一匹差し上げます、という申し出があり、困惑したが、結局貰うことになり、上野動物園に寄贈したという[1]。オオカミの飼育はリトアニアヴィリニュスで行われた。またソ連時代のシベリア、ツンドラ地帯での撮影というのも大きな見所。シベリアの大自然の実態はあまり知られておらず、冬は零下30度、夏は気温40度にもなり、夏はアブぐらいの大きさの雲霞の如く襲ってきて顔を食いちぎられるといわれた過酷な環境であった[1]

世界配給ということでテリトリーでも揉めた。大雑把な割り振りとして共産圏はソ連、自由圏は日本としたが、市場規模の大きいアメリカと欧州の割り振りで両者譲らずで収拾がつかず、結局、岡田が「フランスだけは渡す、イタリアはこっち」という風に一つずつ決めていったという[1]

プロモーション編集

東映と提携して製作出資したテレビ朝日、製作意図に賛同してキャンペーン協力した朝日新聞。2社の電波と活字を有機的に組み合わせた相乗効果を意図的に狙った宣伝キャンペーンが物をいい大ヒットした[2]。配給収入は11億円[3]。前売り券の販売数は100万枚[4]

受賞記録編集

キャスト編集

スタッフ編集

脚注編集

  1. ^ a b c d e f g 『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』文化通信社、2012年、224-233頁
  2. ^ 『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』、246-247頁
  3. ^ 1990年配給収入10億円以上番組 - 日本映画製作者連盟
  4. ^ サンデー毎日』1990年10月7日号、156頁。

外部リンク編集