カイロ会談
カイロ会談(カイロかいだん、英語: Cairo Conference)、またはセクスタント作戦(セクスタントさくせん、英: Operation Sextant[1])は第二次世界大戦中の1943年11月22日から11月26日にかけてエジプト王国のカイロで行われた会談。連合国の対大日本帝国方針と戦後のアジアに関する決定がなされた。
概要編集
カイロ会談は三大ピラミッド近くにあるエジプト駐在アメリカ大使アレクサンダー・カークの邸宅で行われ[2]、会談の参加者はアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主席蔣介石の3人だった。ソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンはソ連と日本の関係を配慮して、蔣介石との面会を回避したため会談には参加しなかった(1941年の日ソ中立条約では5年間の相互不可侵が定められており、1943年時点では中華民国、イギリス、アメリカが日本との戦争状態に突入していたが、ソ連と日本の間は戦争状態ではなかった)。
アメリカはフランスがフランス領インドシナを取り戻すのを望まなかったため、蔣介石にインドシナの支配権を与えようとしたが拒否された[3]。
1943年11月27日にカイロ宣言が発された後、12月1日にはラジオを通じて「カイロ・コミュニケ」(Cairo Communiqué)が発され[4]、連合国が日本の無条件降伏まで軍の配備を続ける(軍事行動を継続する)と宣言した。カイロ宣言では三大国(米英中)が戦争を通じて日本の野心を挫け、懲罰しようとし、自身は利益を受けず戦後に領土拡張に加わることもないと宣言、「日本は1914年の第一次世界大戦開戦以来太平洋で奪取、占領した全ての島嶼を没収される」、「日本が中国人から盗んだ、満州、台湾、澎湖を含む全ての領土は中華民国に返還される」と述べた。また、日本は暴力と貪欲で奪取した全ての領土から排除され、「朝鮮は適当な時に自由と独立を得る」とも述べた。
カイロ会談の終結から2日後、スターリンはイラン帝国のテヘランでルーズベルト、チャーチルと会談した(テヘラン会談)。
蔣介石はカイロ会談で、ルーズベルト大統領に高麗の返還を要求しており、ルーズベルト大統領は、この要求を拒んでいるが、朝鮮人は属国であることにマヒしており、「朝鮮省」設置を「小中華」から「大中華」へ昇格したと恩恵と謝恩を感じており、特に中国人になりたくてもなれなかった両班にとっては願ってもない恩寵と感じていた[5]。壬午軍乱に際して、呉長慶は清の東三省と朝鮮半島で守りを固めれば怖いものなしとして、「遼東三省と左堤右挈し、実に東方の一大塀障」と述べており、清の伝統的な属国であったベトナムはフランスに横取されたが、残る伝統的属国の李氏朝鮮は、もう誰にも渡すわけにはいかず、李氏朝鮮に介入している日本やロシアに対抗するために、指導と管理を強化し、新疆や台湾のように、中国の正式な領土にするため「朝鮮省」を設立して郡県制とする断行案を検討し、列強諸国に対して「朝鮮は清の固有領土だ」とアピールし[6]、清末民初の政治家である張謇は『朝鮮善後六策』において、朝鮮は漢の時代は中国の植民地(漢四郡)であったから、李氏朝鮮王を廃止して監国にして属藩とし、清の東三省に朝鮮省を含めて「東四省」にすることで李氏朝鮮を併合し、「あるいは内政の自己改革と新軍の訓練を、我が東三省とつらねて、一気と為す」と上申しているが、張謇が『朝鮮善後六策』において提案した、清の東三省に朝鮮省を含めて「東四省」にして、清が李氏朝鮮国王を廃止して監国にするという政策は、清以前にもあり、朱元璋は李氏朝鮮を建国した李成桂に国王の地位を下賜しなかったのもその一例であり、中国人からすれば、朝鮮は漢の時代から中国の一部であり、例えば中国の歴代王朝の封国は、呉楚七国の乱の呉(劉濞)や楚(劉戊)が知られるが、朝鮮はそれよりもさらに一段下の外様大名としか見られておらず、そもそも中国人からすれば朝鮮をつくったのは中国人の箕子であると考えており、張謇の『朝鮮善後六策』のような考え方は、中国人の一般的な伝統的朝鮮属国観であり、蔣介石の「高麗返還要求」はまさにそのような中国人の一般的な伝統的朝鮮属国観を如実に示している[5]。
日本国内の報道編集
日本国内ではカイロ会談を徹底的に批判する報道がなされた。 1943年(昭和18年)12月2日の朝日新聞(夕刊)では、カイロ会談を「敵米英はかかる南太平洋の痛撃に遭い、かつまた大東亜結集がますます不抜の堅陣を形成するに至った大東亜戦局に多大な焦燥を感じ、短期作戦を豪語する対日作戦の重大破綻に直面(略)ついに太平洋戦局再検討のため急遽カイロに相会し、蒋介石も招致してカイロ三国会談を開催するに至った。」「実に日本をして三等国に転落せしめんとする日本本土処理にまで言及した侮辱的決議である。」などと報じた[7]。
脚注編集
- ^ Churchill, Winston Spencer (1951). The Second World War: Closing the Ring. Houghton Mifflin Company, Boston. pp. 642
- ^ Busch, Noel F. (August 13, 1945). “Alexander Kirk” (英語). LIFE 2011年1月23日閲覧。.
- ^ “Indochina, France, and the Viet Minh War, 1945-1954: Records of the U.S. State Department, Part 1: 1945-1949”. 2018年11月10日閲覧。
- ^ “カイロ宣言 1943年12月1日”. 国立国会図書館. 2018年12月22日閲覧。
- ^ a b 黄文雄 『もしもの近現代史』扶桑社、2013年8月31日、76頁。ISBN 978-4594068738。
- ^ 黄文雄 『日本の植民地の真実』扶桑社、2003年10月31日、141頁。ISBN 978-4594042158 。
- ^ 米・英・中首脳、対日戦の最終目標協議(昭和18年12月2日 朝日新聞(夕刊))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p43 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
参考文献編集
- Heiferman, Ronald Ian (2011) (英語). The Cairo Conference of 1943: Roosevelt, Churchill, Chiang Kai-shek and Madame Chiang. Jefferson, NC: McFarland & Company
- Sainsbury, Keith (1986) (英語). The Turning Point: Roosevelt, Stalin, Churchill, and Chiang Kai-Shek, 1943: The Moscow, Cairo, and Teheran Conferences. Oxford: Oxford University Press
- Leighton, Richard M. (1960). “Chapter 10: Overlord Versus the Mediterranean at the Cairo-Tehran Conferences”. In Kent Roberts Greenfield (英語). Command Decisions. United States Army Center of Military History. CMH Pub 70-7
関連項目編集
- 第2回カイロ会談 - 1943年12月4日から6日までの会談
- 日中戦争
- 第二次世界大戦の会談・会議
- 朝鮮半島分断