カシアス・マーセラス・クレイ (政治家)

カシアス・マーセラス・クレイ(Cassius Marcellus Clay、 1810年10月19日 - 1903年7月22日)は、アメリカ合衆国ケンタッキー州の農場主、政治家であり、奴隷制廃止のために活動した人物である。ケンタッキー州の共和党の創設メンバーである。エイブラハム・リンカーン大統領から駐ロシア全権公使に任命され、南北戦争におけるロシア帝国北軍への支持を取り付けた。「ホワイトホールのライオン」(Lion of White Hall)の愛称で親しまれた。

カシアス・マーセラス・クレイ
Cassius Marcellus Clay
Cassius Marcellus Clay.jpg
在ロシア帝国アメリカ合衆国特命全権公使
任期
1863年5月7日 – 1869年10月1日
大統領エイブラハム・リンカーン
アンドリュー・ジョンソン
ユリシーズ・S・グラント
前任者サイモン・キャメロン
後任者アンドリュー・グレッグ・カーティン英語版
任期
1861年7月14日 – 1862年6月25日
大統領エイブラハム・リンカーン
前任者ジョン・アップルトン
後任者サイモン・キャメロン
ケンタッキー州下院議員
任期
1835年 – 1841年
個人情報
生誕 (1810-10-19) 1810年10月19日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ケンタッキー州マディソン郡
死没1903年7月22日(1903-07-22)(92歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ケンタッキー州マディソン郡
政党共和党 (1854–70; 1884–1903)
自由共和党英語版 (1870–72)
民主党 (1872–84)
配偶者
Mary Jane Warfield
(m. 1833; div. 1878)

Dora Richardson
(m. 1894; div. 1897)
子供Elisha Warfield Clay
Green Clay
Mary Barr Clay英語版
Sally Clay
Laura Clay英語版
Brutus J. Clay II英語版
Anne Clay
David Kevin Clay(養子)
出身校トランシルヴァニア大学英語版
イェール大学イェール・カレッジ英語版
職業弁護士、政治家、新聞発行者、兵士、農場主
著名な実績奴隷解放運動
在ロシア帝国アメリカ合衆国特命全権公使
宗教会衆派教会
兵役経験
所属組織第1ケンタッキー騎兵隊
軍歴1846–1847
1861–1863
最終階級Union army cpt rank insignia.jpg 大尉
Union Army major general rank insignia.svg 少将
戦闘米墨戦争
南北戦争

若年期と家系編集

カシアス・マーセラス・クレイは、ケンタッキー州で最も裕福な農場主で奴隷所有者だったグリーン・クレイ英語版とサリー・ルイスとの間に生まれた。グリーンとサリーの間には7人の子供がおり、成人まで生き残ったのはそのうち6人だった。

クレイ家はケンタッキー州において大規模で影響力のある政治家一族だった。父グリーンも後に政治家となった。兄のブルータス英語版は州議員を経て連邦議員となった。いとこには、ケンタッキー州の政治家ヘンリー・クレイアラバマ州知事クレメント・コーマー・クレイ英語版がいた。妹のエリザベスはジョン・スピード・スミス英語版と結婚し、スミスもまた州議員を経て連邦議員となった[1]。エリザベスの息子のグリーン・クレイ・スミス英語版もまた連邦議員になった。

教育編集

クレイはトランシルヴァニア大学英語版を経て1832年にイェール大学イェール・カレッジ英語版を卒業した。イェール大学在学中に、奴隷制廃止論者のウィリアム・ロイド・ガリソンの講演を聞き、それに触発されて反奴隷運動に参加した。ガリソンの主張はクレイにとって「のどの渇いた旅人にとっての水のようなもの」であった[2]。クレイは政治的には漸進主義者であり、ガリソンやその支持者たちのように奴隷制の即時の廃止を求めるのではなく、段階的な法改正を支持していた[3]

政治的活動編集

クレイは初期の南部開拓者であるが、著名な反奴隷運動家となった。クレイはケンタッキー州の州議会議員として、また共和党の初期メンバーとして、奴隷解放に向けて活動した[3]

クレイはケンタッキー州下院議員に3回当選した[4]が、奴隷制廃止を推進したことにより、奴隷制支持者の多いケンタッキー州での有権者の支持を失った。クレイの反奴隷活動に対し、暴力に訴える者も現れた。1843年の政治討論会の最中に、奴隷制支持者に雇われた殺し屋のサム・ブラウンがクレイを射殺しようとした。クレイが携帯していたボウイナイフの鞘の先端には銀が使われており、暴漢に反撃するためにボウイナイフを抜いた際、鞘が心臓の位置の前になるようにポケットに入れた。ブラウンの銃弾は鞘に命中し、銀の部分に食い込んだ。その後、クレイはブラウンにタックルし、ボウイナイフでブラウンの鼻と片目、耳をえぐり取り、ブラウンを堤防から投げ落とした[5][6]

1845年、クレイはケンタッキー州レキシントンで反奴隷運動の新聞『トゥルー・アメリカン英語版』の発行を始めた。創刊から1か月もしないうちに殺害の脅迫を受けたため、武装を余儀なくされ、新聞社の事務所の入口を装甲扉にして普段は閉じておくようにし、中には4ポンド砲を2基設置した。その直後、約60人の暴徒が新聞社に押し入り、印刷機を奪っていった。事業を守るために、クレイは新聞社の拠点をオハイオ州シンシナティに移したが、自身はケンタッキー州に住み続けた[3]

クレイは1846年から1847年まで第1ケンタッキー騎兵隊の大尉として米墨戦争に従軍した。クレイはテキサス併合南西部への奴隷制の拡大に反対した。1849年、奴隷制廃止の演説をしていたクレイを、ターナー家の6人兄弟が襲撃した。クレイは6人全員を撃退し、ボウイナイフでサイラス・ターナーを殺害した[6]

1853年、クレイはマジソン郡内の10エーカーの広大な土地を奴隷制廃止論者のジョン・グレッグ・フィー英語版に譲渡した。フィーはそこにベレア英語版の町を設立し、1855年には全ての人種に開かれたベレア大学英語版を設立した[7]

クレイと北部の奴隷制反対運動とのつながりは強固だった。クレイはケンタッキー州における共和党の創設者である。また、エイブラハム・リンカーンの友人であり、1860年の大統領選でリンカーンを支持した。クレイは1860年の共和党全国大会に副大統領候補として立候補した[3]が、ハンニバル・ハムリンに敗れた。

南北戦争とロシアへの派遣編集

 
ホワイトハウスの前のクレイの大隊(1861年4月)

1861年3月28日、リンカーン大統領はクレイをサンクトペテルブルクのロシア宮廷への特命全権公使に任命した。クレイがロシアへ出発する前に南北戦争が始まった。当時ワシントンD.C.には連邦軍がいなかったため、クレイはホワイトハウスワシントン海軍工廠を南軍の攻撃から守るために300人の志願兵を組織した。この部隊は「カシアス・M・クレイのワシントン警備隊」として知られている。リンカーン大統領はその功績を称えて、クレイにコルト製リボルバーを贈った。連邦軍がワシントンD.C.に到着すると、クレイは家族とともにロシアに向けて出発した[8]

 
ボストンを訪問するロシアのフリゲート(1863年)

ロシアにおいてクレイは、ロシア皇帝アレクサンドル2世農奴解放令を発するのを目撃した。1862年、リンカーンは北軍少将として南北戦争に従軍させるためにクレイを呼び戻したが、クレイは、リンカーンが南軍の支配下にある奴隷の解放に同意しない限りその任務を拒否すると公然と表明した。リンカーンはクレイをケンタッキー州などのアメリカ連合国に接している州に派遣し、奴隷解放の実施可能性について調査させた。クレイがワシントンD.C.に戻った後、リンカーンは1862年末に奴隷解放宣言を公布し、1863年1月に発効した[9]

クレイは1863年3月にロシアに戻り、1869年まで公使として勤務した[3]。クレイは、アラスカ購入の交渉にも影響力を発揮した[10]

また、クレイは在ロシア全権公使として、ロシアからの北軍への援助を取り付けることに尽力した[11]。ロシアは北軍の支援に乗り出し、イギリスやフランスがアメリカ連合国(南軍)を正式に認めれば両国に対し宣戦すると脅した。

皇帝アレクサンドル2世は、大西洋と太平洋に展開するロシア艦隊に密書を送った上で、それぞれアメリカの東海岸と西海岸に派遣した。密書は、イギリスとフランスが南軍側で参戦した場合にのみ開封するようにと指示されていた[12]。ロシアの大西洋艦隊がニューヨーク港に入港したとき、海軍長官ギデオン・ウェルズは日記にこう書いている。

この国にこれらの船を送ることには、何らかの重要な意味がある。それがフランスとその政策にどのような影響を及ぼすのか、我々はそのうちに知ることになるだろう。それは穏健なものかもしれないし、悪化するかもしれない。ロシアに神のご加護のあらんことを。

皇帝アレクサンドル2世の南北戦争におけるこの行動は、ペンシルバニア州のウォートン・バーカー英語版によって1904年に明らかにされた。彼は1878年にロシア政府の米国における金融エージェントであった[13]

その後の政治的活動編集

その後クレイは、ホセ・マルティキューバ独立運動を支援するために、キューバ慈善援助協会を設立した。また、鉄道の国有化に賛成し、後には実業家による権力の行使に反対する発言をした。

1869年、クレイは共和党を離党した。クレイは、ユリシーズ・S・グラント大統領によるハイチへの軍事干渉英語版[14]リンカーン暗殺後の共和党急進派による水増しされた復興政策に反対していた[3]

1872年、クレイは自由共和党英語版の設立者の一人に名を連ねた。1872年の大統領選挙ホレス・グリーリーを大統領候補にするのに貢献した。1876年1880年の大統領選挙では民主党の候補者を支持した。1884年の大統領選挙で共和党に復帰した[3]

晩年編集

クレイは反逆者であり戦士であるとみなされていた[15]。生活を脅かされていたため、クレイは普段から拳銃2丁とナイフを持ち歩いていた。また、自宅と職場を守るために大砲を設置した[15]

1890年のケンタッキー州憲法を改定する議会で、クレイが議長に選出された[16]

カシアス・クレイは1903年7月22日、全身疲労のため自宅で死去した。

私生活編集

1833年、クレイはケンタッキー州レキシントンの医師エリシャ・ワーフィールド英語版の娘のメアリー・ジェーン・ワーフィールド英語版と結婚した[17]。2人の間には10人の子供が生まれたが、そのうち成人まで成長したのは6人だった。

  • エリシャ・ワーフィールド・クレイ (Elisha Warfield Clay, 1835 - 1851)
  • グリーン・クレイ (Green Clay, 1837 - 1883)
  • メアリー・バー・クレイ英語版 (Mary Barr Clay, 1839 - 1924)
  • サラ・ルイス・クレイ・ベネット (Sarah "Sallie" Lewis Clay Bennett, 1841 - 1935)
  • カシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア (Cassius Marcellus Clay, Jr., 1843 - 1843)
  • カシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア (Cassius Marcellus Clay, Jr., 1845 - 1857)
  • ブルータス・ジュニアス・クレイ2世英語版 (Brutus Junius Clay II, 1847 - 1932)
  • ローラ・クレイ英語版 (Laura Clay, 1849 - 1941)
  • フローラ・クレイ (Flora Clay, 1851 - 1851)
  • アン・クレイ・クレンショー (Anne Clay Crenshaw, 1859 - 1945)

後にレオニード・ペトロフ(後にレオニード・ヘンリー・クレイ(Leonide Henry Clay)に改名)を養子とした[18]。レオニードは、ロシア滞在中にクレイの不倫により生まれた子供とされている[19]

子供達のうち、ローラとメアリーは女権拡張活動家となった[20]

1878年、45年間連れ添ったメアリー・ジェーンと離婚した。クレイの不倫に妻が耐えられなくなったためと主張した[21]

1894年、84歳のクレイはドーラ・リチャードソン(Dora Richardson, 1880 - 1914)[22]と結婚した。ドーラは当時15歳の孤児で、クレイが所有する農場の分益小作人だった。しかし、1897年に離婚した。

影響編集

ホワイトホール編集

 
ホワイトホール

彼の実家であるホワイトホール英語版は、ケンタッキー州によって州の歴史的建造物として維持されている。

モハメド・アリ編集

ケンタッキー州に住むアフリカ系アメリカ人奴隷の子孫であるハーマン・ヒートン・クレイは、クレイの死の9年後に生まれた息子に、同郷の奴隷解放主義者であるクレイにあやかって、全く同じカシアス・マーセラス・クレイという名前をつけた[23][24]。このカシアス・クレイは、自分の息子にも同じ名前をつけた。このカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニアは、後に世界ヘビー級チャンピオンのプロボクサーとなり、イスラム教に改宗した後にモハメド・アリと改名した[25][26]。アリはイスラム教に改宗した後、それまでの自分の名前は「奴隷の名前」であり、「自分で選んだわけではないし、望んでもいない」と述べた。アリは自伝の中で、「(自分の名前の由来となった)クレイは奴隷を解放したかもしれないが、彼は白人至上主義にしがみついていた」と書いた。そして、アリは、改名に至った理由を次のように述べた。「なぜ私は、(私につけられた)白人の奴隷主人の名前は常に見えるようにして、黒人の祖先は見えないまま、知らないまま、名誉を与えられないままにしなければならないのだ?」[27][28][29]

著作編集

関連項目編集

脚注編集

  1. ^ "KOAR's Russian Connection" Archived 2018-11-12 at the Wayback Machine., Kentucky Online Arts Resource Blog, 15 October 2012
  2. ^ Brennan 20
  3. ^ a b c d e f g Chisholm 1911.
  4. ^ Kestenbaum, Lawrence. “The Political Graveyard: Index to Politicians: Clarke-street to Claytee”. 2010年11月29日閲覧。
  5. ^ Lockwood, John (2011). The Siege of Washington. Oxford University Press. p. 95. https://archive.org/details/siegeofwashingto0000lock 
  6. ^ a b David Borgenicht; Turk Regan (2010). The Worst-Case Scenario Almanac: Politics. The Worst-Case Scenario Survival Handbook. Chronicle Books. pp. 94–. ISBN 978-0-8118-7359-8. オリジナルの2014-06-27時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140627143254/http://books.google.com/books?id=cTuoRnaZ0FMC&pg=PA94 2021年2月15日閲覧。 
  7. ^ Berea.edu”. 2011年6月15日閲覧。
  8. ^ Clay, Memoirs, pp. 260–264
  9. ^ Clay, Memoirs, pp. 305–312
  10. ^ Frank A. Golder. The Purchase of Alaska. Archived 2016-12-21 at the Wayback Machine. The American Historical Review, Vol. 25, No. 3 (April 1920), pp. 411–425.
  11. ^ Richardson, H. Edward (1976). Cassius Marcellus Clay: Firebrand of Freedom. Lexington: University Press of Kentucky. pp. 89–92 
  12. ^ Webster G. Tarpley: Speech for 150th Anniversary of Russian Fleets of 1863 Archived 2013-09-27 at the Wayback Machine., National Press Club, 27 September 2013
  13. ^ "American Banker Wharton Barker's First-Person Account Confirms: Russian Tsar Alexander II Was Ready for War with Britain and France in 1862–1863 to Defend Lincoln and the Union" Archived 2013-09-28 at the Wayback Machine., (March 24, 1904), Webster G. Tarpley website
  14. ^ Clay, Memoirs
  15. ^ a b "Clay, Cassius Marcellus", by Frank L. Klement, in The World Book Encyclopedia, Chicago: World Book Inc, 1984
  16. ^ Official Report of the Proceedings And Debates In the Convention Assembled At Frankfort, On the Eighth Day of September, 1890, to Adopt, Amend, Or Change the Constitution of the State of Kentucky. Frankfort, Kentucky: E. P. Johnson, printer to the Convention. (1891). p. 25 
  17. ^ Smiley, David L. (1962). Lion of White Hall: the life of Cassius M. Clay. Madison: University of Wisconsin Press. p. 31. https://archive.org/details/lionofwhitehalll0000smil 
  18. ^ Leonide Henry “Launey” Clay (1866-1933)”. Find A Grave Memorial. 2021年2月15日閲覧。
  19. ^ Richardson, H. Edward (1976). Cassius Marcellus Clay: Firebrand of Freedom. Lexington: University Press of Kentucky. p. 145 
  20. ^ Newspaper article, Death Has Gripped Gen. Cassius Clay Archived 2012-11-04 at the Wayback Machine., Atlanta Constitution, July 23, 1903
  21. ^ Cassius Marcellus Clay, The Life of Cassius Marcellus Clay: Memoirs, Writings, and Speeches, showing ..., p. 542
  22. ^ Dora Richardson (1880-1914)”. Find A Grave Memorial. 2021年2月15日閲覧。
  23. ^ Muhammad Ali Never Knew Grandfather Was Jailed for 25-Cent Murder”. Real Clear Politics (2016年6月13日). 2019年12月15日閲覧。
  24. ^ Anna Rohleder. “Muhammad Ali's Boxing Day Gloves”. Forbes. https://www.forbes.com/2001/12/19/1219pow.html 2008年8月6日閲覧。 
  25. ^ "Muhammad Ali" Archived 2011-01-17 at the Wayback Machine., Biography Online
  26. ^ "From the Vietnam war to Islam – the key chapters in Ali’s life," Kevin Mitchell, The Guardian, 4 June 2016 Archived 2 February 2018 at the Wayback Machine., accessed 1 Feb 2018
  27. ^ History website, Muhammad Ali: "Cassius Clay is my slave name"”. BBC. 2013年7月2日閲覧。
  28. ^ https://news.yale.edu/2016/06/09/muhammad-ali-originally-named-ardent-abolitionist-and-yale-alumnus-cassius-clay. Muhammad Ali originally named for ardent abolitionist and Yale alumnus Cassius Clay. http://news.yale.edu/. Susan Gonzalez. Date: june 9, 2016.
  29. ^ https://archive.nytimes.com/www.nytimes.com/books/98/10/25/specials/ali-heritage. Heritage of a Heavyweight. http://nytimes.com/. John Egerton. Accessed: March 18, 2020.
Attribution

Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Clay, Cassius Marcellus" . Encyclopædia Britannica (英語). 6 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 470.

参考文献編集

外部リンク編集

外交職
先代:
ジョン・アップルトン
在ロシア帝国アメリカ合衆国特命全権公使
1861年7月14日 - 1862年6月25日
次代:
サイモン・キャメロン
先代:
サイモン・キャメロン
在ロシア帝国アメリカ合衆国特命全権公使
1863年3月11日 - 1869年10月1日
次代:
アンドリュー・グレッグ・カーティン英語版