カブルトゥQabultu、? - ?)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人。『元史』などの漢文史料では哈八児禿(hābāértū)と記される。

概要 編集

カブルトゥはモンゴル部族の一つ、スニト(薛亦)氏の出身であった。カブルトゥはモンケ・カーンの南宋親征に従軍したのを皮切りに、親王タガチャル麾下での帝位継承戦争への参加で功績を挙げ、最期には南宋平定中に亡くなった。

カブルトゥの息子チャガンは父の後を継いで南宋平定に従軍し、襄陽・樊城の戦いなどで功績を挙げた。その後も南宋各地で転戦し、屯田千戸やダルガチなどを務めた後、1301年(大徳5年)に亡くなった。チャガンの死後は息子のタイナル(太納)が後を継いだ。 [1]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻123列伝10哈八児禿伝,「哈八児禿、薛亦氏。憲宗時、従攻釣魚山有功。還、又従親王塔察児北征、充千戸所都鎮撫。従千戸脱倫伐宋、没於陣。子察罕、従塔察児攻樊城西門、領揚州等処遊撃軍与宋兵戦、有功。至元十一年、従忽都帖木児攻江陵東南城堡、又従阿剌罕敗宋兵於陽邏堡之南。阿剌罕選為本万戸府副鎮撫。十二年、分隸脱脱総管、出廣徳遊撃軍、与宋兵戦、敗之、賜以白金酒器。又従攻独松・千秋・撥出等関及諸山寨、其降民悉綏撫之、賜白金一百両。十三年、中書省檄為瑞安県達魯花赤。始至、招集逃移民十万餘戸。十四年、升忠顕校尉・管軍総把、並領新附軍五百人、従宣慰唐兀台戦於司空山、有功、命以其職兼都鎮撫。俄選充侍衛親軍。十六年、授銀符・忠武校尉・管軍総把。二十四年、賜金符、授承信校尉・蒙古衛軍屯田千戸。二十五年、進武義将軍・本所達魯花赤。二十七年、升左翼屯田万戸府副万戸。大徳五年卒。子太納襲」

参考文献 編集