カラサン寺院(カラサンじいん、チャンディ・カラサン、ジャワ語: ꦕꦤ꧀ꦝꦶꦏꦭꦱꦤ꧀, Candhi Kalasanインドネシア語: Candi Kalasan〈別名 Candi Kalibening[1])は、インドネシアジャワ島中部にある8世紀仏教寺院である。ジョグジャカルタ市の東約13キロメートルに位置し、プランバナン寺院群に向かうジョグジャカルタとスラカルタ(ソロ)を結ぶ幹線道路ジャラン・ソロ (Jalan Solo) 付近にある。行政区域としては、ジョグジャカルタ特別州スレマン県英語版カラサンインドネシア語版地区の村 Tirtomartani の Kalibening に位置する[1]

カラサン寺院
チャンディ・カラサン
Candhi Kalasan
Candi Kalasan
カラサン寺院 地図
カラサン寺院の位置(ジャワ島内)
カラサン寺院
ジャワ島における位置
カラサン寺院の位置(インドネシア内)
カラサン寺院
カラサン寺院 (インドネシア)
基本情報
座標 南緯7度46分2.3秒 東経110度28分20.4秒 / 南緯7.767306度 東経110.472333度 / -7.767306; 110.472333座標: 南緯7度46分2.3秒 東経110度28分20.4秒 / 南緯7.767306度 東経110.472333度 / -7.767306; 110.472333
宗教 仏教
宗派 大乗仏教
地区 スレマン県英語版カラサンインドネシア語版
ジョグジャカルタ特別州
インドネシアの旗 インドネシア
教会的現況 遺跡
建設
創設者 ラカイ・パナンカラン英語版
完成 創建778年(増拡9世紀)
建築物
正面
横幅 基壇 47 (45) m
奥行 基壇 47 (45) m
最長部(最高) 34m
資材 石材漆喰
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歴史 編集

 
カラサン碑文英語版(西暦778年)

ナーガリー文字を用いたサンスクリットによって西暦778年に記されたカラサン碑文英語版によると[2]、寺院は、女神(菩薩boddhisattvadeviターラー: tārā多羅菩薩)の神聖な建造物(: tārābhavanam)として[3][4]ラカイ・パナンカラン英語版(マハーラージャ・パナンカラナ〈mahārāja Panaṁgkaraṇa〉、別の部分ではラクルヤン・パナンカラナ〈rakryan Panaṁgkaraṇa〉とも[5])を説得した王師 rājaguru[6]Guru Sang Raja Sailendravamçatilaka: the ornament of the Sailendra dynasty、「シャイレーンドラ朝の宝石」の意〉)の意向により建立された[7][8]。併せてシャイレーンドラ家領内の僧侶のためにヴィハーラ僧院)が建てられ、パナンカランはカラサンの村をサンガ(僧伽〈仏教徒の共同体〉)に与えた[9][10]

カラサン碑文に記された年代に従えば、カラサン寺院は、ケウ平原英語版(プランバナン平野)に建てられた寺院のうち最古のものである[11]。その後、この仏教寺院は2度の増拡(マウルディ[12]〈mawṛddhi[13]〉)により改変されている[14]。創建時の祠堂は矩形(くけい)であり、8世紀末まで存続したが、その後十字形に増拡され、2度目の増拡がボロブドゥール寺院の増築と同時代(820年頃)[15]9世紀前半[16]、もしくはそれより遅い850-870年になされたともいわれる[17]。当初の祠堂は現存する主祠堂に内包されており、その主祠堂は、オランダ植民地時代の1927-1929年に修復され、部分的に復元されているが、不明な部分は残されて未完のままである[18]

構成 編集

現在に見られる寺院は、47メートル (45m[10]) 四方の低い基壇上にある。主祠堂は、四方に突出した側室を備えた十字形で[18]、曲折する多角形として構築されている[19]。東を正面として、四方にはそれぞれカーラ・マカラ (Kala-Makara) により装飾された[18]階段と扉があり、そこに3.5メートル四方の側室がある[20]。北、西、南面の側室には彫像はないが、後壁の台座により[20]、側室にはかつて仏像があったことが示唆される。

東正面の側室からは祠堂中央にある7.5メートル四方の主室に通じており、その後壁には大きな台座がある[20]。台座はムンドゥット寺院(チャンディ・ムンドゥット、: Candi Mendut)に見られる高さ3メートルの仏倚像の台座に似る[21]。カラサン碑文によると、この寺院にはかつて女神(菩薩、boddhisattvadevi)ターラー(多羅菩薩)の像が安置されていた[22]。今日、像は失われているが、台座の設計や大きさにより、おそらく女神像はムンドゥット寺院の像と同じく椅子に腰を掛けた倚像(いぞう)であったとされる。しかし、高さは6メートルに達したものと考えられ、また、石像ではなく青銅によるものであったとも考えられている[23]

 
南壁面の入口にある巨大な鬼面カーラ英語版
 
鬼面カーラの彫刻とスヴァロカの諸神で飾られた周囲の壁龕

寺院には見事な浮彫り装飾が施され、入口の上部にあるカーラ英語版の鬼面は、一千年前のジャワ美術における一大傑作といわれ[24]、特に南面の扉の上にある巨大なカーラの鬼面は広く知られる[16]。鬼面の下の階段の左右にはマカラがあり、その口中に獅子が配されている[25]。また、南北入口の左右で「トリヴァンガ」(“Trivanga”〈三屈法〉[26])の姿勢をとるドヴァーラパーラの彫像も注目に値する[27]

祠堂の内・外には、仏像が安置されたであろう壁龕が見られる[16]。周囲の壁龕にはカーラとともに、神々やアプサラスガンダルヴァのいる天宮スヴァロカ (Svarloka〈Svarga Loka〉) の諸神の姿が複雑に刻まれ、外壁面を装飾している。寺院の外壁には、白色の漆喰vajralepabajralepa[10])の痕跡が認められ、これは近隣のサリ寺院(チャンディ・サリ、: Candi Sari)においても見られるものである[28]

主祠堂の屋蓋(屋根)は3つの部分からなる。下部はまだ身舎の多角形に従っており、そこにはハスに座った仏像の小さな壁龕が見られる。これらの壁龕はそれぞれ仏塔(ストゥーパ)を冠している。屋蓋の中間部分は八角形(八面体)となる。この壁龕により装飾された8面には、2体の仏像が両脇に立つ如来像などがある[29]。屋蓋の上部はほぼ円形で、1つの大きな仏塔(仏舎利塔)を冠していた。主祠堂全体の高さは34メートルにおよぶ[10]

カラサン寺院は、考古学的に豊かなケウ平原(プランバナン平野)に位置しており、寺院のほぼ北側[28](北北東)わずか600メートルの位置にサリ寺院(チャンディ・サリ)がある[1]。サリ寺院は、おそらくカラサン碑文にあるヴィハーラ(僧院)であったと考えられている[30]。さらに東側には、プランバナン寺院複合体(チャンディ・プランバナン、: Candi Prambanan)、セウ寺院(チャンディ・セウ、: Candi Sewu)、プラオサン寺院(チャンディ・プラオサン、: Candi Plaosan)などがある。

脚注 編集

  1. ^ a b c Degroot (2009), p. 263
  2. ^ 伊藤奈保子「ジャワの Vairocana 仏像 : 小金銅仏を中心として」『佛教文化学会紀要』第1997巻第6号、佛教文化学会、1997年、99-129頁、2020年3月3日閲覧 
  3. ^ デュマルセ (1996)、37頁
  4. ^ Jordaan (1998), p. 163
  5. ^ 岩本裕ボロブドールの仏教」(PDF)『東洋学術研究』第102号、東洋学術研究所、1982年5月10日、107-130頁、NAID 400026511272020年3月3日閲覧 
  6. ^ 岩本裕「Sailendra 王朝と Candi Borobudur」『東南アジア -歴史と文化-』第1981巻第10号、東南アジア学会、1981年、17-38頁、2020年3月3日閲覧 
  7. ^ Coedès, George (1975) [1964 (French ed.) 1968 (English ed.)]. Walter F. Vella. ed (PDF). The Indianized States of Southeast Asia. trans. Susan Brown Cowing. Australian National University Press. pp. 89-90. ISBN 0-7081-0140-2. https://openresearch-repository.anu.edu.au/bitstream/1885/115019/2/b11055005.pdf 2020年2月23日閲覧。 
  8. ^ Jordaan (1998), pp. 164-165
  9. ^ Soetarno (2002), p. 41
  10. ^ a b c d Candi Kalasan” (インドネシア語). Kepustakaan Candi. Perpustakaan Nasional Republik Indonesia (2014年). 2020年2月23日閲覧。
  11. ^ デュマルセ (1996)、26頁
  12. ^ デュマルセ (1996)、116頁
  13. ^ 小野邦彦「古代ジャワのチャンデイの伽藍構成に関する研究 :ヒンドゥー教寺院の非対称伽藍について」『博士論文』早大学位記番号:新3799、早稲田大学、88頁、2004年3月https://hdl.handle.net/2065/5362020年2月23日閲覧 
  14. ^ デュマルセ (1996)、26・84-86頁
  15. ^ デュマルセ (1996)、14・84-86頁
  16. ^ a b c 伊東 (1992)、86頁
  17. ^ フィリップ・ローソン 著、レヌカー・M、永井文、白川厚子 訳『東南アジアの美術』めこん、2004年、336頁。ISBN 4-8396-0172-0 
  18. ^ a b c 『インドネシアの事典』 (1991)、115頁
  19. ^ デュマルセ (1996)、85頁
  20. ^ a b c Degroot (2009), p. 264
  21. ^ Jordaan (1998), pp. 167-169
  22. ^ Jordaan (1998), pp. 163 167
  23. ^ Jordaan (1998), pp. 167-170
  24. ^ 伊東照司『東南アジア美術史』雄山閣、2007年、14-15頁。ISBN 978-4-639-02006-6 
  25. ^ 伊東照司『インドネシア美術入門』雄山閣、1989年、20頁。ISBN 4-639-00926-7 
  26. ^ アジア太平洋観光交流センター 編『日本-インド観光交流促進シンポジウム報告書』(PDF)(レポート)滋賀県長浜市教育委員会、2010年、26頁http://www.aptec.or.jp/image/news/8-1.pdf2020年2月23日閲覧 
  27. ^ 伊東 (1992)、86・88頁
  28. ^ a b 伊東 (1992)、86-87頁
  29. ^ Soetarno (2002), p. 45
  30. ^ Candi Sari” (インドネシア語). Kepustakaan Candi. Perpustakaan Nasional Republik Indonesia (2014年). 2020年2月23日閲覧。

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集