カルムイク人オイラト語: хальмг,хальмгуд,Kalmyk)とは、ロシア(主にカルムイク共和国)とキルギスに住むモンゴル系民族オイラト)の一部族。カルムイキアカルミックカルムックとも。

Kalmyks
Хальмгуд Xaľmgud
Чаепитие калмыков.jpg
草原で茶会に興じるカルムイク人
総人口
200,000
居住地域
カルムイク共和国の旗 カルムイク共和国 (ロシア)
ロシアの旗 ロシア183,372[1][2]
キルギスの旗 キルギス12,000[3]
ウクライナの旗 ウクライナ325[4]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ3,000
言語
カルムイク語(, ロシア語
宗教
チベット仏教がほとんど
他少数が東方正教, テングリズム, モンゴルシャーマニズム, イスラム教[5]
関連する民族
モンゴル系民族, 特にオイラト

歴史編集

起源編集

カルムイク語モンゴル諸語の1つだが、元来はテュルク系の一派だったとも伝わる[6]

カルムイク・ハン国編集

カルムイキア人は、1630年オイラート四部英語版(ドルベン・オイラト、瓦剌)のひとつトルグート部の指導者ホー・ウルロクロシア語版ドイツ語版太師に率いられ、同じオイラートのホシュート部に発した内乱を避けてヴォルガ河畔(ノガイ・オルダ)へ移住した(カルムイク・ハン国英語版1630年 - 1771年)、トルグート部及びホシュートドルベトモンゴル語版ロシア語版中国語版英語版両部の一部、合計五万家族の子孫である。

ヴォルガ・カルムイク人たちはロシア帝国フョードル3世ミハイル・ロマノフ父子の治世)と同盟し、報酬を得てロシアの敵オスマン帝国スウェーデンと戦った[注釈 1]アレクセイ (モスクワ大公)の治世に農奴制が法的に完成して北方戦争後に徴税と徴兵が強化されると、1670年にラージンのドン・コサック盗賊団に合流してラージンの乱1670年 - 1671年)を起こし、ヴォルガ川流域やカスピ海沿岸のサファヴィー朝ペルシアを荒らした。

1719年11月23日に、クリミア・ハン国や東方のタタール(カルムイク・ハン国を含む)との緩衝地帯形成を目的とする、ロシア皇帝ピョートル大帝の命令で人口希薄なヴォルガ川沿岸の空白地の耕作へドイツ人の移民誘致が始まり、ロシア人ウクライナ人ドイツ系ヴォルガ・ドイツ人)の移住者に圧迫されて、カルムイク人は荒地に押しやられた。

1755年から1759年にかけて、清の乾隆帝がジュンガル・ホンタイジ国を征服、清・ジュンガル戦争が終結。疫病(天然痘)の蔓延でカルムイク人の父祖の地が空き地になる。1771年、ヴォルガ・カルムイク人の指導者ウバシロシア語版ドイツ語版は、父祖の地である東トルキスタンイリ地方への帰還を決定した。

ロシア帝国編集

ところがその年は暖冬で、ヴォルガ川が凍結しなかったためヴォルガ西岸にいた半数は取り残されることになった。この取り残された人々こそがカルムイキア自治共和国のカルムイキア人の祖先である。また、このときみすみすカルムイク人たちを逃がしたロシア政府の辺境守備での無能振りと権威の失墜(ウラル・コサックの蜂起 (1772年))が、2年後の1773年ドン・コサックが蜂起したプガチョフの大乱を招くきっかけとなった。

イデル=ウラル国1917年 - 1918年)の独立に参加。1920年カルムイク自治州が設置された。1935年カルムイク自治ソビエト社会主義共和国1943年からのナチス・ドイツ占領下で、中央アジアに移住させられた。1957年カルムイク自治州が再設置され、1958年カルムイク自治ソビエト社会主義共和国に昇格。1992年3月31日カルムイク共和国となった。

カルムイク人たちは、ロシア連邦カルムイク共和国に住み、現在では一部がロシア人との混血が進んでいる。なお、ウラジーミル・レーニンは、父方の祖母を通じてカルムイク人の血を引いている。

編集

イリ地方へ帰還を目指した半数は、ロシアの追撃や周辺の諸民族の襲撃などの苦難の末、17万のうち10万人を失いイリへたどり着き、乾隆帝の庇護下に入った。清朝は帰順したカルムイク人をトルグート部と呼び、現在の新疆ウイグル自治区バインゴリン・オイラト自治州で遊牧を許した。

現在、この自治州のトルグート部は約4万人余りとされ、とくに和静県に3万人所在する。この他にもイリ地方青海省などにも少数が分布する。

文化編集

注釈編集

  1. ^ 17世紀ロシアの外交官コトシーヒンによると、この時期のカルムイク人の族長たちには中くらいの士族出身の公使が派遣され、彼らの国書の書き方は簡潔であり、書面で依頼の筋を述べたりすることはない、という[7]

脚注編集

  1. ^ Итоги ВПН 2010 All Russian census, 2010
  2. ^ Kalmyk-Oirat, Western Mongul in Russia :: Joshua Project”. joshuaproject.net. 2014年10月25日閲覧。
  3. ^ PRESIDENT.MN”. 2016年12月4日閲覧。
  4. ^ State statistics committee of Ukraine – National composition of population, 2001 census (Ukrainian)
  5. ^ Содномпилова, М.М.; Нанзатов, Б.З.. Культурное наследие народов Центральной Азии. Выпуск 3: сборник статей. Imbt. p. 34. ISBN 9785792503649. https://books.google.com/books?id=-hvpYMc71IQC 2014年10月25日閲覧。 
  6. ^ ドーソン(訳注:佐口透)『モンゴル帝国史1』(1989年平凡社ISBN 4582801102)p309-311
  7. ^ G・コトシーヒン『ピョートル前夜のロシア』彩流社、2003年、P.86-91。

関連項目編集

外部リンク編集