カール・ツー・メクレンブルク=シュトレーリッツ

ミロウ侯カール・ツー・メクレンブルク=シュトレーリッツドイツ語: Karl, Herzog zu Mecklenburg [-Strelitz], Prinz von Mirow1708年2月23日 - 1752年6月5日)は、メクレンブルク=シュトレーリッツ家の一員。イギリス王妃シャーロットの父。

カール
Karl
Charles Louis of Mecklenburg-Strelitz prince of Mirow.jpg
配偶者 エリザベート・アルベルティーネ・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼン英語版
子女 クリスティアーネ英語版
カロリーネ
アドルフ・フリードリヒ4世
エリザベート・クリスティーネ
ゾフィー・ルイーゼ
カール2世
エルンスト英語版
シャルロッテ
ゴットヒルフ
ゲオルク英語版
称号 ミロウ侯
家名 メクレンブルク=シュトレーリッツ家
父親 アドルフ・フリードリヒ2世
母親 クリスティアーネ・エミリエ・フォン・シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン
出生 1708年2月23日
シュトレーリッツ
死亡 1752年6月5日
ミロウ英語版
宗教 ルター派
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生涯編集

メクレンブルク=シュトレーリッツ公アドルフ・フリードリヒ2世と3人目の妻クリスティアーネ・エミリエ・フォン・シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼンの間で、シュトレーリッツ英語版で生まれた。生まれた時点では異母兄と異母姉が1人ずつ存命で、同母姉が1人いたが、同母姉はカールが1歳を満たないうちに夭折した。

カールがわずか3歳のとき、父のアドルフ・フリードリヒ2世が死去した。異母兄がアドルフ・フリードリヒ3世としてメクレンブルク=シュトレーリッツ公に即位、カールは次男としてミロウ英語版とネメロウのコマンドリーを継承した[1]。カールの母は夫のアドルフ・フリードリヒ2世が死去するとミロウに隠居、カールもミロウで育てられた[2]。その後、スウェーデン領ポメラニアグライフスヴァルト大学英語版に進学した[1]

当時の慣習に従い、カールは18歳になる1726年のとき、ヨーロッパへグランドツアーをした。彼は横笛が上手で、それをさらに磨くことをツアーの目的の1つとした[3]ジュネーヴ、イタリア、フランスを訪れた後、カールはウィーンに向かい、中佐として神聖ローマ皇帝に短期間仕えた後ミロウに戻った[2]

以降はミロウ城に住み、時間の大半を領地の管理と子供の教育に費やし[1]、44歳で死去するまでミロウに住んだ。

異母兄のアドルフ・フリードリヒ3世が継承者となる男子のないまま1752年12月に死去すると、カールの息子アドルフ・フリードリヒ4世がメクレンブルク=シュトレーリッツ公に即位した。

家族編集

1735年2月5日、アイスフェルト英語版ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公エルンスト・フリードリヒ1世英語版の娘エリザベート・アルベルティーネ・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼン英語版と結婚した[4]。彼女はアドルフ・フリードリヒ3世が死去したとき、継承争いに加担したほか、同年中には息子のアドルフ・フリードリヒ4世の摂政を務めた。

2人は5男5女をもうけ、うち4男2女が成人した。

1820年に即位したジョージ4世以降のイギリス君主はカールの娘シャルロッテを通じて、カールの血を引いている。

脚注編集

  1. ^ a b c Watkins, John (1819). Memoirs of Her Most Excellent Majesty Sophia-Charlotte, Queen of Great Britain. H. Colburn. pp. 28–30 
  2. ^ a b Carlyle, Thomas (1866). History of Friedrich the Second Called Frederick the Great. Harper & Brothers. pp. 477-478 
  3. ^ Sardelli, Federico Maria; Michael Talbot (2007). Vivaldi's Music for Flute And Recorder. Ashgate Publishing. pp. 43. ISBN 0-7546-3714-X 
  4. ^ Online Gotha

外部リンク編集