ガイウス・マリウス
ガイウス・マリウス(ラテン語: Gaius Marius、紀元前157年 - 紀元前86年1月13日)は、共和政ローマ末期の軍人、政治家。同名の祖父・父と区別してC. Marius C. f. C. n.(ガイウスの孫にしてガイウスの子たるガイウス・マリウス)と表記された。息子である小マリウス(Marius Minor)に対して大マリウス(Marius Major)とも呼ばれる。
![]() ガイウス・マリウス C. Marius C. f. C. n.[注釈 1] | |
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![]() 鼻が欠損しているマリウスの胸像 グリュプトテーク所蔵 | |
渾名 | 大マリウス(Marius Major) |
出生 | 紀元前157年 |
生地 | アルピヌム |
死没 | 紀元前86年1月13日 |
死没地 | ローマ |
出身階級 | プレブス |
一族 | 無名の一族(ノウス・ホモ) |
氏族 |
マリウス氏族 ユリウス氏族(外戚) |
官職 |
財務官(紀元前122年) 護民官(紀元前120年) 法務官(紀元前116年) 執政官(紀元前107年、104年、103年、102年、101年、100年、86年) |
担当属州 | ルシタニア(紀元前114年) |
指揮した戦争 |
ヌマンティア戦争(紀元前134年) ユグルタ戦争(紀元前109年) キンブリ・テウトニ戦争(紀元前101年) 同盟市戦争(紀元前91年) ローマ内戦(紀元前87年) |
後継者 | 小マリウス |
平民出身の軍人としてキンブリ・テウトニ戦争で歴史的勝利を収め、合わせて大規模な軍制改革を行った。軍制改革では市民兵制から職業軍人への切り替え、武器自弁から装備の一律支給、訓練内容や指揮系統の改革、果ては退職金制度や鷹章旗の制定まで多岐に亘る改革を成し遂げた。この制度は帝政時代を含めて長らくローマの軍事制度として継承された。政治的には民衆の圧倒的支持を得た英雄として共和政末期に計7回の執政官就任を果たし、一時は独裁的な権限すら獲得していた。彼の地位と活躍、及び革新的な軍制改革はローマを帝政へと導く遠因の1つとなる。
以前はマリウスをポプラレス(民衆派)の首領とし、オプティマテス(閨閥派)と争いを繰り広げたと説明されてきたが、現在ではそのような単純な対立構造ではなかったと考えられており、単にマリウス派、もしくは後に協力したルキウス・コルネリウス・キンナと合わせてマリウス・キンナ派と呼ばれる[1]。
彼の妻であるユリア・カエサリアはガイウス・ユリウス・カエサルの叔母であり、マリウスは外伯父としてカエサルの政治基盤に多大な影響を残した。
生涯編集
出自編集
紀元前157年、同名の父ガイウス・マリウス・ガイウスフィリウス(Gaius Marius C. f)と母プルキニアとの子として生まれ、アルピヌム市(現アルピーノ)にあるケレアタエという村落で育った[2]。アルピヌムはローマと同じラティウムに位置していたが、ラテン市民権からローマ市民権に格上げされたのは紀元前188年という新参の都市であった。共和政後期の政治家マルクス・トゥッリウス・キケロとは同郷者であり、またグラックス兄弟と同年代にあたる。
マリウスは多くのローマ人が持っているような『個人名+氏族名+家族名』の3つでなく『個人名(ガイウス)+氏族名(マリウス氏族)』の2つしか持たなかった[3]。ローマでは出身氏族の名が遠い祖先を示す名字として、個々人を識別する個人名が名前として機能した。その上で高い業績を過去に上げたものが、他の氏族の名乗りを用いる人々と自己と区別する為に家族名を用いた。従って家族名を持たなかった人々は「無名の一族」(ノウス・ホモ)であったという事であり、ガイウス・マリウスはまさにそうした出身であった。通説では貧農の家柄であったとされるが[4]、実際にはキケロ家とグラティディウス氏と共にアルピヌムにおいて支配的な地位を占めていた騎士階級であったと考えられている[5]。
出身氏族であるマリウス氏族についてもプレブス(平民)かつ無名に近く、数ある氏族の中でも権威の無い一門であった[注釈 2]。マリウス氏族が歴史に良く知られた名族となるのは彼の登場によってである。幼少の頃、7羽の雛が住む鷲の巣を見つけた事があり(鷲は3つ以上の卵を育てないと言われていた)、家人は珍しい事もあるものだと感心した。鷲はローマ神話に登場する神聖な動物であり、この出来事は後にマリウスが7回の執政官選出を果たす吉兆であったと理解された[6]。
鷲は共和政末期から帝政期にかけて軍と元老院の象徴とされたが、これはマリウスの治世によって行われたもので、本人も鷲を特別視していた様子がうかがえる。
前半生編集
青年期編集
マリウスは無骨な人物であったとされ、プルタルコスはその姿を描いた石像も気性をうかがわせる風貌だったと書き残している。馬術や剣術に長け[2]、政治よりも戦場に向いた事柄について熱心に学んでいたという[4]。彼にとって当時のローマ人が教養としていた古代ギリシャの学問や言語など退廃した概念でしかなく、奴隷からそれらを学ぶ事も全く馬鹿げた行動と考えていた[4]。哲学よりもむしろ信仰に重きを置き、神殿の巫女や占師の託宣を大切に扱うなど非常に信心深かった[7]。
紀元前134年、共和政ローマがイベリア半島の完全征服を目指して第二次ケルティベリア戦争(ヌマンティア戦争)を引き起こすと、マリウスはスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)の遠征軍に加わった[4]。ポエニ戦争の勝利から腐敗しつつあったローマにあって、規律正しく勇敢な兵士はすぐに将軍の目に留まった[2]。小スキピオの眼前で敵兵を討ち取ってみせるなどの武功を重ね[8]、23歳にして将校に取り立てられた[2]。ある時、食事の席で配下が大スキピオと小スキピオに続き、ローマを危機から守れる英雄は現れるかと小スキピオに尋ねた。すると小スキピオは傍らに着席させていたマリウスの肩を叩いて「この男だな」と答えたという[8]。
軍歴を重ねた後、官職と軍指揮権が一体となっていたローマ社会の慣例に習って政治家を志した[7]。マリウスはローマの上流階級が重要視した富や弁舌を持たず、名誉ある祖先も居なかった。その代わりに労苦を厭わない質実さで支持を集め[9]、家柄ではなく自らの体に刻まれた戦での古傷を誇りとした[10][11]。しかしそれだけで政界に挑む事は難しく、一族の庇護者(パトロヌス)であった元老院議員ルキウス・カエキリウス・メテッルス(ダルマティクス)の協力を得ている。
官職選挙編集
紀元前119年、同年の執政官にメテッルスが当選すると、マリウスもクルスス・ホノルムのスタート地点である護民官に選出された。カエキリウス氏族はマリウス氏族と同じプレブス(平民)ではあったが、政治的名門であるカエキリウス・メテッルス家は閥族派に属していた。メテッルスらが護民官にマリウスを推薦したのは平民の庇護者である護民官を手駒にしようとする閥族派の意向が働いていた。ところがマリウスは護民官に当選すると富裕層に有利な選挙制度の改革を主張し始め、当然ながら反対したメテッルスを同僚執政官と共に投獄しようとした。他の護民官や民会はマリウスを勇敢な政治家と讃え、民衆派の政治家と見做される様になった[8]。
投票制限法で譲歩を迫られたカエキリウス・メテッルス家とは対立関係となり[12]、五大官職の1つである造営官(アエディリス)の有力候補となったものの、政界で孤立した事で上級アエディリスはおろか下級アエディリスにも落選した[13]。諦めずに今度はインペリウム保有職である法務官(プラエトル)選挙に出馬、僅差で当選した[13]。反対派は選挙違反容疑でマリウスを訴えたが、こちらも僅差ながら陪審員の評決で無罪とされ、マリウスは念願のインペラトル(軍司令官)の称号を得た[13]。
法務官については無難に任期を終え、翌年に前法務官権限(プロプラエトル)によりイベリア半島のヒスパニア・ウルテリオル(ルシタニア)の総督へ指名された。総督時代は領内の反乱兵討伐に功績を上げ[13]、軍事的功績を示した[2]。ローマに帰国すると長年独身だったマリウスはカエサル家の子女ユリア・カエサリアと結婚した。平民の中でも無名の血筋であるマリウスからすれば、建国神話にまで遡る由緒正しいパトリキ(貴族)であるユリウス氏族との婚姻は名誉であったが、カエサル家自体はあまり有力ではなく没落貴族の家系であったので、資金的な助けにはならなかった。ユリア・カエサリアとの間には跡継ぎとなる小マリウスを儲けた。
ユグルタ戦争編集
メテッルス解任編集
紀元前112年、王位継承を巡って元老院はヌミディア王ユグルタに宣戦を布告したが(ユグルタ戦争)[14]、次々と政治家がユグルタに買収されてローマ軍は機能不全に陥った。紀元前109年、執政官クィントゥス・カエキリウス・メテッルス(ヌミディクス)が新たに遠征軍を引き継ぎ、マリウスは副将(レガトゥス)として召集された。ローマ軍はヌミディア軍をムゥトールの戦いで打ち破ったが、会戦後もヌミディア騎兵による不正規戦が続き、決定的な勝利は得られなかった。不満を持った兵士の間ではメテッルスへの不服従が広がり、副将のマリウスが指揮権を得るべきとの声が上がった[9]。軍隊出身のマリウスは兵士から慕われており、貴族然としたメテッルスよりも人気があった[9]。
マリウスとメッテルス家は元から遺恨のある間柄であったが、兵士の態度は両者の対立を焚き付けた。ある時、執政官出馬を考えていたマリウスにメテッルスは同名の息子クィントゥス(メテッルス・ピウス)との立候補を支援の条件に出したという[10][注釈 3]。マリウスの側もメテッルスの友人がユグルタに欺かれて拠点の1つを奪われるとこの人物の処刑を求め、メテッルスは友人の死罪を認めざるを得なくなっている[10]。
紀元前108年、マリウスは遂に執政官へ立候補する事を決めた。メテッルスは理由を付けてマリウスを陣営地から移動させず、選挙の12日前に漸く退役を認めるという姑息な嫌がらせをしている[10]。日数の少なさに加え、新人であるマリウスの選挙は苦戦が予想された。しかしマリウスは諦めずに前線から遠く離れたウティカまでを2日間で踏破し、追い風にも恵まれて3日間で地中海を渡ってローマに辿り着いた。都では護民官と民会から熱烈な歓迎を受け、マリウスも自身を侮辱した貴族を激烈に非難する演説を行って喝采を受けた[10]。選挙の結果、ローマ市民はマリウスを新たな執政官に選出した[10]。
ユグルタは賄賂を使ったローマ側への政治工作を繰り返しており、元老院や富裕層が著しく腐敗した状況にある事が明るみに出ていた[15]。民衆は従来の権力構造の外からの人材を求めていたのである。部下により失脚させられるという前代未聞の恥辱に対し、メテッルスは引継ぎに訪れたマリウスとの会見を拒絶した[16]。そればかりか去り際にマリウスの同僚執政官ルキウス・カッシウス・ロンギヌスに指揮権を譲り、そのロンギヌスはもう1つの脅威であった北方の蛮族に備えて出兵してしまった。マリウスは市民兵に依存した軍事制度では戦争が遂行できないと判断して、それまでの資産階級(ケントゥリア)ごとに武器を自弁で用意させるという、共和政移行期から採用された制度を廃止する大胆な軍制改革を開始した。
マリウスの軍制改革編集
元より市民兵制度は社会の階級格差によって兵種の割合が変動してしまうという不合理さがあり、それまでも兵種の資産要件については調整が重ねられていた。しかしポエニ戦争での領土拡大で大地主によるラティフンディウム(大規模農業)が広まり、自作農の中産階級が没落した事でケントゥリアは著しくバランスを欠いた状態になってしまっていた。マリウスは資産階級ごとに招集していたウェリテス(散兵)、ハスタティ(軽装剣兵)、プリンキペス(重装剣兵)、トリアリィ(重装槍兵)、エクィテス(騎兵)の分類を廃止し、投槍と剣を持った重装歩兵に統合した。その上で重装歩兵としての武器と訓練は志願者の階級に関係なく、志願者に対して国家が準備するものとした[17]。また騎兵や散兵・弓兵は同盟軍や傭兵から必要に応じて雇用する制度を整え、これをアウクシリア(補助軍)と名付けた。
自由志願制に移行した事で重装歩兵を中心とした軍を安定的に編成できる様になったが、利点はそれだけではなかった。軍役で重要な役割を得られなかった無産階級が重装歩兵の担い手として軍に加わり、軍の俸給で生計を立てた事から一時帰郷を必要としない職業軍人の割合が大きく増加した。これによってローマ軍はこれまでにない長期間の遠征を実施する事ができた。装備だけではなく訓練も一律化され、剣闘士の訓練制度を参考にした苛烈な訓練を取り入れている[17]。
編制面では兵種ごとに決まっていた伝統的な戦列制度が全廃され、戦局に併せて柔軟に陣形や隊列を組み替えられる様になった[17]。またマニプルス(歩兵中隊)よりもコホルス(歩兵大隊)での編成が中心になり、所属する戦列に関係なくコホルス単位での独自行軍も可能となった[18]。各コホルスにはそれまで様々な動物や意匠の旗印が掲げられていたのに代わり、マリウスが制定した鷲章旗と呼ばれる銀製の旗印が与えられた[18]。ローマの軍事制度はマリウスによって実用性を取り戻し、帝政後期までローマ軍の基本制度として機能した。
戦争終結編集
再開された戦争でマリウスはヌミディア軍を再び打ち破ったが、ユグルタは岳父であるマウレタニア王ボックスの支援を取り付けて各地での抵抗を続けた。マリウスはヌミディア王国の再南端にあるカプサを攻め落とし、遠隔地での反乱を防ぐ為に全ての成人男子を処刑した。他にヌミディアとマウタレニアとの境にある要塞を攻め落とすなど強行軍を続けたが、軍事的勝利だけでユグルタを屈服させる事は困難であった[19]。焦点はユグルタを支援するマウレタニア王国との外交に移り、マリウスは副官に指名した財務官ルキウス・コルネリウス・スッラに秘密交渉を一任した。スッラはボックス王に取り入ってマウレタニアの宮殿に赴き、一度は人質にされる窮地に陥ったものの、最終的にはボックスを説得してユグルタを引き渡させた[16]。
公約通りに戦争は早期に終結したが、その功績を巡ってはマリウスとスッラの間では対立が生じた。民衆派とマリウスは華々しい戦勝においてスッラの存在を全く無視したが、メテッルスら閥族派は真の功労者はスッラであると讃え、スッラ自身も功績を自賛する文言を指輪に刻ませるなど不満を隠さなかった。後に内戦の遠因[16]ともなったこの争論は新たな戦いが始まるまで継続した[20]。
キンブリ・テウトニ戦争編集
紀元前104年、民会はまだアフリカにいるマリウスを執政官に選出した[20]。この異例の決定は、先に述べた北方の蛮族がローマ軍を各地で破って南下している為であった。マリウスの同僚執政官ロンギヌスは属州ガリア・ナルボネンシスで既に敗死しており(ブルディガラの戦い)、これを受けて閥族派の前執政官クィントゥス・セルウィリウス・カエピオ(大カエピオ)が10万以上の大軍を率いて迎え撃った。だが平民出身の執政官グナエウス・マッリウス・マクシムスが率いる軍勢と協調せずに戦いを挑み、完膚なきまでに打ち破られて8万名以上ものローマ兵が犠牲となった(アラウシオの戦い)。大カエピオの失態は単なる軍事的敗北だけでなく元老院議員の驕りや腐敗が頂点に達した事例でもあり、民衆派の台頭に大きな契機を与えた[21]。
勢いを得た蛮族はキンブリ族とテウトネス族という二つの勢力を中心に30万名の兵士とその家族を引き連れて、豊かなイタリア半島へ迫りつつあった。権力の集中を恐れる共和政ローマで執政官の連続当選は禁じられていたが、民衆は独裁者よりも蛮族を遥かに恐れ、危機に際して法を曲げる事を正当とした[22]。以降、マリウスはキンブリ戦争終結まで4年連続で執政官に当選し、戦争の総責任者として独裁的な権限を揮った。この年はゲルマニア人は目立った南下を示さず、ひとまずユグルタ戦争の凱旋式を挙行した。捕縛されていたユグルタは王の装束を剥ぎ取られて裸にされた上、耳飾を耳朶ごと引き千切られて地下の牢獄に放り込まれ、6日後に餓死した[22]。
ローマに戻ったマリウスは元老院での政務より軍の訓練に情熱を傾け、軍制改革による新たなローマ軍を作り上げていった。マリウスは軍団兵が兵站に頼る事を許さず、鎧・兜・剣・槍・工具・食料袋などを一式に纏めたものを肩に担いで行軍する厳しい訓練を繰り返した。重装歩兵の迅速な行軍を可能としたこの戦術は「マリウスのロバ」と呼ばれた[23]。他にローマ軍が用いてきたピルム(投槍)に改修を施し、相手の盾に刺さると折れて盾を持ち辛くする工夫を加えている[24]。訓練が進むにつれてローマ兵は自信を取り戻し、マリウスの硬骨さを恐れるよりも頼もしく感じる様になっていった[23]。
紀元前103年、マリウスは3度目の執政官に選出され、護民官には民衆派のルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌスが選出された[25]。
アクアエ・セクスティアエ編集
紀元前102年、蛮族が南下したとの報を受け、4度目の執政官に選出されていたマリウスは全軍を率いて属州ガリア・ナルボネンシスへと行軍した。アルプス山脈と地中海に挟まれたプロヴァンス地方へ到着するとロダヌス川に陣営地を建設して敵軍を待ち構えた[25]。現れた軍勢はキンブリ族と同盟を結ぶテウトネス族(チュートン人)とアンブロネス族だった。マリウスは復讐を逸る兵士達を抑えながら蛮族の行軍を阻止する事に専念させ、蛮族が陣営地を迂回すると先回りして再び行軍を阻止した。
やがて豊かな水源のあるアクアエ・セクスティアエに到達すると、痺れを切らしたアンブロネス族が水を汲んでいたローマ軍の一団に単独で攻めかかった。マリウスは補助軍のリグリア人歩兵隊を送り出し、その間に軍団兵を集めてアンブロネス軍を川岸で打ち破った[26]。アンブロネス族の敗退を知ったテウトネス王テウトボドが陣営地に戻ろうとするローマ軍を追撃すると、マリウスは丘の上に陣を置いてテウトネス軍を迎え撃った[27]。少ない手勢から兵を割いて別動隊を配置すると[27]、敵正面の軍団兵に一歩も後退せず踏み留まる様に命じ、自らも剣を手に戦列に並んだ[28]。
数では遥かに勝るテウトネス軍の猛攻をマリウス率いる正面軍は寡兵で押し返し、テウトネス軍が後退すると別動隊が背後を強襲して退路を塞いだ。テウトネス軍は包囲を破ろうと猛烈に抵抗したが、遂には数分の1のローマ軍に殲滅されて10万名以上の兵士が悉く死ぬか奴隷となった。戦場から逃げ出したテウトボドも追手に捕縛され、二つの部族は消滅した(アクアエ・セクスティアエの戦い)。残された膨大なテウトネス族の遺骸は養分として土地を肥沃にし、マッセリアの農民は葡萄畑の垣根を蛮族の骨で作ったと言い伝えられている[28]。その勇名は後世にまで残り、マリウスが勝利した古戦場はサント・ヴィクトワール山(聖なる勝利の山)と呼ばれる様になった。
戦勝の後、マリウスは戦利品を分配すると残った武具を火にくべて戦場での犠牲式を執り行った。そこに元老院の使者が5度目の執政官が決定したとの公文書を届け、マリウスは軍団兵の凱歌に包まれながら月桂樹の冠を授けられた[28]。だが程なくマリウスの同僚執政官クィントゥス・ルタティウス・カトゥルスがキンブリ族を抑える手筈に失敗し[29]、敗走しているとの報告も届いた[28]。マリウスは単身でローマに戻って元老院で演説を行ったが、貴族から薦められた凱旋式は辞退してすぐにカトゥルスの陣営地に向かった[30]。
ウェルケラエ編集
陣営地に到着したマリウスはカトゥルスを叱咤し、またロダヌス川の軍も呼び戻してキンブリ族と対峙した[30]。キンブリ族の側はテウトネス族らの敗北をまだ知らず、勝ち誇った態度で自分達と「その兄弟」に土地を渡す様にマリウスへ使者を送った[24]。マリウスが「兄弟とは誰か」と尋ね、キンブリ族がテウトネス族の事だと答えるとマリウスは大笑いして以下の様に答えた[24]。
兄弟の事は放念召されよ。かの者らはちゃんと土地持っておるばかりでなく、これから先も未来永劫に我らの与えた土地に住まわれるであろうゆえな[24]
テウトネス族が滅ぼされた事を知ったキンブリ王ボイオリクスは護衛兵のみを連れてマリウスの陣営地を訪れ、決戦場を定めようと提案した。決闘形式の合戦はローマの慣例に無かったが、マリウスは受けて立ち、ポー川上流にあるウェルケッラエという平原で3日後に相対する事となった[24]。
マリウスはカトゥルスと敗走してきた2万300名の軍団兵に中央の防御を命じ、ロダヌス川から呼び戻した3万2000名の軍団兵をその両翼に配置する陣形を組んだ[24]。大会戦では正面よりも両翼が重要な役割を担うと考えられた為、カトゥルスやその幕僚だったスッラは汚名返上の機会をマリウスが与えてくれなかったと不満を抱いた[24]。しかし砂埃によって視界を失った両翼の軍勢がキンブリ軍を大きく回り込み過ぎた為、結果的には中央が戦列を支える形での乱戦となった[31]。厳寒には強くとも暑さには慣れていないキンブリ族は地中海沿岸部に降り注ぐ夏の日差しに体力を奪われ、装備や練度で上回る軍団兵の粘り強い戦いを前に徐々に押されていった[31]。
長い戦いの末にボイオリクス王が戦場で討ち取られるとキンブリ軍は総崩れとなり、ローマ軍の追撃によって壊滅した。戦場に同伴していた女性達は敗北を知ると次々と我が子を絞め殺した上で自らの首も掻き切り[32]、その凄惨な最期は長らくローマ人に記憶された。2度に亘る戦勝でキンブリ族・テウトネス族・アンブロネス族は歴史上から存在を消し、他に続くと思われていた勢力はローマに恐れをなして故郷へと逃げ帰り、共和国を揺るがした危機は遂に解決された。
ローマに戻ったマリウスが軍団兵を率いて凱旋式を執り行い、ローマ人を恐れさせたテウトボドをフォロ・ロマーノで絞首刑にすると、その権威は頂点に達した。民衆はマリウスをロムルス[注釈 5]、カミルス[注釈 6]に次ぐ「第三の建国者」と呼び、歴史的な勝利を讃える戦勝像や記念碑が建てられ、神々と並んでマリウスに供物を捧げたという[32]。
政治的台頭と失脚編集
カトゥルス、スッラの離反編集
平民出身であるマリウスの権威は民衆派の台頭へと繋がった。彼らは護民官職と平民の保護を大義名分としたグラックス兄弟が失敗した事から、執政官職と軍事権を持つマリウスによる元老院体制の打倒を目指し始めた[33]。マリウスも戦功を上げた同盟市民の退役兵に独断でローマ市民権を付与し[18]、軍を重視して元老院を軽んじる行動を見せていた[34]。対する閥族派はマリウスへの警戒感を強め、カトゥルスやスッラなど近い立場にあった者でマリウスと敵対する人物も現れた。
マリウスの腹心であったカトゥルスは緒戦の敗北でキンブリ人から逃げ去ったとローマ人から嘲笑されており、ウェルケラエでその汚名を返上したものと考えていた。現実にはカトゥルスの存在は全く関心を持たれず、敵兵に刺さった投槍に指揮下の軍団名が多く彫られている事を証として調停役の使者に訴えたが相手にされなかった[32]。民衆はマリウスにのみ二度の凱旋式を認めるべきと讃え、カトゥルスは惨めな思いをした[32]。マリウス自身は共に戦ったカトゥルスの功績を忘れず、凱旋式も二人で行う事を提案して戦勝を分かち合っている[32]。だがマリウスがそうであっても彼を支持する平民や民衆派の政治家達は異なり、やがてカトゥルスはマリウスから離反した。
ユグルタ戦争以来、戦功について異議を唱えていたスッラとは和解しており、二度目の執政官任期では副将、三度目の執政官任期では軍団長代理として登用している[35]。スッラもこれに応えて功績を挙げていたが、与えられる役割だけでは満足できなくなり[35]、マリウスが四度目の任期で同僚執政官に指名したカトゥルスの指揮下に移っている[36]。結果的にカトゥルスの不名誉に巻き込まれる形となった事で、再びマリウスへの敵愾心を深めて敵対関係に回帰した。プルタルコスによるカトゥルスの擁護についても、殆どはスッラが主張した言い分に基いている[31]。
プルタルコスは民衆の評価は不公平であったと述べているが、テオドール・モムゼンは何ら不公平ではないとしている[37]。そもそもマリウスとカトゥルスの軍事的才能や実績に大きな差がある事はもちろん、マリウスは2つの会戦で一貫して最高司令官を務めており、何より一度目の会戦での圧勝が無ければ2度目の会戦は存在し得なかったからである[37]。モムゼンはユグルタ戦争も含めて、この時代の人物評は「民衆派」と「閥族派」という党派性が強く影響したと指摘している[37]。
アップレイウス法編集
紀元前101年、凱旋式を終えたマリウスは慣例に従って軍団を解散したが[38]、同じく慣例となっていた毎年の執政官就任についても継続するとした[32]。マリウスは既に5年連続で執政官となっており、これほど長期間(5年間)もインペリウム保持者である執政官としてローマに君臨し続けた例はなく、その上に平時もそれを続ければマリウスによる独裁を容認する事を意味した。閥族派が再選に反対したのに対し、法務官ガイウス・セルウィリウス・グラウキア、護民官サトゥルニヌスら民衆派は再選を支持した。
紀元前100年、マリウスは6度目の執政官に選出された。同僚執政官ルキウス・ウァレリウス・フラックスは、同僚執政官というよりも将軍の副官として従っていたという[34]。同年に護民官サトゥルニヌスによって退役兵への農地分配を求めるアップレイウス法が民会に提出された[33]。マリウスに従った軍団兵への恩賞や植民の奨励という建前こそあるものの、ラティフンディウムの解体を目指したグラックス兄弟の農地改革を想起させる内容から元老院は賛成しなかった。サトゥルニヌスは民衆が法案を承認した場合、マリウスも含めた元老院議員の全員が法律に賛同する宣言を立てる様に付帯条項を追加して承認を迫った[34]。
元老院は侮辱的な要請には従わないとしたが、民会で決議が可決されるとマリウスが元老院でアップレイウス法に賛同する誓いを立てた[39]。執政官が賛同した以上、元老院議員らは不満を持ちながらも農地法に賛同する誓いを立てざるを得なくなったが、例外的にマリウスと敵対するメテッルス・ヌミディクスだけは誓いを立てなかった[39]。これを受けてサトゥルニヌスはメテッルス・ヌミディクスに「水と火と屋根を禁じる」という生存権剥奪の決議を行い、一部の平民は暴動を起こしてメテッルスを殺害しようとした[39]。最初からマリウスとサトゥルニヌスはメテッルスの失脚を図っていたと見られており、メテッルス・ヌミディクスはロードス島に亡命した[39]。
執政官退任編集
マリウスと民衆派による元老院支配が確立されたかのように思われたが、民衆派はマリウスの権威を背景に専制的な行動を取り、却ってマリウスの立場を危うくした[39]。騎士階級や商人といった富裕な平民もマリウスを支持していたが、貧農や労働者を支持基盤とする民衆派の暴動や選挙妨害に不満を持ち、元老院支持に転じていった[40]。マリウスは僭主の様に批判され[34]、腹心である護民官サトゥルニヌスへの批判も抑えきれない程に高まっていった[41]。民衆派の政治家をマリウスが遠ざけ始めると、孤立を恐れたサトゥルニヌスはグラウキアを新たな執政官候補に擁立する事を計画した。
グラウキアが立候補する執政官選挙に閥族派も候補を立てたのに対し、サトゥルニヌスは支持者に命じて街頭で相手候補を暗殺する凶行に及び[42]、専横に耐えかねた元老院は治安の正常化を求める元老院最終勧告を可決した。閥族派の議員が武装して議事堂に集まり、対する民衆派もフォロ・ロマーノの大広場に立て籠った。民衆派は奴隷を武装させるなどして抵抗を試みたが、元老院の命を受けたマリウスが軍団を招集して鎮圧に動くと呆気なく敗北した[42]。マリウスは反乱軍が敗走した区画を包囲して給水を止め、反乱軍は投降してサトゥルニヌスらは捕えられた[41]。広場に連行されるサトゥルニヌスは全てはマリウスの命令で行ったと叫んでいたが、途中で閥族派の投石で殺害された[42]。
マリウスは戦場では強い意志を持つ不屈の軍人であったが、元老院では檄し易く感情的な政治家であった[32][34]。戦争と同じ様に政治を切り回せず、細事に一喜一憂して毅然としたところがなかった[34]。民衆派にも優柔不断な言動を繰り返し、サトゥルニヌスはマリウスの独裁を目指しながら本人の協力を得られず、最後には見捨てられる事になった[42]。6度目の執政官任期が終わるとマリウスは家族を連れてカッパドキアやガラテアなど東方属州を旅行する為にローマを離れたが、影響力の低下から政界を離れたのは明らかだった[41]。
しかしプルタルコスによればマリウスは野心を失っておらず、戦争さえ起きれば民衆は再び自分を必要とすると考えていたという。東方旅行も政争を避けての隠遁ではなく、ローマへの反乱を疑われていたポントス王ミトリダテス6世を嗾ける為であったとしている。まだ反乱の時期ではないと考えていたミトリダテスは媚びへつらった態度で会見に応じたが、マリウスから「ローマより強くなろうと試みられるか、さもなくば課せられた事を黙ってなさるがよろしい」と言い捨てられ、唖然としたという[41]。
内乱の一世紀編集
同盟市戦争編集
帰国したマリウスはローマ中心部に新しい屋敷を構えたが、平時の世においてはマリウスの威光にも陰りがあり、陳情の数は多くなかった[43]。老化によるリウマチなど病にも苦しみ、バイアエに似つかわしくない贅沢な別荘を購入して養生するなど心身の衰えを隠せなくなっていた[44]。閥族派はマリウスの復権を恐れており、スッラがその脅威を煽る事で閥族派の指導者となりつつあった[43]。マウタレニア王ボックスがスッラがユグルタを捕える場面を描いた記念像を元老院に贈った際にはこの像を破壊しようとする民衆派とそれを阻止する閥族派との間で争いが起きている[43]。
紀元前91年、マリウスがスッラと閥族派への敵意を深める中、ローマはマリウスの軍制改革の結果として思わぬ戦争に引きずり込まれていった。軍事制度において同盟市の住民とローマ市民の待遇差が無くなった為、政治面でラテン市民権からローマ市民権への格上げを求めるようになった。護民官マルクス・リウィウス・ドルススの市民権付与の提案に暗殺で答えたローマ社会に対して、イタリア半島の同盟市が一斉に反乱を起こした(同盟市戦争)。さらにミトリダテスが同盟市戦争の長期化を見込み、挙兵の計画を実行に移し始めた。
マリウスはローマ軍の指揮官に復帰して同盟市軍との戦いに出陣した。65歳になっていたマリウスは病や古傷の痛みから思う様に体が動かず、以前よりも慎重な指揮を執った。敵に付け入る隙を与えない事を第一に考え、陣地と壕を巡らせて敵戦力を釘付けにする用兵に専念した。同盟市軍の主な司令官であったプブリウス・ポッパエディウス・シロが偉大な将軍ならば一戦を交えるはずだと挑発した時、マリウスは「其方こそ将軍ならば、戦いを望まぬ敵を有無を言わせず戦わせてみせよ」と一蹴したという[43]。全く会戦に望まなかったわけではなく、別の戦いではマルシ族をスッラ軍と挟撃して6000名を討ち取る勝利を得ている[43][45]。
スルピキウス法編集
紀元前88年、ミトリダテス6世が遂に挙兵してギリシャ諸都市にローマへの反乱を促した(第一次ミトリダテス戦争)。ミトリダテス討伐に誰を司令官に推挙するかで元老院は紛糾したが、閥族派はスッラを候補に立てた。対する民衆派はマリウスを候補に担ぎ上げ、護民官プブリウス・スルピキウス・ルフスがサトゥルニヌスの如く閥族派と激しい争いを繰り広げた。マリウスも意気を取り戻したのか、屋敷の外に出て体を鍛え直して運動競技に汗を流し、剣術や馬術を軽やかにこなすなど身体の復調を見せた[44]。民衆の支持が老いたマリウスに想像より傾いたので選挙は縺れたが、それでも最終的にはスッラが執政官に選出された。
サトゥルニヌスより更に手段を選ばない急進派であったスルピキウスは結果を認めず、騎士階級の政治家600名と「反元老隊」と名乗るマリウス派の私兵集団を作って実力行使で抵抗した。スッラは同僚執政官クィントゥス・ポンペイウス・ルフスと公務執行の一時停止を宣言したが、その集会に武装した反元老隊が乱入してポンペイウスの息子を殺害した[46]。スッラとポンペイウスは集会から逃げ出したが、スッラは途中でスルピキウスに捕らえられた。スッラはマリウスに助けを求め、公務執行解除と引き換えに助命された[46]。結果、逃亡したポンペイウスを執政官から罷免し、投降したスッラもマリウスを執政官代理として権限を委任するスルピキウス法が可決された。
晴れてスッラを失脚させて表舞台に復帰したマリウスだったが、スッラは民衆派に抑えられたローマを脱出して遠征軍の掌握に成功した[46]。とはいえ元老院とローマが抑えられていてはスッラ軍は賊軍であり、かつ既にこの時代にはローマは不可侵の土地とする慣習が成立していた。だがスッラは元老院の正常化を大義名分に元老院の進軍を思い留まる様に求める使者のファスケスを叩き折り、6個軍団[47]を率いて首都ローマへ侵攻する暴挙を起こした[48]。警備用の僅かな兵士しかいないローマに取り残された元老院は完全に浮き足立ち、マリウスはローマ住民から市民兵を集めてスッラが率いる軍団兵と対峙した。
内戦の開始編集
スッラ軍はセルウィウス城壁のエスクィリアエ門を破ってエスクイリヌスの丘にまで進んだが、市民兵は屋根から軍団兵に煉瓦を投げつけ、どうにかこれを退けると広場で待ち構えていたマリウス軍と会敵した[47]。最初の攻撃では押し入った縦隊が数に勝る市民兵に四方から攻撃されて退却したが、軍団兵の別動隊が迂回して攻撃すると市民軍は広場から後退した[47]。マリウスは市民、騎士、元老院議員らを励ましながら戦闘を続けたが、市民兵は錬度や装備の面で軍団兵に敵わず打ち破られた[47]。皮肉にも職業軍人のローマ軍を作り出したマリウス自身が市民軍より職業軍人が優れている事を証明する形になった。
ローマ中心部に突入したスッラ軍によって護民官スルピキウスが殺害され[48]、マリウスや民衆派はローマ国外へ亡命した。マリウスはオスティア港から船でイタリア半島南部に逃れ[49]、息子の小マリウスは父と逸れた為に母方のカエサル家の下に逃れ[49]、そこからアフリカのヌミディア王国に亡命した[50]。市街地戦では大勢の市民や貴族が敵味方関係なく犠牲となり、ローマへの侵攻を思い留まるように説得した閥族派の間でもスッラへの敵意を生む事になった[48]。加えてスッラは民衆派への粛清を行い、指導者であるマリウスを国家の敵とする宣言を布告したが、これもスッラを助命したマリウスに比べて苛烈な報復と受け取られた。
スッラは元老院でも民会でも人心を掌握できず、コルネリウス氏族出身ながら自身に批判的なルキウス・コルネリウス・キンナが執政官に選出されるのを阻止できなかった。後顧に憂いを残しながらもスッラはミトリダテス戦争に再度出陣した[48]。
晩年の戦い編集
亡命生活編集
ローマから海上に脱出したマリウスであったが、敵対的な都市であったタラキナを避けたのが仇となって船団が難破してしまった[6]。マリウスは従者を連れて陸路を彷徨い、イスキア島に辿り着いたところで追手に見つかって一行は散り散りになり、マリウスはタラキナから追ってきた兵士に捕らえられて対岸のミントゥルナエに幽閉された[51]。息子の小マリウスもヌミディア王イアンプサスの宮殿で人質に近い扱いを受けていた[50]。
ミントゥルナエは国家の敵であるマリウスの処刑を議決したが、実行するとなると誰もがかつての英雄に刃を向ける事を躊躇った[52]。紛糾した末、ローマ人と違ってマリウスに憎しみしかないであろう、滅ぼされたキンブリ族の奴隷に命じて暗殺させる事にした[52]。だが奴隷が寝所へ忍び込むとマリウスは起きており、動じる様子もなく殺める勇気があるのかと問いかけたという。キンブリ人の奴隷はマリウスに恐れをなして逃げ帰り、キンブリ人にマリウスは殺められないとローマ人に懇願したという[52]。ミントゥルナエの市民は蛮族からローマを守ったマリウスの姿を思い返すと、忘恩を恥じて再びイスキア島へと密かに逃れさせた[52]。
マリウスはイスキアで追手から身を隠していた者達と落ち合い、シキリア属州のジェルバ島へと向かった[50]。息子がヌミディアに身を寄せていると聞いてアフリカ属州にも向かったが、下船したカルタゴで元老院の命によりマリウスを受け入れる事はできないと返答された。後に小マリウスはヌミディア王妃を篭絡して宮殿から逃れ、マリウスは息子と合流するとケルキラ島に身を隠して機会を待った[50]。
マリウスの逃避行とスッラのミトリダテス戦争の最中、ローマでは執政官キンナと同僚執政官グナエウス・オクタウィウスがスッラへの是非を巡って政争を繰り広げていた。政争は武力衝突に発展してグナエウス派の民兵が市内を制圧して新たにルキウス・コルネリウス・メルラを執政官に立てたが、敗れたキンナ派も市外に脱出してグナエウスの主張を無効とした[53]。ローマでの政争を伝え聞いたマリウス父子は好機が訪れたと確信して兵士や傭兵を集め、イタリア半島のテラモンに上陸した[53]。
ローマ再占領編集
マリウスが最初に率いていた兵士は1000名に満たなかったが、占領した土地で解放した奴隷や腕に自信のある自由民を戦列に加えて6000名の兵士が集められた[53][54]。進軍するマリウスはキンナに対して反乱に加わる事を宣言する書状を送り、すぐにキンナはマリウスを執政官代理に任命して証となる装束品を贈った。マリウスは執政官代理の称号は受け取ったが、装束品は今の自身には相応しくないとして辞退している[53]。粗末な軍装を身に着け、駕籠も拒否して兵を率いる老将の姿は亡命生活への憐憫よりも、それを乗り越えた事への畏怖を感じさせたという[53]。
キンナ軍と合流すると近海の輸送船を捕え、市場を制圧して軍資金や物資を確保して軍を拡大し、準備を整えて首都ローマに向かった。3個軍団のマリウス軍がティヴェレ川を渡河してラティウムに侵攻し、海路も海軍でオスティア港を制圧してティレニア海を封鎖した[53][55]。ローマを包囲したマリウス軍はすぐにローマの七丘の一つであるヤニクルムの丘を攻め落とした[53]。防衛側のグナエウスはローマの伝統に忠実な以外に取り柄がなく、奴隷の軍参加を認めないなどの失策を繰り返した。途中からマリウスの宿敵であるメテルス家のメテルス・ピウスが指揮を代行したが、グナエウスへの反乱を嗾けた兵士を罰するなど規則に拘ってメテルスもまた人望を失った[56]。
対立の中でグナエウスは暗殺され、身の危険を感じたメテルス・ピウスも再びローマから逃れて指揮官を失った防衛軍は総崩れになった[56]。閥族派や元老院はスッラが戻るまでに勝ち目はないと見て、マリウスとキンナに降伏を申し入れた。元老院の降伏をキンナは丁重に受け入れたが、マリウスは元老院の使者を黙って睨み据えるだけで何も答えなかったという。
独裁と粛清編集
キンナがローマに入城した後もマリウスは軍団兵を率いて城壁前に留まり、困惑したキンナが理由を尋ねると自身は「国家の敵」であり、ローマに入る前にまず名誉の回復を要求した[56]。元老院や民会が主だった政治家を大広場に集めてマリウスの名誉回復を決定する討議を始めると、マリウスは「バルデュアエイ」[注釈 7]と呼ばれる親衛隊と広場に現れ、居並んでいた政治家を問答無用で殺害した[56]。バルデュアエイはマリウスが殺せと命じた者を殺し、マリウスの頷きを見ては殺し、果てはマリウスがある法務官の挨拶を無視するとその法務官を殺して首を掲げたという[56]。
民衆派の支配が復活したローマではマリウスとバルデュアエイによる恐怖政治が敷かれた。マリウスの表情次第で処刑されるかが決まり、ローマ人はマリウスと出会うのを恐れて街を出歩かなくなったが、マリウスの側が市内を巡察して少しでも敵意を持った人間を探して処刑していった。粛清の手は閥族派でもスッラとは敵対していた者や、民衆派でマリウスに一度でも反目した者にも及んだ。マルクス・アントニウス・オラトルやルキウス・ユリウス・カエサルらコンスル経験者を含む元老院議員だけで50人、騎士階級の者に至っては1,000人を超えたと言われる。
繰り返される殺戮にキンナは恐れ慄いたが、マリウスは裏切りへの報復を続けた。アントニウス・オラトルの隠れ家が分かった際には拍手して喜び、剣を手に持って自ら斬首しに向かおうとして周囲に押し留められている[57]。スッラと並んで味方から敵に転じたカトゥルスに至ってはマリウスが「あれは死なねばならん」と言ったのを聞いて、惨殺される前に自ら命を絶っている[58]。夥しい数の首がフォルムの前に晒され[57]、マリウスが特に憎んだ者については死体が市中を引き回された[59]。ローマ市民はマリウスの敵とされた人物を密告する者で溢れ返り[57]、道には首のない死体が無造作に捨てられた[58]。あまりにバルデュアエイが見境なく殺戮を繰り返すので、粛清が一段落ついた段階でキンナの名を受けた軍団兵によってバルデュアイは討伐された[58]。
復讐を果たしたマリウスは腹心であるキンナと共に民会から執政官に選出されたが、これはマリウスにとっては7回目の執政官就任となり、共和政期において歴代最多の執政官経験数であった。マリウスはスッラの軍勢と相対すべく準備を始めたが、執政官就任式の直後に病状(腹膜炎であったとされる)が思わしくなく、死期を悟ると一族や側近達を集めた晩餐会で後継者を指名して病床に伏した。
後継指名から5日後、執政官就任から13日目の紀元前86年1月13日、70歳のマリウスは持病の悪化により死を迎えた[60]。
マリウス後の民衆派編集
キンナ、小フラックスらの死編集
指導者であるマリウスを失った民衆派は残されたキンナの手に委ねられた。キンナは小フラックス[注釈 8]を同僚執政官に指名し、マリウスと同じく執政官への連続当選を続けた。紀元前86年、キンナは小アジアに小フラックス率いる遠征軍を差し向けてミトリダテスと戦うスッラを挟み撃ちにする計画を立てた。しかし遠征軍を乗せた船団が悪天候で損害を受けて士気を落とし、小フラックスが人望を欠いていた事もあって逃亡兵が相次いだ。やがてマリウスの熱心な信奉者であったガイウス・ファビウス・フィンブリアの軍団が反乱を起こし、小フラックスはニコメディアで捕らえられて処刑された。
紀元前85年、ミトリダテスがスッラと和睦を結ぶとフィンブリアはポントス王子ミトリダテス・コルキスの軍に戦いを挑んで勝利したが、敵の援軍としてスッラ軍が合流すると勝機は失われた。フィンブリアは自害に追い込まれ、残された軍団はスッラに恭順して第一次ミトリダテス戦争は終結した。スッラの勝利に元老院内でスッラとの和睦が持ち上がると、焦ったキンナは自ら遠征を試みて強引に荒れ狂う海への航海を推し進めようとしたが、それが仇となって陣営地で起きた反乱で殺害された。キンナ、小フラックスともにマリウスの様な威厳や経験を持たず、独裁的で人望もなかった事から軍の忠誠を勝ち取れなかったといえる。
スッラ軍上陸編集
紀元前83年、新たにルキウス・コルネリウス・スピキオ・アシアティクスが執政官に選出されたが、名門スピキオ家の出身という点以外は何の能力も持っていなかった。ローマ本土には10万を超える軍団兵が召集されていたが、スッラがブルンディシウムへ上陸した時には殆ど抵抗も起きなかった。上陸したスッラ軍はメテルス家やポンペイウス父子、マルクス・リキニウス・クラッススらの反乱軍を合流させてローマへ向かった。スピキオは国内の軍勢を搔き集めてカンパニアでスッラ軍と相対するが、直前になってスッラに和睦の申し入れを行った。交渉は物別れに終わったものの、配下の軍団がスッラ軍に恭順する様に求めた事で結局は降伏せざるを得なくなった。
立て続いて指導者を失った民衆派の最後の希望がマリウスの息子小マリウスであった。紀元前82年、20歳であった小マリウスは非常時であるとして年齢規定を無視して執政官に選出された。小マリウスが全土に兵の召集を呼び掛けると大マリウスと共に戦った古参兵が次々と馳せ参じ、4万名からなる軍団を編成した。しかし小マリウスは性格こそ父と同じく峻厳ではあったが、明らかに軍事的経験を欠いており、軍才よりも外見の美しさで知られていた。小マリウスはサクリポルトゥスの戦いで勇敢に兵を指揮したが、老獪なスッラには敵わず敗北して軍の過半数が失われた。ローマ陥落が避けられないと考えた小マリウスは父が助命した者を処刑する様に命じ、ローマ市内で民衆派による更なる粛清が行われた。
サクリポルトゥスで敗れた小マリウス軍は後方のプラエネステで籠城してスッラ軍がこれを兵糧攻めにしたが、その間に小マリウスの同僚執政官グナエウス・パピリウス・カルボがエリトリアでメテッルス軍に対して優勢に戦いを進め、スッラ軍の主力も北方に迂回してカルボ軍に向かう事とした。最後の好機に小マリウスは開門して包囲側への攻撃を行い、カンパニアで抵抗を続けていた民衆派の軍勢も呼応して北上した。スッラはカルボ軍との戦闘を部下に任せてプラエネステに急行するとカンパニアからの救援軍を隘路に誘い込み、これを打ち破って包囲突破を阻止した。同じ頃にメテッルス軍が北方の属州ガリア・キサルピナを占領し、形成不利となったカルボは船団で属州アフリカに逃れてエトルリアの戦線も崩壊した。
残された救援軍の残余はプラエネステから1日の距離であるローマに立て籠ろうとしたが、これでローマ市内も閥族派に転じるという致命的な結果となった。ローマの救援者として堂々と入城したスッラはコッリナ門の攻城戦で救援軍の残余を一掃し、民衆派の敗北は決定的になった。小マリウスはプラエネステで自害し、ローマに入城したスッラは埋葬されていたマリウスの遺灰を掘り起こすと、魂の復活を避ける為に父子の遺灰をティヴェレ川へ流したという。
マリウスからカエサルへ編集
ローマ入城後独裁官に就任したスッラによって民衆派は粛清されたが、スッラの死後に台頭したマルクス・リキニウス・クラッスス及びグナエウス・ポンペイウスと手を組んだ外甥のガイウス・ユリウス・カエサルが第一回三頭政治を結成、民衆派の復活に繋がった。マリウスはユリウス氏族カエサル家の女性と結婚した事から、血統として甥となるカエサルの政治姿勢に少なからず影響を与えており、マリウス父子の功績を度々顕彰した。スッラはカエサルも粛清しようとしていたが、年若いカエサルの助命を嘆願する身内の議員達が相次いだことで断念した。その際、「あの青年の中には多くのマリウスがいる」と呟いたと伝えられている。
後に独裁権を獲得したカエサルが暗殺される騒乱の中、大マリウスの落胤を自称するアマティウス・マリウスという僭称者が民衆派の残党を率いたとの伝承が残っている。アマティウス派は閥族派と手を結んだマルクス・アントニウスによって捕えられ、カエサルの祭壇を設置するなどの行動に加え、「偽マリウス」(Pseudomarius、プセウド・マリウス)として処刑された。この一件は既にマリウスがローマにおける権威の一つとして認識されていた事を示している。
家系編集
老マリウス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カエサル2世 | ガイウス・マリウス | フルキニア | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ユリア・カエサリア | 大マリウス | マルクス・マリウス | マリア | マルクス・グラティディウス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小マリウス | アマティウス | マルクス・マリウス・グラティディアヌス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
評価編集
後世への影響編集
マリウスが共和政ローマにおいて重要であるのは、帝政に移行した要因が彼の事績と大きく関連するからである[18]。彼は「新人(ノウス・ホモ)」と呼ばれる先祖に元老院議員を持たない、従来の支配層の外からやってきた人物として台頭し、民衆派からグラックス兄弟に次ぐ指導者として掲げられ、旧来の社会体制を維持しようとする閥族派と内戦を繰り広げた。また軍制改革でローマ軍を再建する過程でこれまでの市民兵を専業の職業軍人とし、軍隊を市民社会から切り離された存在とした。やがて有力な将軍と軍団による軍閥がローマの政治を左右する様になり、元老院による支配体制も衰え古代ローマが共和政から帝政へと変貌していく要因となったと考えられている。
一方、マリウス自身は民衆派というよりも単に不公平を嫌う軍人であって、ローマ社会を一変させる革命は望んでいなかった[7]。民衆派が得意とした大衆の扇動も好まず、護民官時代には穀物配給に関する不正防止にも取り組み、平民の不満を押し切って可決させている[8]。貴族階級への敵意は家系を理由に誹謗された経験から来るもので、名家の出身であるグラックス兄弟の理念的な主張とは異なっていた。もしパトリキや上位のプレブスといった閥族派がマリウスの功績を正当に扱っていれば、執政官を輩出した家門が一つ増えるだけで終わっていたともいえる[19]。
しかし傲慢な閥族派と元老院は新しい家系を受け入れずにマリウスと民衆派を接近させ、民衆派は英雄として彼を掲げてその期待に応えられないと見るや多くの者が見限った。やがて最後に勝者となったマリウスは民衆派と閥族派の双方に粛清を繰り広げ、膨大な数の政治家や貴族が歴史から消える事となったのである。このような結末は甥のカエサルや、その大甥で王朝を開いたオクタウィアヌスといった政治巧者ではない、マリウスの政治的限界を示してもいる。
軍人としては大スキピオやピュロスの様な天才肌でこそなかったが、疑いなく優れた軍司令官であった。マリウスは兵の規範となる頑強な心身を持ち、大軍を相手にしても恐れず寡兵で立ち向かう勇猛果敢さでも知られていた。また兵士を部下ではなく戦友として平等に扱い、自らにも厳しい軍律を課すことを厭わなかった。こうした点から軍人達はマリウスを威厳のある将軍として恐れるだけではなく、親愛の情を持って従う事ができた。新興国から大国となったローマには奇策よりも実務に長けた将軍が必要であり、マリウスはまさにそうした人材であった。
歴史的評価編集
- 生まれ育ったアルピヌムのケレアタエ村が都市に格上げされた際、マリウスの出生地を意味する「ケレアタエ・マリアナエ」に改称されている[2]。
- 同郷人であるキケロは、マリウスをガイウス・フラミニウスやスキピオ・アフリカヌスらと共に「政治家が権威付けに用いる偉人の一人」と評している[61]。
- 一方でスッラとの内戦中に行ったローマ占領については批判しており、元老院との協調によって復権した自分と対比させている。
- 歴史家ガイウス・サッルスティウス・クリスプスは、『ユグルタ戦記』の中でマリウスを英雄として描き、逆に対立が噂されていたクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ヌミディクスを小人物として描いている。
- 甥のカエサルは政治的な後盾としてマリウスがユリウス氏族の外戚である事をしばしば強調し、叔母ユリア・カエサリアの葬儀での演説など権威回復に努めた。
- プルタルコスは叔母の葬儀でカエサルは公式での使用が禁じられていたマリウスの胸像を持ち出して、その功績を公然と賞賛したと書いている。
- プルタルコス本人は『対比列伝』で将軍としての才覚を讃えつつ、「敵対者には極めて攻撃的だった」と寛容でない苛烈さを欠点として記している。
- テオドール・モムゼンはマリウスの軍制改革について、アルボガストやスティリコの行った改革と比類するものと評価している。
- 新古典主義においては盛んにギリシャ・ローマ時代の歴史画が描かれたが、マリウスもローマの英雄として幾度も題材に用いられた。
- 著名なものでは「ミントゥルナエのマリウス」(ジャン=ジェルマン・ドルーエ)、「マリウスの勝利」(サヴェリオ・アルタムーラ)、「マリウスの凱旋」(ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ)などが挙げられる。
逸話編集
- サトゥルニヌスと元老院打倒の密議を交わしながら、隣の部屋ではサトゥルニヌス打倒について元老院議員達と密談していたという。政治家としての優柔不断を揶揄する創作と見られている。
- ギリシャ文化を軽蔑していた事で知られ、劇場に訪れた際には上演されていたギリシャ詩劇を一瞥もせずに帰ったという[62]。
- 私財の蓄財や放蕩な生活にはさほど興味を持たず、あくまで栄光と戦争に野心を燃やした人物であった。晩年に後継を指名する時ですら、「70年の生涯で7度執政官となり、幾度も戦争に勝ち、蛮族を破った。…だが何ら満足はしていない。」と呟いたという。
脚注編集
注釈編集
- ^ "Gaius Marius Gaius filius Gaius nepos"の略。「ガイウスの孫でありガイウスの息子であるガイウス・マリウス」の意。
- ^ アルピヌムがローマ市民権を得るのは紀元前2世紀の前半なので中央で無名なのは当然
- ^ クィントゥスはまだ20歳で、執政官の立候補年齢から言えば20年以上待つ様に提案したのと同義になり、明らかな侮辱であった
- ^ ブルディガラの戦いで捕虜にされたローマ兵が牛のくびきをくぐらされたという逸話を描いている
- ^ 建国神話に登場する最初のローマ王。
- ^ 共和政初期の独裁官。ガリア人とのアッリアの戦いで滅亡の危機に瀕したローマを立て直し、第二の建国者と呼ばれた。
- ^ 「バルデュアエイ」が何に由来し、どういった部隊であったのかは資料に残されていない。一説には古代イタリア人の部族名に由来すると言われており、アウシクリアの様に傭兵から編成されていたと思われる。
- ^ 紀元前100年にマリウスの同僚執政官を務めたルキウス・ウァレリウス・フラックスと同名の親族。
出典編集
- ^ 鷲田, pp.75-76.
- ^ a b c d e f モムゼン, p. 169.
- ^ Hildinger, Erik (2002). "Chapter 5: The Jugurthine War". Swords Against the Senate: The Rise of the Roman Army.
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- ^ a b c プルタルコス, p. 306-307.
- ^ モムゼン, p. 276-277.
- ^ プルタルコス, p. 308-309.
- ^ キケロ「アカデミカ」2.1.5
- ^ プルタルコス, p. 241.
参考資料編集
関連項目編集
公職 | ||
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先代 セルウィウス・スルピキウス・ガルバ ルキウス・ホルテンシウス(解任) 補充:マルクス・アウレリウス・スカウルス |
執政官 同僚:ルキウス・カッシウス・ロンギヌス 紀元前107年 |
次代 クィントゥス・セルウィリウス・カエピオ ガイウス・アティリウス・セッラヌス |
先代 グナエウス・マッリウス・マクシムス プブリウス・ルティリウス・ルフス |
執政官 同僚:ガイウス・フラウィウス・フィンブリア 紀元前104年 |
次代 ガイウス・マリウス III ルキウス・アウレリウス・オレステス |
先代 ガイウス・マリウス II ガイウス・フラウィウス・フィンブリア |
執政官 同僚:ルキウス・アウレリウス・オレステス 紀元前103年 |
次代 ガイウス・マリウス IV クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス |
先代 ガイウス・マリウス III ルキウス・アウレリウス・オレステス |
執政官 同僚:クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス 紀元前102年 |
次代 ガイウス・マリウス V マニウス・アクィッリウス |
先代 ガイウス・マリウス IV クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス |
執政官 同僚:マニウス・アクィッリウス 紀元前101年 |
次代 ガイウス・マリウス VI ルキウス・ウァレリウス・フラックス |
先代 ガイウス・マリウス V マニウス・アクィッリウス |
執政官 同僚:ルキウス・ウァレリウス・フラックス 紀元前100年 |
次代 アウルス・ポストゥミウス・アルビヌス マルクス・アントニウス・オラトル |
先代 ルキウス・コルネリウス・キンナ I グナエウス・オクタウィウス |
執政官 同僚:ルキウス・コルネリウス・キンナ II 紀元前86年 |
次代 ルキウス・コルネリウス・キンナ III グナエウス・パピリウス・カルボ |