ガルバ
セルウィウス・スルピキウス・ガルバ(ラテン語: Servius Sulpicius Galba, 紀元前3年12月24日 - 69年1月15日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:68年6月8日 - 69年1月15日)。四皇帝の年の最初の皇帝である。
ガルバ Galba | |
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ローマ皇帝 | |
![]() ガルバ胸像 | |
在位 | 68年6月8日 - 69年1月15日 |
全名 |
セルウィウス・スルピキウス・ガルバ Servius Sulpicius Galba |
出生 |
紀元前3年12月24日 テッラチーナ |
死去 |
69年1月15日(71歳没) ローマ |
反乱 | オト |
配偶者 | アエミリア・レピダ |
子女 | 息子2人(早世) |
父親 | ガイウス・スルピキウス・ガルバ |
母親 | ムンミア・アカイア[1] |
出自編集
富裕な家系の出であったが、カエサル家との親戚関係や婚戚関係には無かった。
ただし、妻アエミリア・レピダはマルクス・アエミリウス・レピドゥスの息子クィントゥス・アエミリウス・レピドゥス(小レピドゥスことマルクス・アエミリウス・レピドゥスの兄弟)の息子マニウス・アエミリウス・レピドゥスの娘である。レピドゥス家は小レピドゥスの父マルクス・アエミリウス・レピドゥスの兄弟ルキウスの孫ルキウスがアウグストゥスの孫娘小ユリアと結婚、孫ルキウスの兄弟マルクスの娘アエミリア・レピダと息子マルクスがアウグストゥスの孫と結婚している。つまり、ガルバはアウグストゥスの家系と直接の血縁関係には無いものの遠縁にあたる。なお、レピドゥスとその女性型の名レピダが確認される人物としては、小ユリアの曾孫カッシウス・レピドゥスとその娘カッシア・レピダが最後であるが、この父娘の家系は少なくとも8世紀まで存続しており、レピドゥス家の血筋自体は後世まで残っている。
皇帝就任編集
ガルバは順調に出世し、68年にユリウス・クラウディウス朝最後の皇帝ネロへのウィンデクスの反乱が起こった時は、ヒスパニア・タラコネンシスの総督であった。
混乱の中で皇帝宣言をしたガルバだったが、ウィンデクスの反乱は直後ルキウス・ウェルギニウス・ルフスによって鎮圧された。ルフスが自ら積極的な行動を起こさないのを見ると、ガルバは軍団と共に首都を目指し、10月にローマに入城した。ガルバがローマへ向かうとの報に対して元老院はネロを捨て、ガルバを新たな皇帝として認めていた。国賊とされたネロはガルバがローマに入る前に自殺した。
帝位についたガルバはネロの放蕩によって破綻していた帝国の財政の再建を図った。皇帝は即位に際して軍隊の好意を獲得するため金貨を配る風習があったが、ガルバはこれを軽蔑して行わなかった。またガルバはすでに60を過ぎた老齢であり、活気を欠くところがあった。彼は支持者に囲まれており、そのために期待を裏切られた民衆や軍隊の支持を得ることができず、その治世を縮める原因となった。
69年1月1日、ゲルマニア・スペリオル属州の2軍団が皇帝への忠誠宣誓を拒み、新しい皇帝の擁立を要求した。翌日ゲルマニア・インフェリオルでも反乱がおき、駐在していた軍隊はゲルマニア・インフェリオル総督アウルス・ウィテッリウスをガルバにかわり皇帝に擁立するよう要求した。この反乱の勃発はガルバに自らの支持基盤の脆さを自覚させた。ガルバは人格者として知られたルキウス・カルプルニウス・ピソ・リキニアヌスを養子にし、自らの後継者として公表した。この選択はそれ自体としては賢明で慎重なものであったが、民衆や軍隊の支持を得られなかった。
最期編集
ガルバのかつての支持者であり、ルシタニア総督であったオトは、ガルバの後継者となることを期待していた。期待を裏切られたオトは、同じくガルバに不満を持つプラエトリアニと計らい、ラクス・クルティウスの辺にガルバとピソの父子を殺害し、帝位についた。
評価編集
ガルバはその晩年精彩を欠いたが、その目立たなさが、ガルバをネロ治世下でも目立ずに生きながらえさせたといえる。
タキトゥスはその『同時代史』にて、「もしガルバが皇帝にならなければ、万人はガルバが皇帝に値すると述べたであろう」と評している。
脚注編集
- ^ 紀元前142年にケンソルとなったルキウス・ムンミウスの曾孫。