キトカン・ベイ (護衛空母)

アメリカ海軍の護衛空母。カサブランカ級。
USS Kitkun Bay
艦歴
発注
起工 1943年5月3日
進水 1943年11月8日
就役 1943年12月15日
退役 1946年4月19日
その後 1946年11月18日に売却され、1947年の初めに廃棄された。
除籍
性能諸元
排水量 7,800 トン
全長 512.3 ft (156 m)
全幅 108.1 ft (33 m)
吃水 22.5 ft (6.9 m)
機関 3段膨張式蒸気機関2基2軸、9,000馬力
最大速 19ノット
航続距離 10,240カイリ(15ノット/時)
乗員 士官、兵員860名
兵装 38口径5インチ砲1基、40ミリ機関砲16基
搭載機 28機

キトカン・ベイ (: USS Kitkun Bay, AVG/ACV/CVE-71) は、アメリカ海軍護衛空母カサブランカ級航空母艦の17番艦。

艦歴 編集

キトカン・ベイは当初 AVG-71 (航空機搭載護衛艦)に分類されたが1942年8月20日に ACV-71 (補助空母)に艦種変更され、1943年7月15日に再び CVE-71 (護衛空母)へと艦種変更された。1943年5月3日に合衆国海事委員会の契約下ワシントン州バンクーバーカイザー造船所で、エドワード・A・クルーズ夫人によって進水し、12月15日にJ・P・ホイットニー艦長の指揮下就役する。

1944年 編集

キトカン・ベイは太平洋岸を巡航した後、1944年1月28日にサンディエゴを出港して、要員、航空機およびその他の貨物を輸送するためニューヘブリディーズ諸島のアメリカ軍基地に向かった。輸送任務終了後、キトカン・ベイは2月18日に真珠湾に寄港し、3月6日にサンディエゴに帰投した。帰投後、キトカン・ベイに固有の航空隊が搭載され、ハロルド・B・サラダ少将率いる第26空母群司令部が乗艦してきた。5月1日、キトカン・ベイは最終訓練を仕上げるために真珠湾に向けて出港した。

 
被弾してキトカン・ベイ上空を通過して墜落する日本機(1944年6月)

5月31日、キトカン・ベイの空母群はサイパン島に上陸する、第52.17任務群の輸送船団および火力支援部隊を護衛して出撃した。6月13日、キトカン・ベイは早くも日本機の空襲を受けたが、即座に撃墜した。翌日、キトカン・ベイの航空機は、マリアナ諸島の東方から各地の日本軍施設および航空基地を片っ端から爆撃して、サイパン上陸の援護を開始した。6月17日、8機の日本機がキトカン・ベイに挑戦してきたが、瞬く間に撃墜された。翌日にも3機が爆撃してきたが、これも対空砲火で撃墜した。6月23日には、搭載の航空隊の総力を挙げてテニアン島の日本軍航空基地を爆撃し、第六十一航空戦隊に大打撃を与えた[1]。7月に入り、キトカン・ベイはエニウェトク環礁で一時的な休息をとったが、7月14日には再びサイパン島沖に姿を現し、サイパン島とテニアン島に圧力をかけ続けた。8月2日から4日にかけては、グアムを攻撃した。マリアナ諸島での一連の作戦を終えた後、キトカン・ベイはエスピリトゥサント島に帰投した。

キトカン・ベイは、追加訓練のためソロモン諸島海域で行動した後、9月8日にパラオ近海に向けて出撃。キトカン・ベイの任務群は、9月15日から21日までペリリューの戦いおよびアンガウルの戦いを支援した後、マヌス島に下がって、来るレイテ上陸に備えて準備を行った。10月12日、キトカン・ベイはクリフトン・スプレイグ少将率いる第77.4.3任務群(通称「タフィ3」)に加わり、マヌス島を出撃した。10月20日のレイテ島上陸作戦当日、キトカン・ベイはレイテ島の日本軍に対する攻撃を開始。上陸部隊援護の作戦は10月24日までは確実に続けられ、10月25日も予定の行動を行うためサマール島の北西海域を航行していた。栗田健男中将率いる強力な日本艦隊が、サンベルナルジノ海峡を抜けてレイテ湾の輸送船団に刻一刻と迫りつつある事も露知らずに。

サマール沖海戦と敷島隊 編集

10月25日朝、第77.4.3任務群の航空機は対潜哨戒のため一斉に飛び去った[2]。その時、任務群旗艦ファンショー・ベイ (USS Fanshaw Bay, CVE-70) の見張りが北西の方角に対空砲火を発見[2]。これと同時に、ファンショー・ベイのレーダーも北西方向に複数の目標を探知していた[2]。栗田艦隊が、第77.4.3任務群の目の前に出現しつつあったのである。ファンショー・ベイのスプレイグ少将は、ただちに栗田艦隊とは逆の方向に全速力で逃げるよう命令を出し、同時に第7艦隊トーマス・C・キンケイド中将)に救援を求める緊急電報を発信して[3]、任務群の全艦艇は煙幕を張りながらスコールに向かっていった。栗田艦隊はよいレーダーを持たぬとはいえ、次第に護衛空母や駆逐艦護衛駆逐艦に命中弾および至近弾を与えつつあった。キトカン・ベイの周囲には至近弾が落下したが、命中弾は無かった[4]。キトカン・ベイは出動可能機全機で反撃を行い、重巡洋艦鳥海と思しき巡洋艦に打撃を与えた[1]。スプレイグ少将は、栗田艦隊と最初に接触した時点で「あと5分も敵の大口径砲の射撃を受け続ければ、わが艦隊は全滅していただろう」と言ったが[5]、任務群はスコールの助けと駆逐艦、護衛駆逐艦の必死の反撃により、接触から2時間近く経っても辛うじて健在だった。9時11分、スプレイグ少将の理解しがたい事が起こった。栗田艦隊は、別の機動部隊を求めに行くとの名目[6]で戦場を去っていき、二度と第77.4.3任務群の目の前には姿を見せなかった。スプレイグ少将は後に、「戦闘で疲れ切った私の頭脳は、この事実をすぐには理解できなかった」と回想している[7]。やがて戦闘配置は解かれ、ガンビア・ベイを失った第77.4.3任務群の空母は再び輪形陣を構成したが、旗艦のファンショー・ベイは損傷により輪形陣からは遅れがちだった[7]

しかし、第77.4.3任務群が安心していたのは、つかの間だった。7時25分にマバラカット基地を出撃した[8]神風特別攻撃隊敷島隊(関行男大尉)が、10時49分に雲上から第77.4.3任務群に向けて突入してきた[9]。キトカン・ベイの見張りは突入機と直掩機を発見し、突入機は40度の角度を以って突入してきた[10]。やがて突入機は、キトカン・ベイの上空で一回転した次の瞬間、艦橋をかすめて飛行甲板外側部の通路に命中したが、爆弾が直撃せず海面で爆発し、爆発で生じた火災が即座に消し止められたため、被害は最小限に食い止められた[10]。この攻撃では、セント・ロー (USS St. Lo, CVE-63) が沈没し、キトカン・ベイの他にはカリニン・ベイ (USS Kalinin Bay, CVE-68) とホワイト・プレインズ (USS White Plains, CVE-71) も損傷した。敷島隊のどの機がどの空母に突入したのかは定かではない[11]。キトカン・ベイは一連の戦いで搭載機2機と、そのパイロットを失った。キトカン・ベイは補給と修理のためマヌス島に下がった後、11月1日に出港して11月7日に真珠湾に帰投。搭載飛行隊が VC-5 から VC-91 に交代した。

1945年 編集

整備と修理を終えたキトカン・ベイは真珠湾を出港し、道中で潜水艦からのものと思しき攻撃に遭ったが回避して、12月17日にマヌス島に到着した。キトカン・ベイは第77.4.3任務群の旗艦となり、1945年の元日を迎えた。第77.4.3任務群は他の護衛空母任務群とともにリンガエン湾に上陸する部隊の護衛にあたっていた。上陸部隊は多数の艦艇の護衛を得てスリガオ海峡ミンダナオ海スールー海と通過してリンガエン湾に入り、上陸作戦の発動を待った。これに対し、日本軍は連日神風を繰り出して艦隊への攻撃を行い、リンガエン湾到着までにオマニー・ベイ (USS Ommaney Bay, CVE-79) などを撃沈破していた。1月8日、この日も朝から神風が艦隊に降り注いでいたこの日の主力は日本陸軍の神風で[12]、オーストラリア重巡洋艦オーストラリア (HMAS Australia, D84) とカダシャン・ベイ (USS Kadashan Bay, CVE-76) が損傷した[13]。18時57分、陸軍特攻石腸隊(九九式襲撃機4機)が艦隊を襲撃してきたので、キトカン・ベイでは戦闘機を緊急発進させて、対空砲火と協力して石腸隊を追い払った[14]。しかし、その間隙を縫って爆装した疾風の集団[15]が飛来し、そのうちの1機がキトカン・ベイの左舷吃水線付近に命中した[16]。搭載していた2発の爆弾が爆発しなかったのが不幸中の幸いであったが[17]、それでも機関室は火災を起こして艦は左に大きく傾いた[17]。また、運悪く対空砲火を打ち上げていた護衛駆逐艦の5インチ砲弾が誤ってキトカン・ベイの右舷部に命中し、16名が戦死して37名が負傷した。航行不能となったキトカン・ベイは任務群旗艦の座をシャムロック・ベイ (USS Shamrock Bay, CVE-84) に移し、タグボートに曳航されて戦場を後にした[18]。翌日、キトカン・ベイは辛うじて1台のエンジンのみが起動可能となり、レイテ湾、マヌス島、真珠湾を経て、2月28日にサンペドロに到着した。

2ヵ月後、修理を終えたキトカン・ベイはハワイに向けて出港。ハワイ水域での訓練を終えた後、第3艦隊ウィリアム・ハルゼー大将)に加わるためウルシー環礁に向かい、6月15日に到着した。7月3日、キトカン・ベイは日本本土への最終攻撃を行う第38任務部隊ジョン・S・マケイン・シニア中将)への支援を行うためウルシーを出撃し、洋上で合流して支援任務を行った。8月15日に日本が降伏して戦争が終わると、キトカン・ベイは北日本地域を占領する北太平洋部隊(フランク・J・フレッチャー大将)指揮下の第44任務部隊に合流するためアダック島に向かった。キトカン・ベイは9月7日に本州および北海道海域に到着し、9月27日まで滞在して、日本軍によって収容されていたアメリカ人捕虜に対する支援全般任務を行った。その後、マジック・カーペット作戦に参加して、554名の復員兵を乗せて10月19日にサンフランシスコに到着。1946年1月12日にサンペドロでその任務を終えるまで、キトカン・ベイは真珠湾と沖縄の間で復員兵輸送任務を行った。

キトカン・ベイは1946年2月18日にワシントン州ブレマートンピュージェット・サウンド海軍造船所に入り、4月19日に退役した。1946年11月18日にオレゴン州ポートランドのジデル・マシーナリー・アンド・サプライ社に売却され、1947年初めに廃棄された。

キトカン・ベイは第二次世界大戦の戦功で6つの従軍星章と殊勲部隊章を受章した。

脚注 編集

  1. ^ a b 永井、木俣, 143ページ
  2. ^ a b c 木俣『日本戦艦戦史』479ページ
  3. ^ 木俣『日本戦艦戦史』480ページ、金子, 80ページ
  4. ^ 木俣『日本戦艦戦史』479ページ
  5. ^ 金子, 80ページ
  6. ^ 金子, 81ページ
  7. ^ a b 金子, 118ページ
  8. ^ 金子, 100ページ
  9. ^ 金子, 122ページ
  10. ^ a b 金子, 122ページ
  11. ^ 金子, 122ページでは、キトカン・ベイに突入したのが関機としている。ウォーナー『ドキュメント神風 上』202、203ページでは、カリニン・ベイに突入したのが関機で、キトカン・ベイに突入したのは四番機としている
  12. ^ 永井、木俣, 139ページ
  13. ^ 永井、木俣, 139ページ、ウォーナー『ドキュメント神風 下』307ページ
  14. ^ 永井、木俣, 142ページ
  15. ^ 陸軍特攻精華隊か(ウォーナー『ドキュメント神風 下』307ページ)
  16. ^ 永井、木俣, 142,143ページ。英文版ではオスカー Oscar (隼)としている
  17. ^ a b 永井、木俣, 143ページ
  18. ^ 永井、木俣, 144ページ

参考文献 編集

  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー/妹尾作太男(訳)『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上・下』時事通信社、1982年、ISBN 4-7887-8217-0ISBN 4-7887-8218-9
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
  • 永井喜之、木俣滋郎『撃沈戦記 PARTIII』朝日ソノラマ、1991年、ISBN 4-257-17242-8
  • 金子敏夫『神風特攻の記録 戦史の空白を埋める体当たり攻撃の真実』光人社NF文庫、2005年、ISBN 4-7698-2465-3

外部リンク 編集