キモン・ゲオルギエフ
キモン・ストヤノフ・ゲオルギエフ(Кимон Стоянов Георгиев、1882年8月11日 - 1969年9月28日)は、ブルガリアの軍人、政治家。戦間期(1934年5月 - 1935年1月)と第二次世界大戦末期(1944年9月 - 1946年11月)に首相を務める。1923年、1934年、1944年の三度のクーデターに関与している。
キモン・ゲオルギエフ Кимон Стоянов Георгиев | |
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生年月日 | 1882年8月11日 |
出生地 | ブルガリア公国、パザルジク |
没年月日 | 1969年9月28日(87歳没) |
在任期間 | 1946年9月15日 - 1946年11月22日 |
臨時評議会議長 | ヴァシル・ペトロフ・コラロフ |
第35・43代ブルガリア王国首相 | |
在任期間 | 1934年5月19日 - 1935年1月22日 |
国王 | ボリス3世 |
在任期間 | 1944年9月9日 - 1946年9月15日 |
国王 | シメオン2世 |
経歴
編集パザルジク出身。ソフィアの軍事学校を卒業後、バルカン戦争に中隊長、第一次世界大戦には大隊長として従軍し、1916年には戦傷により片目を失う。1920年には中佐の階級で退役した。
国民協定(1921年~1923年)、民主協定(1923年~1931年)、政治グループ「ズヴェノ」(1931年~1934年)に加入。1926年~1928年に運輸・郵便・電信相を歴任し、1934年5月にクーデターを起こして首相に就任した。ゲオルギエフ政権は、全政党を解散すると共にベニート・ムッソリーニに範を取った協同組合主義的独裁体制を確立した。また1935年7月23日にはソ連と外交関係を樹立した。
1935年1月に国王ボリス3世のクーデターで首相の座を追われ、亡命。1943年に「ズヴェノ」と共に反ファシスト勢力に加わり、祖国戦線のメンバーとなった。武装蜂起成功後、1944年9月9日、祖国戦線政府を組閣。
1944年~1949年、人民同盟「ズヴェノ」議長。1946年~1950年、1959年12月~1962年3月、閣僚会議副議長。1946年10月から1947年12月まで外務相、1947年12月から1959年3月まで電化・土地改良相。1962年3月からブルガリア共産党人民議会幹部会議員、祖国戦線国家会議副議長。1969年9月28日に脳卒中で死去した。
パーソナル
編集ブルガリア人民共和国社会主義労働英雄(2度)。
公職 | ||
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先代 (ブルガリア王国) |
ブルガリア人民共和国 閣僚評議会議長 初代:1946 |
次代 ゲオルギ・ディミトロフ |
先代 ニコラ・ムシャノフ コンスタンティン・ムラヴィエフ |
ブルガリア王国 閣僚評議会議長 第35代:1934 - 1935 第43代:1944 - 1946 |
次代 ペンチョ・ズラテフ (ブルガリア人民共和国) |