キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド

キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド (Captain Beefheart and The Magic Band) は、1964年から1982年まで活動したアメリカ合衆国ロックバンドである。彼等はキャプテン・ビーフハートことドン・ヴァン・ヴリートに率いられて、彼の作品を演奏した。結成時から1969年までの名前は、キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンド (Captain Beefheart and His Magic Band) であった。

キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド
Captain Beefheart and The Magic Band
別名 キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンド(1964年-1969年)
出身地 アメリカ合衆国の旗カリフォルニア州ランカスター
ジャンル ロック
活動期間 1964年 - 1982年
レーベル A&Mレコード
ブッダ・レコード
ブルー・サム・レコード
ストレイト・レコード
リプリーズ・レコード
マーキュリー・レコード
ヴァージン・レコード
旧メンバー ドン・ヴァン・ヴリート(キャプテン・ビーフハート)
ライ・クーダー
その他多数

概要 編集

活動と評価 編集

キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドは、約18年間の活動期間中、ブルース・ロックを基調としつつ、サイケデリック・ロックやフリー・ジャズを取り入れた、極めてユニークな作品を発表し続けた。彼等はヴァン・ヴリートの個性的かつ強権的なバンド運営やレコード会社との軋轢にも影響され、メンバー・チェンジを繰り返した後、1974年に解散状態に陥ったが、1978年にメンバーを一新して再結成され、再び意欲的な作品を発表した。

代表作の一つに挙げられる2枚組の大作『トラウト・マスク・レプリカ』(1969年)は、イギリスBBCの著名なDJであるジョン・ピールから「大衆音楽の歴史の中で、音楽家以外の芸術家からも理解され芸術であると見なされうる作品があるとすれば、まさにこの作品である」と絶賛され[1]、1970年代後半のパンク・ロック世代のミュージシャンにも影響を与えた[2][注釈 1]

本国アメリカでの知名度は決して低くはなかった[注釈 2][3]が、音楽雑誌での好意的な評価とは裏腹に商業的な成功には縁がなく、チャート入りしたアルバムは1作もなかった[4]。彼等はアメリカよりもヨーロッパで熱狂的に迎えられ[注釈 3][5]、1969年10月にベルギーのアムージで開かれたFestival d'Amougies[注釈 4][6]、1972年5月にイギリスのグレーター・マンチェスターウィガンで開かれたビッカーショー・フェスティバル[7]、1975年7月5日に開かれた第2回ネブワース・フェスティバル[8]などに出演したほか、イギリス、フランス、ドイツのテレビ番組やラジオ番組にも多く出演した[注釈 5]

1982年にアルバム『烏と案山子とアイスクリーム』が発表された後は、2010年にヴァン・ヴリートが病没するまで、新作アルバムの発表やコンサートなどの活動は一切行なわれなかった。ヴァン・ヴリートによる解散宣言はなく、彼が画家としての活動[注釈 6]に専念し始めたことに伴なって、バンドは自然消滅していったと考えられている[9]

バンド名 編集

キャプテン・ビーフハートとは、フランク・ザッパが1964年にクカモンガスタジオZ[注釈 7]でヴァン・ヴリート[注釈 8]と共同で制作していた低予算のSF映画の登場人物名である[10][11][注釈 9]。彼等はカリフォルニア州ランカスターアンテロープ・バレー・ハイ・スクールの同級生で[注釈 10]、ザッパがCaptain Beefheart vs. The Grunt People[12]という映画の台本を書いて、ヴァン・ヴリートが魔力を発揮するキャプテン・ビーフハートというマジック・マンを演じる計画であった[注釈 11]

結成時のバンド名はキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンド[注釈 12]であった。ヴァン・ヴリートはこのバンド名でアルバムを3作発表した後、1970年、アルバム『リック・マイ・デカルズ・オフ、ベイビー』をキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド名義で発表した。彼は1972年の次作『ザ・スポットライト・キッド[注釈 13]を、それまでのアルバムと同様にバンドの当時のメンバーが全面参加しているにも拘わらず、キャプテン・ビーフハート名義で発表した[13]。そして、1972年の次作『クリア・スポット』の名義をキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドに戻し[注釈 14]、以後、生前最後のオリジナル・アルバム『烏と案山子とアイスクリーム』(1982年)まで、バンド名をキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドに統一した。ヴァン・ヴリートは一貫して、自分のステージ名にはキャプテン・ビーフハート、自作曲の作者名にはドン・ヴァン・ヴリートを用いた。

メンバー名 編集

キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンド名義の通算3作目のアルバム『トラウト・マスク・レプリカ』(1969年)の発表に際して、ヴァン・ヴリートはバンドのメンバー全員がキャプテン・ビーフハートの徹底した支配下にあることを強調する方法の一つとして、メンバー全員にキャプテン・ビーフハートのような奇妙な名前を与えた[注釈 15][14]

このやり方は、キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド名義の1作目となる次作『リック・マイ・デカルズ・オフ、ベイビー』(1970年)から『クリア・スポット』(1972年)まで厳格に採用された[注釈 16]が、マーキュリー・レコードに移籍して発表した『アンコンディショナリー・ギャランティード』(1974年)には例外が見られ[注釈 17]、ヴァン・ヴリート以外のメンバーが全員一新された次作『ブルージーンズ・アンド・ムーンビームズ』(1974年)では全く採用されなかった。1975年に一度解散状態に陥った後、再始動したザ・マジック・バンドのメンバーには、ヴァン・ヴリートによる命名を受けた者と受けなかった者がいた。

来歴 編集

以下、ヴァン・ヴリートを含めて全てのメンバーを、ヴァン・ヴリートの命名ではなく本名もしくは通名で呼称する。

結成からデビューまで 編集

1964年の末、ドン・ヴリートはランカスターで、アンテロープ・バレー・ハイ・スクールの同級生でR&Bのギタリストであるアレックス・スノウフェーとバンドを結成した。メンバーは、ドン・ヴリート改めドン・ヴァン・ヴリート(ボーカル)、アレックス・スノウフェー改めアレックス・セント・クレア(ギター)、ダグ・ムーン[注釈 18][15](ギター)、ジェリー・ハンドレー[注釈 19](ベース・ギター)、P. G. ブレイクリー(ドラムス)であった。やがてブレイクリーは演奏技術に問題があったのでヴィック・モーテンセン[注釈 20][16]に交代させられて、ここにキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドが誕生した[17]。しかしモーテンセンがベトナム戦争に徴兵されたので、セント・クレアはリチャード・ヘプナー(ギター)を加入させて自分はドラムスを担当した[18]

1965年4月、彼等はロサンゼルスハリウッド・パラディアムで催された第4回ハリウッド・ティーンエイジ・フェアーに出場して注目を集めて、A&Mレコードと契約を結び[18]、翌1966年4月にデビュー・シングル'Diddy Wah Diddy'、6月に2作目のシングル'Moonchild'を発表した[注釈 21]。これらのシングルはいずれもヒットしなかったので、彼等はA&Mとの契約を失ってしまった[注釈 22]。しかし、カーマ・スートラ・レコードの西海岸事務所の所長だったボブ・クラスノウが'Diddy Wah Diddy'を聴いて感銘を受けて、カーマ・スートラ・レコードが新設した子会社のブッダ・レコードから彼等のデビュー・アルバムを発表したいと熱望した。

1967年『セイフ・アズ・ミルク』 編集

1966年の年末、ヴァン・ヴリートは1965年のハリウッド・ティーンエイジ・フェアーで出会った16歳のドラマーのジョン・フレンチをメンバーに迎えた[注釈 23][19]。キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドは、やはりハリウッド・ティーンエイジ・フェアーに出演していたライジング・サンズ[注釈 24]のベーシストだったゲイリー・マーカーをレコーディング・エンジニアに迎えて、デビュー・アルバムのデモ・テープの制作を開始した。しかしブルース・ロックの範疇を超えた作品を目指していたヴァン・ヴリートは、ギタリストのムーンの技量に不満を抱いて、ライジング・サンズのギタリストだったライ・クーダー[注釈 25]をメンバーに迎えた[20]。こうしてメンバーは、ヴァン・ヴリート、セント・クレア、クーダー、ハンドレー、フレンチとなった。クーダーは編曲も担当し、さらに音楽監督としてヴァン・ヴリートの複雑な考えをメンバーにわかりやすく説明する役を担った。

1967年4月、ハリウッドでデビュー・アルバムの録音を開始する日の前日、クラスノウはプロデューサーとしてリチャード・ペリー[注釈 26]を連れてきた。しかしペリーはプロデュースの経験が皆無であったうえにミキシングやエンジニアリングの知識も乏しく[21]、ヴァン・ヴリート達はアルバムの出来上がりに満足できなかったので、ペリーと共同でプロデュースを担当したクラスノウがリミックスを行った。

彼等は、同年6月に開催されるモントレー・ポップ・フェスティバルに出演することになった。その一週間前の6月11日、彼等はファンタジー・フェアー・アンド・マジック・マウンテン・ミュージック・フェスティバル[注釈 27]に出演した。ところが開始早々、ヴァン・ヴリートは「聴衆の女性の一人が自分を見つめているうちに、その顔が魚の顔になり、口からあぶくを吹き始めたので」、歌うのを止めてステージを降りてしまった。この一件でクーダーはヴァン・ヴリートに愛想を尽かして脱退してしまい[22]、彼等はモントレー・ポップ・フェスティバルの出演という千載一遇の機会を逃してしまった。

デビュー・アルバム『セイフ・アズ・ミルク』は9月にブッダ・レコード初のアルバムとして発表された。

It Comes To You In A Plain Brown Wrapper(未発表) 編集

クーダーの後釜としてジェリー・マギー[注釈 28]が短期間在籍したあと、1967年10月にジェフ・コットンが加入した[注釈 29][23]。彼等は、10月と11月、ハリウッドで、クラスノウをプロデューサーに迎えて、"It Comes To You In A Plain Brown Wrapper"と題された二枚組の新作アルバムの新曲を録音した[24]。彼等はこのアルバムを、Captain Beefheart and His Magic Bandによる綿密なスタジオ録音の部と、25th Century Quakerという名の架空のバンドによるアヴァンギャルド・ブルースの即興演奏の部からなる二部構成にしたいと考え[25]、まず、25th Century Quakerの部の3曲をライブ形式で録音し、次の数週間、サイケデリック・ミュージック、ポリリズムなどの要素を持つ11曲を録音した。これらの曲には、『セイフ・アズ・ミルク』で披露された新しいブルース・ロックに加えて、ヴァン・ヴリートが当時興味を抱いていたフリー・ジャズの影響も感じられた[24]

しかし、ブッダ・レコードはこの新作アルバムの制作を中止させ、録音された音源を全てお蔵入りにした。この頃、ブッダ・レコードはバブルガム・ポップで商売する方針を固めた[26]ので、彼等の音楽は自分達の商売戦略にはそぐわない、と判断したと推測されている[注釈 30][27]

イギリスではDJのジョン・ピールが、国内販売されていなかった『セイフ・アズ・ミルク』の収録曲を頻繁に放送した[注釈 31]ので、彼等は急速に有名になり、レコード・ミラー誌に「イギリスで最も有名なアメリカのグループの一つ」とまで呼ばれた[28]。彼等はアメリカ国内では西海岸の地方グループに過ぎなかったが、イギリスでの評判を受けて1968年1月にロンドンに行き、様々なライブ活動を行なった[注釈 32][29]。そして、ロンドンからフランスのカンヌに行き、ブッダ・レコードに所属する他のミュージシャンやバンドと共に、国際音楽産業見本市のMIDEM[注釈 33]に参加した。しかしブッダ・レコードは、帰国した彼等との契約を解除した[26]

『ストリクトリー・パーソナル』(1968年) 編集

クラスノウは、彼等にブッダ・レコードが差し押さえた"It Comes To You In A Plain Brown Wrapper"の音源に代わるものを新たに録音させて、自分が設立したブルー・サム・レコードから発表することにした。そこで彼等は1968年4月から5月にかけて、クラスノウが予約したハリウッドのスタジオでアルバム『ストリクトリー・パーソナル』を録音した。しかし、その少し前にヴァン・ヴリートが警察に逮捕勾留された[注釈 34]こともあって、彼等はリハーサルが殆んどできなかったまま、わずかの8日間の録音に臨まざるを得なかった[30]。彼等は録音を終えると、再びイギリスとヨーロッパに渡ってライブ活動を行なった[注釈 35][31]が、帰国後、ギタリストのセント・クレアとベーシストのハンドレーが相次いで脱退して、オリジナル・メンバーはヴァン・ヴリートだけになった[32]

スノウフェーの後任には当時19歳のビル・ハークルロード[注釈 36]が6月末に選ばれた[33][34]。ハンドレーの後任には、『セイフ・アズ・ミルク』のデモ・テープのレコーディング・エンジニアを務めたマーカーが仮メンバーとして選ばれた[注釈 37][35]。ヴァン・ヴリートは旧友のザッパに、彼がこの年に設立したストレイト・レコードへの移籍を勧められた[注釈 38]ので、クラスノウやブルー・サム・レコードと決別する決心をした[注釈 39][35]。8月、キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドはストレイト・レコードの所属になり、ヴァン・ヴリート、コットン、ハークルロード、フレンチの正式メンバーにマーカーを加えた顔ぶれで、ザッパをプロデューサーに迎えて、新曲'Moonlight on Vermont'と'Veteran's Day Poppy'を録音した[注釈 40][36][37]

10月、ブルー・サム・レコードから『ストリクトリー・パーソナル』が発表された。収録曲の数曲にフェイザーによる大きな音響効果が施されており、ヴァン・ヴリートはクラスノウが自分の同意を得ずに勝手に音響効果を加えて作品を台無しにしたと、公けにクラスノウを批判した[注釈 41][38][39][40]

『トラウト・マスク・レプリカ』(1969年) 編集

1968年10月、仮メンバーのマーカーが離脱して、マーク・ボストン(ベース・ギター)が正式メンバーとして加入した。さらにヴァン・ヴリートの従兄弟にあたるヴィクター・ヘイデンバスクラリネット)が客演者として帯同した。ヴァン・ヴリートはメンバーをロサンゼルス郊外の小さなレントハウスに半ば監禁状態で押し込め[注釈 42]、彼が作った難曲[注釈 43]を録音する為に1日12時間のリハーサルを半年間に渡って行なった。彼は一回り近く年齢が離れたメンバー全員に奇妙なステージ名をつけて、満足な食事を与えず、時には暴力すら辞さず、彼等を完全な支配下に置いた[41]

1969年3月、彼等は録音の準備を整えた。プロデューサーのザッパの意向で、ヴォーカル以外の録音は、レントハウスでバンドの演奏をポータブルの機材で録音するフィールド・レコーディングの形を取った[42]が、終了後、ヴァン・ヴリートはスタジオを使用して録音することを主張した。ヴォーカルは最初からスタジオで録音することが決まっていたので、ザッパはバンドのスタジオ入りの段取りを整えた。録音はグレンデールのホイットニー・スタジオ[注釈 44]で行われた[43]。日頃からリハーサルを重ねていた彼等は、20のバッキングトラックの録音をわずか6時間で終え、その後ヴァン・ヴリートはヘッドホンを着用してモニタリングする代わりに、スタジオの窓から微かに聴こえる演奏音のみを頼りに、ヴォーカルと管楽器のダビングを2日間で終了した[44]。こうして本作は、ミキシング作業を含めて4日間で完成した。

1969年6月、2枚組『トラウト・マスク・レプリカ』が発表された。1968年からザッパのザ・マザーズ・オブ・インヴェンション(以下、MOI)のアルバム・ジャケットをデザインするようになったカル・シェンケルが、印象的なアルバム・ジャケットの撮影とデザインを担当した。

『リック・マイ・デカルズ・オフ、ベイビー』(1970年) 編集

『トラウト・マスク・レプリカ』の制作が終了してまもなく、編曲や音楽監督に相当する役割も務めたフレンチがヴァン・ヴリートに放逐され[45]、代わりにローディーのジェフ・バーチェルがドラムスを担当することになった[注釈 45]が、バーチェルはある晩、コットンと口論した挙句、彼を殴打して骨折させてしまった[46]。コットンは『トラウト・マスク・レプリカ』の制作中からヴァン・ヴリートの支配を重荷に感じていた[47]ので、この事件をきっかけにしてバンドを脱退した[46]

『トラウト・マスク・レプリカ』はイギリスでは1969年11月に発表されてアルバム・チャートで最高21位を記録した。この頃から、ヴァン・ヴリートはザッパをいろいろと批判し始めた[注釈 46][48]が、彼等は新作もザッパのストレイト・レコードで制作することになり[注釈 47][49]、MOIのパーカッショ二ストだったアート・トリップ[注釈 48]をドラマーに迎えた[50]。コットンを失った彼等はハークルロードだけをギタリストに擁したまま新作のリハーサルに入り、ハークルロードはフレンチが担っていた編曲や音楽監督も務めた[注釈 49][51][47]

数か月に及んだリハーサルが終わり録音に入る直前にフレンチが呼び戻されて[52]、トリップはマリンバを担当することになった[53]。ヴァン・ヴリート、ハークルロード、ボストン、フレンチ、トリップの5人は、1970年の夏、ハリウッドで、ヴァン・ヴリートのプロデュースの下で『リック・マイ・デカルズ・オフ、ベイビー』を録音し[53]、12月にキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドの名義で発表した。本作はギタリストが1人でパーカッショ二ストが2人という、これまでと異なる編成で制作されたが、その内容は高い評価を得た前作の延長線上にあると見なされている。ヴァン・ヴリートは、前作のプロデューサーのザッパの録音方法に不満を抱いた[44]ので、自分でプロデュースして納得がいく方法で録音した本作には満足したようで、1991年には本作を自分の最高作であると発言した[54]

『ミラーマン』『ザ・スポットライト・キッド』(1971年) 編集

『リック・マイ・デカルズ・オフ、ベイビー』の録音が行なわれた1970年の後半、彼等は元MOIのエリオット・イングバー(ギター)をメンバーに迎えた[注釈 50][55]。優れたブルース・ギタリストであるイングバーが加入したことは、ヴァン・ヴリートが自分の音楽の原点であるブルース・ミュージックに回帰することを目論んだことを示唆した[56][55]

彼等はストレイト・レコードを吸収したリプリーズ・レコードから2万ドルの予算を与えられて[57]、ヴァン・ヴリートの30歳の誕生日に当たる1971年1月15日から6週間、国内の広域に及んだツアーを行なった[55]。終了後、彼等はカリフォルニア州のサンタ・クルーズの郊外に家を借りて、新作の制作のリハーサルを行なった。リプリーズ・レコードは彼等に対して、自分達の会社からの第一弾となる新作をもっと売れる内容にすることを望んだ[56]。一方、ハークルロードは、ヴァン・ヴリートが1969年11月の結婚をきっかけに金銭欲を持ち始めたと指摘している[58]。フレンチは、以前からヴァン・ヴリートに、せめて経済的に自立できるように[注釈 51]ブルースのアルバムを作って多くの聴衆を得るべきだと提言していた[58]

4月、ブッダ・レコードが"It Comes To You In A Plain Brown Wrapper"の未発表音源からの4曲を、キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンド名義の『ミラー・マン』として発表した。

同年秋、ヴァン・ヴリート、イングバー、ハークルロード、フレンチ、ボストン、トリップの6人はロサンゼルスのレコード・プラントで、ヴァン・ヴリートとフィル・シェールのプロデュースによりアルバム『ザ・スポットライト・キッド』を制作した。本作はキャプテン・ビーフハートの単独名義で翌1972年1月に発表された。『トラウト・マスク・レプリカ』や『リック・マイ・デカルズ・オフ、ベイビー』の収録曲に比べると穏やかとでも呼べそうな本作の内容について、ヴァン・ヴリートは発表直後に「妥協じゃない。皆を怖がらせることに飽きたから。」と発言した[59]

『クリア・スポット』(1973年) 編集

ヴァン・ヴリートの31歳の誕生日にあたる1972年1月15日、彼等は『ザ・スポットライト・キッド』の発表に合わせたツアーを開始した[60]。ツアーに先立ち、MOIのオリジナル・ベーシストのロイ・エストラーダ[注釈 52]が加入し、それまでベース・ギターを担当していたボストンはギター担当となった[61]。彼等はヴァン・ヴリート、エストラーダ、ボストン、ハークルロード、イングバー、トリップの6人編成で[注釈 53]、ギタリストが3人、元MOIのメンバーが3人になった。

彼等はまず国内ツアーに臨み[61]、3月下旬からはヨーロッパ公演を始めた。ィギリス公演はロンドンのロイヤル・アルバート・ホール[62]をはじめとして殆んどの会場が満席となって、追加公演が開催されたほどの盛況であった[63]。ドイツではコンサートの他にテレビ・ショーのビート・クラブに出演し、フランスではパリのバタクラン劇場でのコンサートがテレビのポップ・ドウで放映された。4月下旬にはアメリカに戻って国内ツアーの後半をこなした後、5月には再びイギリスに渡りビッカーショー・フェスティバルに出演した[7]

彼等が所属していたリプリーズ・レコードの親会社にあたるワーナー・ブラザーズは、自社に所属していたテッド・テンプルマン[注釈 54]を新作のプロデュ―サーにあてた。1972年の秋、ヴァン・ヴリート、エストラーダ、ボストン、ハークルロード、トリップの5人[注釈 55]は、ワーナー・ブラザーズが所有するスタジオで、これまでの作品制作に比べて遥かに多くの時間と予算を与えられて『クリア・スポット』を制作し[64]、1973年1月に発表した。しかし期待に反して、その売り上げはやはり振るわなかった[注釈 56][65]

『アンコンディショナリー・ギャランティード』『ブルージーンズ・アンド・ムーンビームズ』(1974年) 編集

1973年2月、キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドはアメリカ、カナダ、イギリスを廻る4カ月のツアーを開始した。ツアーに先立って、オリジナル・メンバーのセント・クレアが約4年半ぶりに復帰し[66]、彼等はヴァン・ヴリート、セント・クレア、ハークルロード、ボストン、エストラーダ、トリップの顔ぶれでツアーに臨んだ。

『クリア・スポット』の商業的な失敗を受けて、ヴァン・ヴリートはリプリーズ・レコードを去り、アメリカではマーキュリー・レコード、イギリスでは新興レーベルのヴァージン・レコードと契約を結び、アンディとデイブのディマルティーノ兄弟[注釈 57]を新しいマネージャーに迎えた[67]。ディマルティーノ兄弟は利を得るためには不正直な事や不法な事さえやりかねないことで知られていたが、この頃のヴァン・ヴリートは誰にでも喜んで従うような有様で、メンバーも取り敢えず彼に従った。

彼等は北カリフォルニアの海辺に行き、とあるレストランがパーティー用に貸していたビーチハウスを借りて、時には遠方で鯨が泳いでいるのを見ながら新曲のリハーサルを行ない[68]、その後1974年の初頭にハリウッドで『アンコンディショナリー・ギャランティード』を制作して[注釈 58][69]、4月に発表した。両手に紙幣を握りしめているヴァン・ヴリートの写真に「無条件保証」「100%純粋で良質」と銘打たれたジャケットが印象的な本作は、『ザ・スポットライト・キッド』や『クリア・スポット』で聴かれた商業主義路線をさらに押し進めた内容を持っていた[70]。果たして評価は概ね低く、イギリスでもアメリカでもアルバム・チャートには入らなかった[71]。その発表に合わせたツアーが企画されたが、メンバーは、ディマルティーノ兄弟の強引なマネージメント[注釈 59]、それに対して何も言わないヴァン・ヴリート、退屈な新曲を演奏しなければならなくなるツアーなどに対する不満を抱いており、ツアー初日を5日後に控えて、全員がヴァン・ヴリートに別れを告げた[72][73]

ひとり残ったヴァン・ヴリートは、元バックウィート[74]のマイケル・スマザーマン[75](キーボード)とディーン・スミス(ギター)、元ザ・モーズ[76]のファズィー・ファスカルド[77](ギター)、ボビー・ジェントリーのツアー・バンドのメンバーだったポール・アーリグ[78](ベース・ギター)、リッキー・ネルソンのザ・ストーン・キャニオン・バンド[79]に在籍していたタイ・グライムス[80](ドラムス)、そして前作の制作に客演したデル・シモンズ(フルート、サクソフォーン)からなる急ごしらえのバンドを結成した。彼等は数日間のリハーサルのあと、トロント公演を皮切りにツアーに臨み、5月にはイギリス・ツアーを行なった[注釈 60][81][82]

ツアーが夏に終了すると、スマザーマン、スミス、グライムスが残り、新たにイングバーの実弟アイラ・イングバー[83](ベース・ギター)、ボブ・ウェスト[84](ベース・ギター)、マーク・ギボンス[85](キーボード)、ジーン・ペロ[86](ドラムス)、ジミー・キャラバン[87](キーボード)が参加した。彼等はノース・ハリウッドの小さなスタジオに集まり、再びアンディ・ディマルティーノのプロデュースの下で、一曲につき50ドルの給与で新作『ブルージーンズ・アンド・ムーンビームズ』を約2日間で制作して[88]、11月に発表した。しかしヴァン・ヴリートは、アンディ・ディマルティーノが、幾つかの収録曲に彼の許可なく手を加えて発表したと主張した[89]。翌年2月から3月に計画されていたツアーはキャンセルされ、ディマルティーノ兄弟もメンバーもヴァン・ヴリートから去っていき[90]、彼は北カリフォルニアの自宅に引き籠ってしまった。

『バット・チェイン・プラー』(未発表) 編集

北カリフォルニアで芸術を学んでいたジェフ・モリス・テッパーはキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドの熱心なファンで、彼等がアルバム『クリア・スポット』のツアーでロサンゼルス公演を行なった時に、ヴァン・ヴリートと言葉を交わしたことがあった。ある日、テッパーは偶然ヴァン・ヴリートを見かけたので話しかけ[注釈 61]、それをきっかけに2人の交流が始まった。テッパーは『トラウト・マスク・レプリカ』の複雑な収録曲の幾つかをギターで弾いてヴァン・ヴリートを感心させ、音楽に対する彼の興味を復活させた[91]。そして、レコード会社との契約のしがらみに絡まれていたヴァン・ヴリートは、ザッパに苦境を説明して助けを求めて、1975年4月、MOIの新作『ワン・サイズ・フィッツ・オール』の制作に客演し[注釈 62][92]、4月と5月、MOIの国内ツアーにキャプテン・ビーフハートとして参加した[注釈 63][93]

MOIとのツアーが終わると、ヴァン・ヴリートはフレンチ、イングバー、元MOIのジミー・カール・ブラック[注釈 64](ドラムス)、元MOIのブルース・ファウラー[注釈 65](トロンボーン)、グレッグ・ダヴィッドソン[注釈 66][94](ギター)とキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドを再結成した[注釈 67][95]。彼等は7月5日にイングランドのネブワース・ハウスで開かれた第2回のネブワース・フェスティバルにピンク・フロイドらと共に出演し、アメリカに帰国して幾つかのコンサートを開いた[8]。その後、ブラックとダヴィッドソンが離脱して[96]、元MOIのデニー・ウォーリー[注釈 68]が加入し[97]、フレンチがドラムス専任になった。彼等は10月下旬から12月1日までヨーロッパ・ツアーを行ない、帰国後、年末にはカリフォルニアで幾つかのコンサートを開いた[98]

1976年の春、ヴァン・ヴリートはザッパと彼のマネージャーであるハーブ・コーヘンが共同で設立して経営していたディスクリート・レコードから新作を発表することにして、フレンチ、ウォーリー、テッパー(ギター)、ジョン・トーマス[注釈 69](キーボード)からなるキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドを結成した[注釈 70][99]。彼等はザッパがハリウッドに所有していたスタジオで6週間にわたってリハーサルを行なった後、ロサンゼルスで『バット・チェイン・プラー』を4日間で製作した。ヴァン・ヴリートがプロデューサーを務め、ザッパはエグゼクティブ・プロデューサーとして資金を提供して完成作品をディスクリート・レコードから発表する役を担っていた[100]。しかし、ザッパとコーヘンが対立して互いを告訴する状況になり、ディスクリート・レコードの先行きは全く不透明になった[101]。その結果『バット・チェイン・プラー』はお蔵入りになり、オリジナル・テープはザッパに保管されたままになってしまった。

『シャイニー・ビースト(バット・チェイン・プラー)』(1978年) 編集

『バット・チェイン・プラー』が製作されてまもなく、トーマスとフレンチが離脱し、テッパーの友人のキーボーディストであるエリック・ドリュー・フェルドマンと、フェルドマンの友人のドラマーであるゲイリー・ジェイが加入した[102]。彼等は新メンバーに加えてハイデンを約10年ぶりに客演者に迎えて、1976年末から1977年初めにかけてリハーサルを繰り返し、幾つかのライブ活動を行なった。そしてジェイが離脱し、フレンチが仮メンバーとして一時復帰した後、ドラマーのロバート・ウィリアムスが加入した[103]

ヴァン・ヴリート、ウォーリー、テッパー、フェルドマン、ウィリアムスは1977年10月31日に初舞台を踏み、11月にはフランス社会党がパリで開いた慈善コンサートに出演した[104]。そして1978年2月にツアーを終えると、新曲のデモ・テープを録音してワーナー・ブラザーズと交渉して、新作アルバムを制作することになった[105]。そして、離脱したウォーリーに代わるギタリストでフェルドマンの旧友であるリチャード・レダスと、1975年のライブ活動でのメンバーだったファウラーを迎えて、6月から8月までサンフランシスコで『シャイニー・ビースト(バット・チェイン・プラー)』(以下、『シャイニー・ビースト』)を製作した。ヴァン・ヴリートは、ワーナー・ブラザーズのA&Rでジャズ・ミュージシャンでもあるピート・ジョンソンと共同でプロデューサーを務め、トリップが客演した[106]。本作はアメリカでは同年秋にワーナー・ブラザーズから発表された[107]が、イギリスでは、ワーナー・ブラザーズとヴァージン・レコードとの間での交渉が難航して[注釈 71]、直ぐには発表されなかった。

『美は乱調にあり』(1980年) 編集

彼等は1978年秋に『シャイニー・ビースト』をアメリカで発表した後、11月にヴァン・ヴリート、ファウラー、テッパー、フェルドマン、ウイリアムス、レダスにファウラーのガールフレンド(パントマイム、マラカス)を加えた顔ぶれで短い国内ツアーを行なった[注釈 72][108]。しかし『シャイニー・ビースト』はイギリスでは1年以上経っても発表されず、彼等は1979年を目立った活動を行なうことなく終えた[109]。1979年末にギタリストのゲイリー・ルーカス[注釈 73]が新しいマネージャーに就任した[110]

1980年2月、『シャイニー・ビースト』がようやくイギリスでヴァージン・レコードから発表された[111]。新作製作の開始予定日の直前にレダスが脱退したので、彼等はフレンチを再々度メンバーに迎えて、6月に新作『美は乱調にあり』を制作して[112]8月に発表して好意的な評価を得た[113]。彼等は1980年10月からヨーロッパとアメリカのツアーを行なったが[注釈 74][114]、その直前にフレンチがライブ活動を拒否して離脱。一方、空席だったベーシストの席には元エース・アンド・デュースのリチャード・スナイダーが迎えられた[115]

『烏と案山子とアイスクリーム』(1982年) 編集

3か月間にわたったヨーロッパとアメリカのツアーは1981年1月31日のロサンゼルスでのコンサートで幕を閉じた[116]。ツアー終了後、ウィリアムスがソロ活動に専念する為に脱退を決意した。ヴァン・ヴリートはオーディションを行ない、元ザ・ウィアードズクリフ・マルティネスを迎えた[117]。ヴァン・ヴリートは新作アルバムの計画を立てるに際して、ザッパが保管していた『バット・チェイン・プラー』のオリジナル・テープを自分に渡すようにザッパに交渉したが、ザッパは欲しければ自分から買い取れと突っ撥ねて、交渉は決裂した[118]

ヴァン・ヴリート、テッパー、ルーカス(ギター)、スナイダー、マルティネスは、フェルドマンを客演者に迎えて1982年5月に2週間かけてリハーサルを行ない、引き続いて『烏と案山子とアイスクリーム』を制作し[119]、9月に発表した。

自然消滅 編集

その後、ヴァン・ヴリートは画家としての活動に専念し、キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドの新作アルバムの発表やコンサートなどの音楽活動は一切行なわれなくなった。

2010年12月、ヴァン・ヴリートが病没。

2012年3月、ザッパの遺族が経営するヴォルタナティブ・レコード(VAULTernative Records[120]が、『バット・チェイン・プラー』をキャプテン・ビーフハート名義で発表した。

メンバー 編集

氏名に続く括弧内はヴァン・ヴリートによる命名。担当楽器は代表的なものだけを示す。

  • Don Van Vliet (Captain Beefheart) – ボーカル、ハーモニカ、サクソフォーン (1964年–1982年)※2010年没
  • Alex St. Clair – ギター、ドラムス (1964年–1968年、1972年–1974年)※2006年没
  • Jerry Handley[121] – ベース・ギター (1964年–1968年)
  • Ry Cooder – ギター、スライド・ギター (1967年)
  • John French (Drumbo) – ドラムス、ボーカル、ギター (1966年–1969年、1970年–1971年、1975年–1976年、1977年、1980年)
  • Doug Moon[122] – ギター (1964年–1967年)
  • Paul G. Blakely[123] – ドラムス (1964年–1965年、1966年)※1995年没
  • Vic Mortensen[124] – ドラムス (1965年)
  • Richard Hepner[125] – ギター (1965年–1966年)
  • Gerry McGee[126] – ギター、スライド・ギター (1967年)※2019年没
  • Gary Marker – ベース・ギター (1968年)※2012年没
  • Jeff Cotton (Antannae Jimmy Semens) – ギター、スライド・ギター、ボーカル (1967年–1969年)
  • Bill Harkleroad (Zoot Horn Rollo) – ギター、スライド・ギター (1968年–1974年)
  • Mark Boston (Rockette Morton) – ベース・ギター、ギター (1968年–1974年)
  • Victor Hayden (The Mascara Snake) – バスクラリネット (1968年–1969年)※2018年没
  • Jeff Burchell – ドラムス (1969年)
  • Art Tripp (Ed Marimba) – ドラムス、マリンバ、パーカッション、ピアノ、ハープシコード (1969年–1974年)
  • Elliot Ingber (Winged Eel Fingerling) – ギター (1970年–1971年; 1971年–1972年; 1974年–1976年)
  • Roy Estrada (Oréjon) – ベース・ギター (1972年–1973年)
  • Fuzzy Fuscaldo[127] – ギター (1974年)
  • Paul Uhrig[128] – ベース・ギター (1974年)
  • Del Simmons[129] – サクソフォーン、フルート (1974年)
  • Mark Marcellino[130] – キーボード (1974年)
  • Dean Smith[131] – ギター、ボトルネック・ギター (1974年)
  • Ira Ingber[132] – ベース・ギター (1974年)
  • Bob West[133] – ベース・ギター (1974年)
  • Michael Smotherman[134] – キーボード、バッキング・ボーカル (1974年)
  • Mark Gibbons[135] – キーボード (1974年)
  • Gene Pello[136] – ドラムス (1974年)
  • Jimmy Caravan[137] – キーボード、スター・マシーン (1974年)
  • Ty Grimes[138] – パーカッション (1974年)
  • Bruce Fowler (Fossil)- トロンボーン、エアー・ベース (1975年–1976年; 1978年–1980年)
  • Greg Davidson[139] (Ella Guru) – ギター、スライド・ギター (1975年)
  • Jimmy Carl Black (Indian Ink) – ドラムス、パーカッション (1975年)※2008年没
  • Denny Walley (Feelers Rebo) – ギター、スライド・ギター、アコーディオン (1975年–1978年)
  • Jeff Moris Tepper (White Jew) – ギター、スライド・ギター (1976年–1982年)
  • John Thomas[140] – キーボード (1976年)
  • Eric Drew Feldman (Black Jew Kittaboo) – ベース・ギター、キーボード (1976年–1981年)
  • Gary Jaye[141] – ドラムス (1976年–1977年)※2011年没
  • Robert Williams (Wait For Me) – ドラムス、パーカッション (1977年–1981年)
  • Richard Redus[142] (Mercury Josef) – ギター、スライド・ギター (1978年–1979年)
  • Richard Snyder[143] (Brave Midnight Hat Size) – ギター、スライド・ギター、ベース・ギター、マリンバ、ビオラ (1980年–1982年)
  • Gary Lucas – ギター、スライド・ギター (1980年–1982年)
  • Cliff Martinez – ドラムス、パーカッション、グラス・ウォッシュボード (1981年–1982年)

ディスコグラフィ 編集

オリジナル・アルバム
ライブ・アルバム

一部を示す。

編集アルバム

一部を示す。

シングル
  • Diddy Wah Diddy/Who Do You Think You're Fooling (1966年3月)
  • Moonchild/Frying Pan (1966年11月)
  • Yellow Brick Road/Abba Zaba (1967年9月)
  • Pachuco Cadaver/Wild Life (1970年)[注釈 76]
  • Click Clack/I'm Gonna Booglarize You, Baby (1972年2月)
  • Too Much Time/My Head Is My Only House When It Rains (1972年11月)
  • Upon The My-O-My/I Got Love On My Mind (1974年5月)[注釈 77]
  • Ice Cream For Crow/Light Reflected Off The Oceands Of The Moon (1982年8月)

ザ・マジック・バンド 編集

2003年、ジョン・フレンチ(ボーカル、ドラムス、ハーモニカ)、マーク・ボストン(ベース・ギター)、デニー・ウォーリー(ギター)、ゲイリー・ルーカス(ギター)、ロバート・ウィリアムス(ドラムス)がザ・マジック・バンドThe Magic Band)を結成した[145]。彼等はフレンチを中心に、2017年までメンバー・チェンジを行ないながら、公演や録音でキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドとキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドの楽曲を披露した。

ディスコグラフィ 編集

  • Back to the Front (2003年)[146]
  • 21st Century Mirror Men (2005年)[147]
  • Performing The Music Of Captain Beefheart - 1: Oxford, U.K. June 6, 2005 (2011年)[148]
  • The Magic Band Plays The Music Of Captain Beefheart - Live In London 2013 (2013年)[149]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ ジョン・ライドンジョー・ストラマ―ミック・ジョーンズなどのパンク・ロック世代、ザ・ポップ・グループXTCディーヴォ(Devo)などのポスト・パンク・ロック世代が挙げられる。また、トム・ウェイツはキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドから大きな影響を受けたのみならず、ヴァン・ヴリートが2010年に病没するまで彼との接触を保った数少ない人物の一人である。
  2. ^ 1980年にNBCの人気番組『サタデー・ナイト・ライブ』に出演。ヴァン・ヴリートは1982年10月に、同じくNBCの『レイト・ナイト・ウィズ・デヴィッド・レターマン』に単独出演した。
  3. ^ 例えば、アメリカでは代表作の『トラウト・マスク・レプリカ』(1969年)も『リック・マイ・デカルズ・オフ、ベイビー』(1970年)もローリング・ストーンなどの音楽誌では高い評価を受けたものの、売り上げは振るわずチャート・インしなかった。一方、イギリスでは、前者はアルバム・チャートで最高21位、後者は最高20位を記録した。
  4. ^ 1969年10月24日から28日までの5日間、フランク・ザッパを司会者に迎えて開かれ、イエスピンク・フロイドザ・ナイスなどが出演した。ドキュメンタリー・フィルムには28日に収録された『トラウト・マスク・レプリカ』に収録された'My Human Gets Me Blues'の約5分間の演奏の映像が含まれている。
  5. ^ イギリスでは、ジョン・ピールが、海賊放送局ラジオ・ロンドンの深夜番組"The Perfumed Garden"や、BBCに新設されたポップ・ミュージックの放送局であるラジオ1の音楽番組"Top Gear"などで取り上げ、彼等はイギリス・ツアーの合間に、BBCのラジオ・セッションに出演した。また1972年のヨーロッパ・ツアーで、ドイツではコンサートの他にテレビ・ショーのビート・クラブに出演し、フランスではパリのバタクラン劇場でのコンサートがテレビのポップ・ドウで放映された。1980年にはモンマルトルフォリー・ベルジェール劇場でのコンサートがパリのChorus TVで放映された。
  6. ^ ヴァン・ヴリートは少年の時から絵画や彫刻に才能を発揮した。1972年4月には、リヴァプールのブルーコート・ギャラリーでキャプテン・ビーフハート名義で初の個展を開いて好評を得た。『ザ・スポットライト・キッド』(1971年)の裏面ジャケットをはじめ、アルバム・ジャケットの幾つかには彼の作品が用いられている。
  7. ^ ザッパは自分にレコーディング技術を教えてくれたエンジニアのポール・バフからパル・レコーディング・スタジオを買い、1964年8月からスタジオZとして経営していた。
  8. ^ 当時は出生名のドン・グレン・ヴリート(Don Glenn Vliet)を名乗っていた。名字はヴリート。
  9. ^ ビーフハート(Beefheart)という単語の由来は、ヴァン・ヴリートの伯父(もしくは叔父、ここでは伯父とする)の奇行であった。ヴァン・ヴリートは心臓を病んだ父親に代わってパン屋のトラックを運転する為に高校を中退したが、実際にはガールフレンドと一緒に両親の家にいることが多かった。その頃、両親は彼の伯父夫妻と同居しており、その伯父は用を足す時にわざと戸を開けっぱなしにして、彼のガールフレンドが通りかかると、彼女に己の姿を晒して「まるで牛の心臓(beef heart)みたいに立派だろう」とのたまわったという。
  10. ^ 1956年、ヴァン・ヴリートが通っていた高校に、サンディエゴからザッパが転校してきた。彼等は、ザ・スパニエルズやジ・オーチッズなどのドゥーワップ・グループ、ライトニン・スリムスリム・ハーポクラレンス・"ゲイトマウス"・ブラウンジョニー・"ギター"・ワトソンマディ・ウォーターズハウリン・ウルフなどのR&Bミュージシャンのレコードの鑑賞を通じて親交を深め、やがてザッパがギター、ヴァン・ヴリートがボーカルを担当して録音する仲になった
  11. ^ ヴァン・ヴリートの台詞の一つが、ザッパの『ミステリー・ディスク』に'The Birth of Captain Beefheart'という題で収録されている。
  12. ^ 「キャプテン・ビーフハートというマジック・マンと、彼の魔力が発揮されたバンド」という意。
  13. ^ リック・マイ・デカルズ・オフ、ベイビー』と『ザ・スポットライト・キッド』の間に1971年に発表されたアルバム『ミラー・マン』は、キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドが1967年に録音した未発表音源の幾つかを収録したもので、キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドの名義であった。
  14. ^ 当時、ヴァン・ヴリートはメンバーが自分の支配から離れて主導権を持つようになった主旨の発言をしている。
  15. ^ 『セイフ・アズ・ミルク』(1967年)や『ストリクトリー・パーソナル』(1968年)に参加したジョン・フレンチ(ドラムス)やジェフ・コットン(ギター)の名前は、『トラウト・マスク・レプリカ』以後、ドラムボ、アンテナ・ジミー・ザーメンズとなった。
  16. ^ ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションでの活動によって既に名前が知られていた新メンバーのアート・トリップ(パーカッション)、エリオット・イングバー(ギター)、ロイ・エストラーダ(ベース・ギター)らも、それぞれEd Marimba、Winged Eel Fingering、Oréjonと記された。
  17. ^ 本作にはオリジナル・メンバーで1969年に脱退したセント・クレアが復帰したが、彼の名前はそのまま記された。また、前作までEd Marimbaと記されていたトリップの名前も、本作ではそのまま記された。一方、ビル・ハークルロード(ギター)とマーク・ボストン(ベース・ギター)の名前は、前作までと同様、それぞれZoot Horn Rollo、Rockette Mortonと記された。
  18. ^ ヴァン・ヴリート達がアンテロープ・バレー・ハイ・スクールのseniorの時に同校の新入生だった。1963年にフランク・ザッパと録音した音源が、ザッパの未発表音源集『ミステリー・ディスク』(1998年)に収録された。
  19. ^ アンテロープ・バレー・ハイ・スクールでのヴァン・ヴリート達の3学年後輩。
  20. ^ ザッパがクカモンガに所有していたスタジオZに出入りしていたドラマー。1964年にヴァン・ヴリートやザッパと録音した音源が、ザッパの未発表音源集ロスト・エピソード(1996年)とミステリー・ディスク(1998年)に収録された。
  21. ^ いずれのシングルもプロデューサーはデヴィッド・ゲイツ。ゲイツは1970年代にソフト・ロック・バンドとして名を馳せたブレッドのリーダーである。'Diddy Wah Diddy'はWillie DixonとEllas McDanielの共作でボ・ディドリーの1956年のヒット曲。Ellas McDanielとは、ディドリーの本名である。'Moonchild'はゲイツ作。
  22. ^ ヴァン・ヴリート自身は「ジェリー・モスに新曲の "Electricity" を聴かせたら、余りに酷くて("too negative")娘が聴くのに良くない、と言われた」という主旨の発言をしていた。ジェリー・モスはA&M・レコードの設立者の一人である。
  23. ^ ギタリストのへプナ―は、A&M・レコードでのシングルの制作が終わって間もなく脱退し、ドラマーのブレイクリーが再加入して、セント・クレアはドラマーからギタリストに戻った。そしてブレイクリーが再び脱退して、フレンチが加入した。
  24. ^ 1965年に結成されたロサンゼルスのブルース・ロック・バンド。タジ・マハール(ボーカル)、ライ・クーダー(ギター)らを擁したが、1966年に解散した。
  25. ^ クーダーはライジング・サンズが解散したので、オレゴン州のリード大学に通っていた。
  26. ^ 1970年代に、バーブラ・ストライサンドカーリー・サイモンダイアナ・ロスなどのアルバムをプロデュースして名を馳せた。
  27. ^ 1967年6月10日と11日、カリフォルニア州マリン郡タマルパイス山州立公園にあるクッシング・メモリアル・アンフィシアターで開かれ、ドアーズジェファーソン・エアプレインカントリー・ジョー・アンド・ザ・フィッシュなどが出演した。聴衆は40000人であったとされ、ベイエリアで起こったサマー・オブ・ラブ鏑矢となった。
  28. ^ のちに、ザ・ベンチャーズに加入し、3代目リード・ギタリストとして活躍した。
  29. ^ コットンは、ドラマーのフレンチが以前在籍したブルース・イン・ア・ボトルというバンドのギタリストだった。
  30. ^ 但し、ブッダ・レコードはヒズ・マジック・バンドとの契約を直ぐには破棄せず、1968年1月には、会社に所属する他のミュージシャンやバンドと共に、彼らをフランスのカンヌで開かれた国際音楽産業見本市のMIDEM(Marché International du Disque, de l' Édition Musicale et de la Vidéo Musique)に派遣した。
  31. ^ ピールは当時、海賊放送局ラジオ・ロンドンの深夜番組"The Perfumed Garden"や、BBCに新設されたポップ・ミュージックの放送局であるラジオ1の音楽番組"Top Gear"などを担当していた。
  32. ^ スピークイージー・クラブミドル・アースなどに出演し、ピールの "Top Gear" の為にBBCのスタジオでセッションを行なって『セイフ・アズ・ミルク』からの数曲を録音した。この音源は翌月に放送された。
  33. ^ Marché International du Disque, de l' Édition Musicale et de la Vidéo Musique の略。
  34. ^ 自分が育ったランカスターを訪れた時に、真夜中に地元の若者達と小学校の校庭に侵入してマリワナを吸おうとして、警官に捕まった。その時に証拠隠滅の為にマリワナを飲み込んだので、声帯を痛めてしまった。
  35. ^ ロンドンではピールの番組の為に再びセッションを行ない、録音したばかりの新曲を披露した。放送時にピールは「新作アルバムを発表できず、メンバーは非常に困惑している」と述べた。
  36. ^ メンバーのフレンチやコットンの知り合いだった。
  37. ^ ヴァン・ヴリートはマーカーをメンバーとして迎えたかったが、マーカーが正式な加入を躊躇した。
  38. ^ この年、フランク・ザッパはインディーズ・レーベルのビザール・レコードストレイト・レコードを設立した。二つの会社とも、ザッパとハーブ・コーヘンによって経営され、ビザール・レコードは主にザッパのザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの作品を取り扱った。ザッパはヴァン・ヴリートに、ストレイト・レコードでの制作の自由を約束した。
  39. ^ コーヘンによると、移籍の手続きは半年を要した。
  40. ^ これらの新曲は次作『トラウト・マスク・レプリカ』に収録された。
  41. ^ ハークルロードは自伝に、ヴァン・ヴリートは従弟のヴィクター・ヘイデンから『ストリクトリー・パーソナル』が発売されたことを教えられ、へイデンが持参したアルバムを聴いて激怒したと記した。一方、マーカーは、ヴァン・ヴリートが自分の家に持ってきて聴かせてくれた音源には音響効果が施されており彼はそれを気に入っていたと述べ、ヴァン・ヴリートの才能を讃えていたクラスノウが彼に無断でそのようなことをすることは考えにくいと述べた。
  42. ^ ヴァン・ヴリートは自分とガールフレンドには専用の寝室をあてがい、他のメンバーをリハーサル用の広い居間に雑魚寝させた。メンバーには交代で小さな空き部屋に一人で寝る時だけが、プライバシーを守る唯一の機会であった。
  43. ^ ヴァン・ヴリートはろくに弾けもしないピアノを叩いてメロディーを作り、それをフレンチに採譜させ、フレンチにその譜面に従ってピアノを弾かせて確認する、という方法で新曲を作り上げていった。フレンチは採譜だけでなく、メンバーの為のパート譜の作成まで行ない、音楽監督に相当する役割も果たした。にも拘わらず、全ての収録曲はヴァン・ヴリートの単独作とされ、フレンチの名前は作曲者としても編曲者としても記されなかった。
  44. ^ モルモン教の教会が所有して宗教音楽の録音に用いており、ザッパも利用していた。
  45. ^ バーチェルはコンガとボンゴを演奏できたが、ドラムスの演奏経験は全くなかった。
  46. ^ 彼はザッパが「『トラウト・マスク・レプリカ』からの2曲をストレイト・レコードビザール・レコードのサンプラー・アルバムのZappédに他のミュージシャンの作品と並んで収録した、『トラウト・マスク・レプリカ』をストレイト・レコードからではなくビザール(「奇妙な」の意)・レコードから発表した、自分が思いついた「アンクル・ミート」や「ホット・ラッツ」などの名前を盗用した」などど公に批判した。なお、彼の批判とは裏腹に、『トラウト・マスク・レプリカ』は彼の希望どおりストレイト・レコードから発表されていた。
  47. ^ ザッパとMOIのマネージャーのハーブ・コーヘンが共同で経営していたストレイト・レコードは財政問題を抱えて、レコードの生産と配給を担当していたリプリーズ・レコードに徐々に吸収されつつあった。また、キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドの新マネージャーのグラント・ギブスは、ストレイト・レコードとの間の契約上の複雑な事柄を解決しようと試みていた。
  48. ^ シンシナティ大学音楽院 (University of Cincinnati College-Conservatory of Music) で学士号を獲得した後にニューヨークマンハッタン音楽学校を経てMOIに参加した。
  49. ^ 前作ではヴァン・ヴリートがピアノで聴かせる新曲のフレーズをフレンチが記譜したが、本作ではヴァン・ヴリートがフレーズをピアノや口笛を演奏して自ら録音し、テープをハークルロードに手渡した。
  50. ^ 1966年に発表されたMOIのデビュー・アルバム『フリーク・アウト!』に参加したが、アルバムの発売に引き続いたツアーの直後の7月にザッパによって解雇された。それから、のちにリトル・フィートのメンバーになるリッチー・ヘイワード(ドラムス)らとザ・フラタニティ・オブ・マンを結成して活動した。
  51. ^ キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドが共同生活と『トラウト・マスク・レプリカ』のリハーサルに使った家の賃料は、ヴァン・ヴリートとハークルロードの母親達が立て替えていた。
  52. ^ MOIは1964年、エストラーダが在籍していたザ・ソウル・ジャイアンツにフランク・ザッパが加入して誕生した。1969年にMOIが解散すると、エストラーダは先にMOIを解雇されたローウェル・ジョージリトル・フィートを結成したが、2作のアルバム制作に参加したのちに脱退した。
  53. ^ フレンチは、『ザ・スポットライト・キッド』の最終ミキシングの段階で、ヴァン・ヴリートから電話で「これからはトリップがドラムスを担当するから、独立して自分のバンドを作って活動してほしい」と言われて、離脱した。
  54. ^ それまでにドゥービー・ブラザーズ、リトル・フィートやヴァン・モリソンの作品をプロデュースし、のちにヴァン・ヘイレンとの活動で名を馳せた。なお、彼がプロデュースしたリトル・フィートの作品には、当時在籍していたエストラーダが参加していた。
  55. ^ イングバーはリハーサルに参加した後に離脱した。
  56. ^ 前作までの作品のイギリスのチャートでの最高位は、『トラウト・マスク・レプリカ』(1969年)が21位、『リック・マイ・デカルズ・オフ、ベイビー』(1970年)が20位、『ミラー・マン』(1971年)が49位、前々作の『ザ・スポットライト・キッド』(1972年)が44位であった。しかし『クリア・スポット』はチャートに入らなかった。一方、キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドやキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドの作品でアメリカのチャートに入ったものは一つもない。
  57. ^ 悲しき雨音」で有名なザ・カスケーズや、1968年にイギリスでナンバー・ワンとなった'Young Girl'のゲイリー・パケット・アンド・ザ・ユニオン・ギャップなどのマネージメントを務めた。
  58. ^ エストラーダが脱退して、ヴァン・ヴリート、ハークルロード、セント・クレア、ボストン、トリップの5人となり、エストラーダ在籍中はギターを担当していたボストンが再びベース・ギターを担当した。また、本作にはキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドの作品では初めて、キーボーディストのマーク・マルセリーノがメンバーとして参加した。また、ディマルティーノがアコースティック・ギター、デル・シモンズがテナー・サクソフォーンとフルートで客演した。
  59. ^ メンバーは1973年のツアーの給与を未だ受け取っていなかったので、ディマルティーノ兄弟が来るツアーの給与をきちんと払ってくれるとは期待できなかった。
  60. ^ 1974年6月9日のロンドン公演の音源を収録したLive London '74が2006年に発表された。
  61. ^ ヴァン・ヴリートがカボチャ色に近いオレンジ色のシボレー・コルヴェット・スティングレイに乗ってディ―ラーに来たのを偶然見かけた。
  62. ^ ハーモニカを担当した。アルバムは1975年6月に発表された。
  63. ^ 5月20日と21日にテキサス州オースティンのコンサートで録音された音源が、10月にザッパ/ビーフハート/MOIの名義でライブ・アルバム『ボンゴ・フューリー』として発表された
  64. ^ MOIのオリジナル・ドラマー。MOIの前身バンドのザ・ソウル・ジャイアンツのメンバーであった。MOIには1969年にザッパが一回目の解散宣言をするまで在籍し、その後もMOIやザッパの様々な活動に客演した。
  65. ^ 1972年に、ザッパの通称"Petit Wazoo Tour"に参加したのを皮切りに、MOIとヴァン・ヴリートのツアーを含めてザッパやMOIの数多くの活動に参加した。弟のトム(ベース・ギター)とウォルト(トランペット)もザッパと共演した。
  66. ^ ザッパのファンだったダヴィッドソンは、シカゴでMOIとヴァン・ヴリートのコンサートを観た後、メンバーと談笑する為に楽屋に行き、そこでヴァン・ヴリートに出会った。彼はヴァン・ヴリートがツアーの後でキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドを再結成するつもりであることを聞いて、自分はギタリストだと告げると、ヴァン・ヴリートは彼を2日連続でホテルに招いてジャム・セッションを行なった。数週間後、彼はヴァン・ヴリートに電話で「自分達はイングランドに行くから、ロサンゼルスに来てくれ」と言われた。
  67. ^ ベーシストが見つからなかったので、ファウラーがトロンボーンでベース・パートを演奏した。フレンチが再び音楽監督の役についた。
  68. ^ MOIとヴァン・ヴリートのツアーを皮切りに、80年代に至るまでザッパの様々な作品に参加したスライド・ギターの名手。
  69. ^ ザ・マジック・バンドの元メンバー達が結成したマラードのメンバー。
  70. ^ ベーシストが見つからなかったので、トーマスがシンセサイザーでベース・パートを演奏した。
  71. ^ 1973年にキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドのマネージャーになったアンディ・ディマルティーノとデイブ・ディマルティーノの兄弟は、それまでのリプリーズ(ワーナー・ブラザーズの子会社)との契約を捨てて、アメリカではマーキュリー・レコード、イギリスではヴァージン・レコードと契約を結んだ。1977年にキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドが再結成された時には、ディマルティーノ兄弟がイギリスでヴァージン・レコードと結んだ契約はまだ有効だったので、『シャイニー・ビースト(バット・チェイン・プラー)』がイギリスで発表されるためには、ワーナー・ブラザーズがヴァージン・レコードと交渉する必要があった。
  72. ^ 同年11月18日にニューヨーク州ロズリンで開かれたコンサートの音源が、2000年にライノ・レコードからI'm Going to Do What I Wanna Do: Live at My Father's Place 1978として発売された。
  73. ^ ギタリスト兼ソングライター。1972年にヴァン・ヴリートにラジオ・インタビューして以来、彼と交流を保っていた。
  74. ^ フランスでは、モンマルトルフォリー・ベルジェール劇場でのコンサートがパリのChorus TVで放映された。アメリカでは11月にNBCの人気番組『サタデー・ナイト・ライブ』に出演した。
  75. ^ 1966年にA&M・レコードから発表した2作のシングルを中心に編集された5曲入りの12インチEP。
  76. ^ フランスだけでの発売。
  77. ^ イギリスでは、Upon The My-O-My/Magic Be.

出典 編集

  1. ^ Barnes (2011), p. 86.
  2. ^ Barnes (2011), pp. 247–248, 268–269, 325–328.
  3. ^ Barnes (2011), pp. 279, 299–300.
  4. ^ Barnes (2011), p. 377.
  5. ^ Harkleroad & James (2000), p. 78.
  6. ^ Harkleroad & James (2000), pp. 48–49.
  7. ^ a b Barnes (2011), pp. 160–161.
  8. ^ a b Barnes (2011), pp. 215–216.
  9. ^ Barnes (2011), p. 301.
  10. ^ Barnes (2011), p. 14.
  11. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 37.
  12. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 54.
  13. ^ Barnes (2011), p. 169.
  14. ^ Barnes (2011), p. 70.
  15. ^ Ulrich (2018), pp. 355–367.
  16. ^ Ulrich (2018), pp. 296–305, 355–367.
  17. ^ Barnes (2011), p. 17.
  18. ^ a b Barnes (2011), p. 22.
  19. ^ Barnes 2011, pp. 20, 25, 29.
  20. ^ Barnes 2011, pp. 20, 21, 30, 31.
  21. ^ Barnes (2011), p. 35.
  22. ^ Barnes (2011), pp. 43–44.
  23. ^ Barnes (2011), p. 44.
  24. ^ a b Barnes (2011), pp. 46–48.
  25. ^ French (2010), pp. 295–296.
  26. ^ a b Barnes (2011), p. 54.
  27. ^ Barnes (2011), p. 48.
  28. ^ Barnes (2011), pp. 48–49.
  29. ^ Barnes (2011), pp. 49–53.
  30. ^ Barnes (2011), p. 55.
  31. ^ Barnes (2011), pp. 61–62.
  32. ^ Barnes (2011), pp. 63–65.
  33. ^ Harkleroad & James, pp. 17–21.
  34. ^ Barnes (2011), p. 64.
  35. ^ a b Barnes (2011), pp. 66–67.
  36. ^ Harkleroad & James (2000), p. 23.
  37. ^ Barnes (2011), p. 67.
  38. ^ Barnes (2011), pp. 67–68.
  39. ^ Harkleroad & James (2000), pp. 23–24.
  40. ^ Barnes (2011), p. 68.
  41. ^ French (2010), pp. 389–391.
  42. ^ Harkleroad & James (2000), p. 37.
  43. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), pp. 51–53.
  44. ^ a b Barnes (2011), pp. 84–85.
  45. ^ Barnes (2011), p. 113.
  46. ^ a b Barnes (2011), p. 117.
  47. ^ a b Harkleroad & James (2000), p. 51.
  48. ^ Barnes (2011), p. 120.
  49. ^ Barnes (2011), p. 123.
  50. ^ Barnes (2011), pp. 123–124.
  51. ^ Barnes (2011), p. 124.
  52. ^ Harkleroad & James (2000), p. 52.
  53. ^ a b Barnes (2011), p. 125.
  54. ^ Barnes (2011), p. 135.
  55. ^ a b c Barnes (2011), p. 138.
  56. ^ a b Harkleroad & James (2000), p. 71.
  57. ^ Barnes (2011), pp. 138–140.
  58. ^ a b Barnes (2011), p. 147.
  59. ^ Barnes (2011), p. 148.
  60. ^ Barnes (2011), p. 156.
  61. ^ a b Barnes (2011), p. 157.
  62. ^ Harkleroad & James (2000), pp. 77–78.
  63. ^ Barnes (2011), p. 159.
  64. ^ Harkleroad & James (2000), p. 80.
  65. ^ Barnes (2011), p. 176.
  66. ^ Barnes (2011), p. 181.
  67. ^ Barnes (2011), pp. 183–184.
  68. ^ Harkleroad & James (2000), pp. 97–99.
  69. ^ Barnes (2011), pp. 185–186.
  70. ^ Harkleroad & James (2000), pp. 101–103.
  71. ^ Barnes (2011), p. 189.
  72. ^ Harkleroad & James (2000), pp. 105–106.
  73. ^ Barnes (2011), pp. 190–191.
  74. ^ Discogs”. 2022年8月27日閲覧。
  75. ^ Discogs”. 2022年8月27日閲覧。
  76. ^ Discogs”. 2022年8月27日閲覧。
  77. ^ Discogs”. 2022年8月27日閲覧。
  78. ^ Discogs”. 2022年8月27日閲覧。
  79. ^ Discogs”. 2022年8月27日閲覧。
  80. ^ Discogs”. 2022年8月27日閲覧。
  81. ^ Discogs”. 2022年8月27日閲覧。
  82. ^ Barnes (2011), pp. 193–200.
  83. ^ Discogs”. 2022年8月27日閲覧。
  84. ^ Discogs”. 2022年8月27日閲覧。
  85. ^ Discogs”. 2022年8月27日閲覧。
  86. ^ Discogs”. 2022年8月27日閲覧。
  87. ^ Discogs”. 2022年8月27日閲覧。
  88. ^ Barnes (2011), pp. 201–202.
  89. ^ Barnes (2011), p. 202.
  90. ^ Barnes (2011), p. 205.
  91. ^ Barnes (2011), pp. 205–206.
  92. ^ Barnes (2011), p. 208.
  93. ^ Barnes (2011), p. 207.
  94. ^ Discogs”. 2023年3月25日閲覧。
  95. ^ Barnes (2011), pp. 213–214.
  96. ^ French (2010), pp. 624–625.
  97. ^ French (2010), pp. 625–627.
  98. ^ Barnes (2011), pp. 217–218.
  99. ^ Barnes (2011), pp. 224–225.
  100. ^ Barnes (2011), p. 229.
  101. ^ Barnes (2011), p. 237.
  102. ^ Barnes (2011), pp. 235–236.
  103. ^ Barnes (2011), pp. 237, 239–240.
  104. ^ Barnes (2011), pp. 240–241.
  105. ^ Barnes (2011), p. 244.
  106. ^ Barnes (2011), pp. 244–248.
  107. ^ Barnes (2011), pp. 247–251.
  108. ^ Barnes (2011), pp. 252–253.
  109. ^ Barnes (2011), p. 256.
  110. ^ Barnes (2011), pp. 257–259.
  111. ^ Barnes (2011), p. 259.
  112. ^ Barnes (2011), pp. 259–260.
  113. ^ Barnes (2011), p. 267.
  114. ^ Barnes (2011), p. 279.
  115. ^ Barnes (2011), pp. 272–274.
  116. ^ Barnes (2011), pp. 275–281.
  117. ^ Barnes (2011), pp. 282–284.
  118. ^ Barnes (2011), pp. 285–286.
  119. ^ Barnes (2011), p. 288.
  120. ^ Discogs”. 2023年4月21日閲覧。
  121. ^ discogs”. 2022年11月17日閲覧。
  122. ^ Discogs”. 2022年11月17日閲覧。
  123. ^ Discogs”. 2022年11月17日閲覧。
  124. ^ Discogs”. 2022年11月17日閲覧。
  125. ^ Discogs”. 2022年11月17日閲覧。
  126. ^ Discogs”. 2022年11月17日閲覧。
  127. ^ Discogs”. 2022年11月20日閲覧。
  128. ^ Discogs”. 2022年11月20日閲覧。
  129. ^ Discogs”. 2022年11月20日閲覧。
  130. ^ Discogs”. 2022年11月18日閲覧。
  131. ^ Discogs”. 2022年11月18日閲覧。
  132. ^ Discogs”. 2022年11月18日閲覧。
  133. ^ Discogs”. 2022年11月18日閲覧。
  134. ^ Discogs”. 2022年11月18日閲覧。
  135. ^ Discogs”. 2022年11月18日閲覧。
  136. ^ Discogs”. 2022年11月18日閲覧。
  137. ^ Discogs”. 2022年11月18日閲覧。
  138. ^ Discogs”. 2022年11月18日閲覧。
  139. ^ Discogs”. 2022年11月17日閲覧。
  140. ^ Discogs”. 2022年11月17日閲覧。
  141. ^ Discogs”. 2022年11月17日閲覧。
  142. ^ Discogs”. 2022年11月17日閲覧。
  143. ^ Discogs”. 2022年11月17日閲覧。
  144. ^ Discogs”. 2023年4月22日閲覧。
  145. ^ Barnes (2011), pp. 343–345.
  146. ^ Discogs”. 2023年3月25日閲覧。
  147. ^ Discogs”. 2023年3月25日閲覧。
  148. ^ Discogs”. 2023年3月25日閲覧。
  149. ^ Discogs”. 2023年3月25日閲覧。

引用文献 編集

  • Barnes, Mike (2011). Captain Beefheart: The Biography. London: Omnibus Press. ISBN 978-1-78038-076-6 
  • French, John "Drumbo" (2010). Beefheart: Through the Eyes of Magic. London: Proper Music Publishing. ISBN 978-0-9561212-5-7 
  • Harkleroad, Bill; James, Billy (2000). Lunar Notes: Zoot Horn Rollo's Captain Beefheart Experience. London: Gonzo Multimedia Publishing. ISBN 978-1-908728-34-0 
  • Ulrich, Charles (2018). The Big Note: A Guide To The Recordings Of Frank Zappa. Vancouver: New Star. ISBN 978-1-55420-146-4 
  • Zappa, Frank; Occhiogrosso, Peter (1990). The Real Frank Zappa Book. New York: Touchstone. ISBN 0-671-70572-5 

関連項目 編集