キャロル (バンド)
CAROL(キャロル)は、1970年代に活動した日本のロックバンド。1972年に結成し同年デビュー、1975年解散。
キャロル CAROL | |
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出身地 |
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ジャンル |
ロック ロックンロール ブルース・ロック |
活動期間 | 1972年 - 1975年 |
レーベル |
日本フォノグラム (現ユニバーサルミュージック) |
メンバー |
矢沢永吉(ベース・ボーカル) ジョニー大倉(ギター・ボーカル) 内海利勝(ギター・ボーカル) ユウ岡崎(ドラムス) |
旧メンバー |
今井茂利(ドラムス) 相原誠(ドラムス) サミー(ギター) |
メンバー編集
- 矢沢永吉(やざわ えいきち、1949年9月14日 - )
- ベース・ボーカル担当でバンドのリーダー[1][注 1]。広島県広島市出身[4]。
- 多くの作曲を手掛けた。
- ジョニー大倉(ジョニー おおくら、1952年9月3日 - 2014年11月19日)
- サイドギター・ボーカル担当。神奈川県川崎市出身[4]。
- 本名の大倉洋一名義で多くの作詞を手掛け、「ロックに日本語の歌詞を乗せる」というスタイルを確立させた。
- 内海利勝(うちうみ としかつ、1953年5月30日 - )[5]
- リードギター・ボーカル担当。神奈川県鎌倉市出身[4]。
- 神奈川県立柏陽高等学校時代にエリック・クラプトンに憧れてギターを始め、もっぱらクリームなどのブルースロックを演奏していた。関東学院大学進学後、セミプロのバンドで活動していた頃にキャロルに参加[6]。
- 解散後はイギリスのレゲエバンドThe Cimaronsとのコラボレーションでアルバムを発表。いち早くレゲエのリズムを取り入れるなど意欲的で「たわごと」「鏡の中の俺」がヒットした。原田芳雄のバックバンドのギタリストを務めたこともある。
- 2012年には矢沢のデビュー40周年記念公演にゲスト参加しており、現在もblues file No.1やソロで活動している。
- ユウ岡崎(ユウ おかざき、1951年12月14日 - )
- ドラムス担当。東京都豊島区出身。
- キャロルのデビュー前はいくつかのアマチュアバンドやセミプロバンドで活動していた[7]。初顔合わせの時、メンバーに「YOUたちなんかやってるのは、アレでしょ。ロッケンロールでしょ?」と言ったことから芸名が「ユウ岡崎」となった[8]。
元メンバー編集
- 今井茂利(いまい しげとし)
- ドラムス担当。結成からデビュー前まで在籍。後にダンガンブラザーズに参加。
- 相原誠(あいはら まこと)
- ドラムス担当。2ndシングル録音後ユウ岡崎が離脱、正式メンバーとして加入。数ヵ月後岡崎復帰の為、脱退。デビューシングル録音時は岡崎、発売時は相原がメンバーなので、どちらを初代ドラマーとするかは認識がわかれるところである。後にダウン・タウン・ブギウギ・バンドに参加。2020年4月13日、虚血性心不全のため逝去(68歳没)。
- サミー
- サイドギター担当。本名は猿山幸夫。
- ジョニー大倉が失踪中であった1974年初頭の2ヶ月弱のみ在籍。後に大倉のバックバンド「ジョニー&ダーリン」にベーシストとして参加。
経歴編集
アマチュア期編集
1972年4月、矢沢永吉が川崎駅近くのイトウ楽器店に自ら書いた貼り紙で募集をかけ、同年6月結成される[9][10]。貼り紙の文句は、「ビートルズとロックンロール好きなヤツ、求ム!」だった[11][12]。当時はフォークがメジャーシーンに浮上しはじめ[13]ディスコはバタバタ倒れて、ロックンロールを演奏できる場所がなくなっていった時期だった[14][15][16]。ジョニー大倉が矢沢に電話して京急川崎駅で待ち合わせたが、矢沢は当時吉田拓郎みたいな肩まで伸びた長い髪で、ジョニーのリーゼントを笑ったという[12][17]。近くの喫茶店で2~3時間話をしたが、その頃から矢沢は「ビッグになるために俺は広島から出て来た」と言っていたという[18][注 2]。
もともと、ビートルズのコピーバンドとしてスタートし、ハンブルク時代のビートルズのロッカーズスタイルを真似することで注目を集める。また、オリジナル曲にもその影響が多く見られる。矢沢=大倉の二人で多くの作詞作曲を担当(主に矢沢永吉作曲、ジョニー大倉作詞)した。
当初、バンドのコンセプトをつくっていたのはジョニー大倉[20][24]。クリスマス・キャロルにインスピレーションを受けたという「キャロル」というバンド名に始まり[25][26][27]革ジャンにリーゼントというスタイル導入も彼の発案によるもの[24][27]。当時、まともな革ジャンを売っているのはバイクショップぐらいしかなかったという[28]。ビートルズの本の中にあったハンブルク時代の写真を見てジョニーが「これしかない!」と思いついたものだが[注 3]当時リーゼントでエレキギターを持ったら笑われたという[27]。矢沢は、バンド結成当初はマッシュルームカットだった。矢沢は著書『成りあがり』の中で、革ジャン・リーゼント・ロックンロールというアイデアは、キャロル前の矢沢のバンド「ヤマト」の頃からの構想だったと書いている[30]。
ジョニーはキャロル結成時にも精神病院に入院して一時連絡が付かず、半年後に現れた時には顔中切り傷があるような状態で[20][31]デビューから2年半、解散に至るまでのキャロルの動きは、大部分、矢沢によって決定されていく[31]。矢沢はキャロル結成時には既に100曲以上のオリジナル曲を持っており[31][注 4]矢沢の性格、矢沢の生き方がキャロルの方向を決めていった[31]。ファンやマスコミに触れるキャロルは、大半矢沢に代表されていた[31][注 5]。
キャロル結成後の同年8月、横浜伊勢佐木町のディスコ・ピーナツで初演奏[33][34][35]。ピーナツでは店のレギュラー・バンド、いわゆる"ハコバン"として採用された。もっぱら初期のビートルズナンバーやロックロール・スタンダード、またお客からのリクエストにも応える。他に京浜地区のゴーゴーホールやナイトクラブ等でライブ活動を行う[10][15]。メンバーの送り迎え、セッティング、店のマネージャーとの交渉など、バンドマネジメントは全て矢沢が行う[15]。深夜から明け方まで、"荒くれの兵隊"や、"夜の商売の女"、"酔っ払い相手"に演奏するヘヴィな下積み時代をおくり鍛え上げられる[10][33]。東京蒲田の名門キャバレー・ウラシマに出演する頃には、キャロルのトレードマークともなる「革ジャン・リーゼント・ロックンロール」の三大要素も確立しつつあった[10][36][37]。
プロデビュー編集
フジテレビの番組『リブ・ヤング!』「ロキシー・ファッション 出演者募集」という企画(「ロキシー・ミュージック#エピソード」参照)に、ジョニーがハガキを送ったが断られた[38][39]。これに頭にきた矢沢が『リブ・ヤング!』の担当者に電話を掛け、ハッタリをかました後、しつこくデモテープを送り続け番組出演が決まった[10][39][40]。
1972年10月8日、『リブ・ヤング!』に出演したところ[41]内田裕也から先に直接オファーを受けたが[42]たまたま家で番組を見ていたミッキー・カーチスの目に留まり[43]番組プロデューサーの石田弘にミッキーから電話があり「レコーディングしたいから、彼らを(先約がかかる前に)押さえておいて欲しい」と伝えられ、リーダーの矢沢がミッキーと電話で話し、内田のレーベルか、ミッキーのレーベルかでメンバーは迷ったが[44][45]結局、バンドは内田に丁寧に侘びをいれ、ミッキーを選ぶ[43][44][注 6]。
『リブ・ヤング!』出演3日後の10月11日、日本フォノグラムと専属契約を結ぶ[49]。しかし、金銭的にバンド側に著しく不利な契約を長期で結んでしまい、後にバンドはミッキーとも袂を分かつ[注 7]。
デビュー曲「ルイジアンナ」のレコーディング直前、ドラムスを担当していた今井が「体が弱いからプロになるのはイヤだ」と言って脱退し、ミッキーの紹介でユウ岡崎が正式メンバーとなった[43][54]。
1972年12月25日、「ルイジアンナ」でデビュー[55]。結成から3、4ヶ月でのプロデビューであった[49][56]。同曲のドーナツ盤レコードには、東京・文京公会堂の無料コンサートチケットが同梱されていた。同コンサートには和田アキ子が友情出演している。
ミッキーのアイデアで「ルイジアンナ」でデビュー以降、異例の毎月一枚のシングルをリリース。1972年12月から1973年6月までの7枚のシングルが毎月売り出された[13]。「ルイジアンナ」が20万枚、「ヘイ・タクシー」が10万枚、「ファンキー・モンキー・ベイビー」は30万枚を売り上げた[57]。その他のレコードも平均10万枚を売り上げ、コンサートはどこも満員だった[57]。
2枚目のシングル「ヘイ・タクシー / 恋の救急車」のレコーディング終了直後、ドラムのユウ岡崎がトラブルを起こして逮捕され、またミッキーの紹介で相原誠(後にダウン・タウン・ブギウギ・バンドに参加)がドラマーとして加入[58]。3枚目のシングル「やりきれない気持ち / ホープ」のレコーディング終了後、ユウ岡崎が仮釈放されたため、スタッフと矢沢は相原をクビにしてユウ岡崎をメンバーに戻した[注 8]。
1973年2月28日、内田裕也プロデュースの「第1回ロックンロール・カーニバル」に出演[59]。『リブ・ヤング!』の熱演で、週刊誌も大きく取り上げ、篠山紀信、山本寛斎、龍村仁ら、業界人や若いクリエーター、地方のイベンターたちも会場に集まった[59]。彼らはキャロルのロックバンドという以上の新時代のヒーローたる存在感にいち早く着目[10][60]、篠山は『リブ・ヤング!』出演時からキャロルをマークし、キャロルを被写体としてフォト・セッションを続け、その作品はディスクジャケットや宣伝用写真として用いられた他、『週刊プレイボーイ』が毎週グラビアに掲載。キャロルのビジュアル・イメージ作りに一役買った[10][16][61]。当時キャロルのメンバーはライブの前に大量に酒を飲みステージに上がった[62]。「第1回ロックンロール・カーニバル」では、初の大舞台ということもあって極度のトランス状態に陥り、ジョニーが失神した[62]。これによってキャロルは失神するほどの強烈なステージをするという噂が飛び交い、キャロル人気に拍車をかけた[62]。
マスメディアのインタビューでは、矢沢が挑発的に喋りまくり、あとの三人は難しい顔をして黙るという戦略をとった[63][64]。
1973年、NHKのディレクターだった龍村仁がドキュメンタリー『キャロル』を制作したが、放映の是非を巡ってNHK上層部と揉め、大きな社会問題になった[57][65][66]。
この事件は、キャロルがひとつのロックンロールバンドを超えて、社会現象として1つの色に塗り替えた[57][67][68]。
この頃からキャロルのコンサートは軒並みソールドアウトとなり、パニック状態となる[69]。
ジョニーは著書で「ドラッグを始めたのは、キャロルがデビューしてすぐのころ」と書いており[70]、当時ドラッグに依存する生活ぶりで破綻をきたしていたこともあり[20]人気絶頂時のツアー中、京都公演出発の朝に失踪[71]、1973年11月23日~1974年2月中旬まで行方不明となった[72][73][74]。発見されたのは川崎の精神病院だった[20][75]。そのこともあり、矢沢のバンド内での影響力がさらに増す。暫くは3人での活動を進め、ジョニーを待ち、探したが出て来なかったので新メンバー・サミーを加えて活動した(その後ジョニーが復帰[72][76])。
1974年3月21~4月5日、山本寛斎のファッションショーでのステージと龍村仁の映画撮影のため、渡欧しパリでライブを行う[49][77][78]。
1974年8月ワンステップフェスティバル出演、15日の大トリを務めた[79]。
解散・その後編集
メンバー間で軋轢が生じ[80]1975年4月13日、日比谷野外音楽堂で解散。3千人収容の会場に7千人がつめかけた[81]。解散ライブでは、特殊効果用の火がセットに燃え移り、“CAROL”と書かれた電飾が焼けて崩れ落ちるというハプニングがあった。それを演出と思った観客も多かった。このあまりにも象徴的なハプニングが伝説をいっそうかきたて、現在もなお歴史的名シーンとなった[81][82]。この解散ライブは「ロックのメッカ」としての、その後多くの「野音伝説」を生むきっかけとなった[47][83]。解散ライブのテレビ放映は、同年7月12日にTBSテレビ『特番ぎんざNOW!』という番組で1時間枠が組まれ「グッバイ・キャロル」というタイトルで放送された[84][注 9]。日本のロックバンドのライブ映像がテレビ放送されたのは、これが最初ともいわれる[84]。
解散後、矢沢永吉はソロ活動に転じ、日本を代表するロック・ミュージシャンに成長[82][85]。
ジョニー大倉はソロ活動の傍ら、俳優としても活躍していたが[86]、2014年11月19日、肺炎により死去[87][88]。62歳没。
内海利勝はイギリスのレゲエバンドThe Cimaronsとのコラボレーションで作品を発表したほか、原田芳雄のサポートやソロ活動を展開[89]。2012年には矢沢のライブに出演し、37年ぶりの競演を実現させた[90]。
ユウ岡崎は現在『C's Graffiti Japanese Rock'n Roll Band』で活動している。
音楽性編集
ロックマーケットの開拓編集
1970年代前半、吉田拓郎、かぐや姫などの活躍で興隆するフォーク勢とは対照的に、マイナーな存在に甘んじていた日本のロックシーンにとって一筋の光明となったのがキャロルだった[91][92][93]。単なるサブカルチャーでしかなかった日本に於けるロックという分野も、キャロルの成功によって一気にその道が開かれた[94][95][96]。それまでのロック・リスナーのメイン層はハイティーンで、長髪にジーパン姿がロック・ファッションの定番であったが、リーゼントに革ジャン姿のキャロルの登場は、コンサート会場にリーゼント族や女の子たちを動員させ、ロック・リスナー層を一気に"女・子供"までに広げることに成功した[10]。GSブーム以来、久々に女性ファンの凄まじい矯声と失神騒ぎも復活させた[91]。音楽性やファッションは、デビューから解散までの2年半の間、変わらなかった[95][97][98]。
この時代、他のロックバンドの多くが、同時代の英米のロックバンドを模して、技巧重視の音楽を展開したことに対して、キャロルは初期ビートルズを模範としてシンプルなロックンロールを志向したことが大きな特徴といえる[95][99][100]。当時の日本のロックは英米の新しい動向を意識した流れであったため[86]それらとはまったく関係のないところから飛び出したキャロルの登場は大きな衝撃があった[86]。キャロルのようなロックンロールはそれまで日本には存在しなかった[86]。キャロル以前は、まだ"ロックンロール"という音楽が世間で認知されていなかった[14][101]。当時日本でロックバンドをやろうという人なら、誰もがビートルズは聴いてはいたが、1970年に解散したビートルズの音楽をもはや最先端の音楽とは思ってはなく、さらに1960年初頭のハンブルク時代のアメリカのロックン・ロールなどのカヴァーをやっていた頃のビートルズに着目する人がいるなんて誰も考えもしなかった[86]。またキャロルが拠点にした川崎や横浜は、ザ・ゴールデン・カップスやパワー・ハウスなどを生んでいるが、キャロルはその後継バンドでもなく、まったく音楽関係者も予想しないところから出てきた印象があった[86]。
キャロルは大衆性を強く打ち出し[92][99][102]オールディーズの要素をノリのいい8ビートで、日本的に分かりやすく解釈して見せた[81][103]。センセーショナルなキャロルの登場ぶりは、頭デッカチになっていた日本のロックシーンを強烈に揺さぶった[67]。いきのいいロックンロールとキャッチーなメロディで時代をロックンロールに向けさせた[67]。また非常に不良のイメージを売りにしていたことも特徴で、当時の風潮であるヒッピー的なドロップアウト(エリートの反抗)の文脈ではなく、"はぐれもの"というブルーカラー的な意匠を強調していた。"はぐれもの"に正しさを求める存在である暴走族の取り巻きが出現したのも必然といえる[99]。南田勝也は「1960年代中後期のロック生成期において、ロックンロールとロックを隔てる最大の要因はアート指標の有無にあったが、キャロルはその時期を参照体系にしないで済ませた。1950年代から1960年代前期にかけてのロックンロールの価値観ーすなわち肉体、タフネス、成功への欲望などーに基づいたアメリカン・ドリームの幻想をダイレクトかつ戯画的に日本の1970年代に現出させたのがキャロルという存在だった。この方法論は何度でも通用するわけではなく、その戯画的なイメージには一定の真実味がもたされなければならない。その点で矢沢永吉は、著書『成り上がり』というタイトルが示すように、過酷な生い立ちに対する反骨の意志を動力にするという物語―極端なまでのすさんだ境遇の描写が逆に真実味を帯びるようなリアリティ感覚―を可能にするキャラクターだった。だからこそ、矢沢及びキャロルは、1970年代という時期にメジャー化したうえで、『ロックである』との認証を得たほとんど唯一の存在になり得たのである」などと論じている[99]。
ロックンロールのオールディーズ風サウンド、テンションの高いライブ演奏、クールスなどの親衛隊を含めたファッション性などから、矢沢永吉を筆頭にバンド全体がカリスマ性を持っていた[97]。
高護は「キャロル最大の功績は思想を持たなくても日本語のロックンロールが充分にかっこいいことを提示したこと」と述べている[104]。
日本語ロックの確立編集
ソングライティング編集
ジョニーと矢沢の作詞・作曲コンビは、ビートルズのレノン=マッカートニーに例えられた[69]。矢沢の作り出す比類なきメロディラインとジョニーの神経の細かいところから醸し出す知性、矢沢の"動"とジョニーの"静"がぶつかりあい火花を散らすところからキャロルの爆発的エネルギーは生み出された[69]。矢沢のメロディは、その後数多く誕生してくるキャロル・フォロワーたちの、初期ビートルズ作品の特徴を表面的に真似ただけの"マージーサウンド"とは一線を画しており、現在の"矢沢節"が伺える強烈なオリジナリティを発揮していた[94][105]。当時はフォーク界ではシンガーソングライターが脚光を浴びつつあったが、ロック界では"日本語ロック論争"が収拾しておらず[106]、まだ日本語オリジナルのロックは一般的でなかった。小学6年生の時に慶大の学祭で初めてキャロルを観たという横山剣は、ステージングの衝撃は勿論、外国の翻訳曲と思っていた曲がレコードを買って、キャロルのオリジナル曲と分かって驚いたと話している[107]。大友康平は「矢沢永吉さんのキャロルが出て来て日本のロックシーンは変わりました。デビュー曲の『ルイジアンナ』がラジオから流れた瞬間、日本語でもロックはいけるんだと震えました。当時はめちゃめちゃなミキシングだと批判されていたけど、今聞くとすごく新しいし、昔はドラムの音が前面にくるサウンドがなかったので革命的でしたね」と述べている[108]。日本語はロックのリズムにのりにくいといわれてきて、ワルツにならのりやすい言葉などといわれてきたが、ロックにものせられることをキャロルが示した[66]。アメリカの軽快なロックンロールに日本のポップス・センスを加えたキャロルの日本語オリジナルは、それまでの"日本語ロック論争"を完全に無意味なものにした[91][109][110][111][112]。意味よりも語感を重視した日本語と英語のチャンポン詞は、さらに日本語を英語風に発音する矢沢の唱法で一種独特な和製ロックソングへと昇華されているが、この手法の考案こそが後のJ-POP隆盛へと至る発火点であるとも論じられる[24][82][95][96]。日本語によるロックの確立がキャロル最大の功績といえる[20][32][113]。はっぴいえんどのギタリスト・鈴木茂は、「キャロルはいろんな意味で好対称だった。彼らが明るいサウンドで、僕達は暗い。彼らは解り易いものでアルバムを作り上げ、僕らは解りづらい。いろんな意味でちょっと違うなあってとこはあったけど、でも彼らには持ち得ない、何かインテリジェンスのあるっていうか、そういう面があった所が救いだったかな。それ以外は全て、わあ、いいなあって」などと述べている[109]。「FMステーション」元編集長・恩藏茂は「はっぴいえんどは岡林信康的なフォークの枠から出られずに苦しんでいたように思えた。メッセージ性を帯びた歌詞が、どうしても字あまりになってロックのリズムに溶け込まないきらいがあった。メンバーがそれぞれの能力を存分に発揮し始めたのは解散後のこと。はっぴいえんどが必ずしも成功したとはいえない日本語ロックに一つの答えを出したのがキャロルとダウン・タウン・ブギウギ・バンド、サザンオールスターズだった。メッセージ性を帯びた詞をビートにのせるのではなく、ビートにのる詞だけを、ときには脈絡なく繋ぎ合わせるやり方を、彼らは選んだ。字あまりの部分には適当な英語、オーイェーとかベイビーとか単純な言葉を入れる。キャロルはロックの歌詞に意味などいらない、と居直ることによって、徹底した思想性になさで成功した」などと論じている[114]。キャロルは、はっぴいえんどとは異なる手法の日本語ロックで成功した[115]。
1975年の『ヤング・インパルス』(TVK)で放送された「ヒストリー・オブ・キャロル」という番組で「英語日本語の入り混じった、まさに無国籍のロックンロールは瞬く間に若者の心を捉えた」と紹介された。こうしたキャロルの日本語英語チャンポン歌詞の誕生については、デビュー曲「ルイジアンナ」は、最初は全編英語詞であったが、レコードが発売される直前になって、レコード会社から、英語詞では売れないから歌詞を日本語にしてほしい、との要請を受け日本語に変更したのが切っ掛け[116]。ジョニーは矢沢に「オレの曲に英語で詞をつけてよ」と頼まれ、初めて作詞を手掛けた[32][注 10]。この製作課程で最初のジョニーの100%英語歌詞を矢沢が「こんなのやりきれない」「ここ日本語に直してくれないか?」とジョニーに言うから、急遽直したが、また矢沢が「どうしてもこの部分は日本語が乗らないな。じゃあ、やさしい英語でもいいから残しておこう」とできたのが、あのチャンポン詞」「あの時代、作詞のできる俺を永ちゃんは離せなかったと思う」などとジョニーは話している[20][116]。矢沢は「あれを日本で発明したのはジョニー大倉だから、勲一等出さなきゃいけないと思うよ」「そこからヒントを得た作詞家がボロ儲けしてるんだから」と話したという[20]。
唱法編集
ジョニーが作った日本語英語チャンポン歌詞+矢沢の「巻き舌唱法」[99][116][118]、英語なまりの日本語[119]、日本語を英語っぽく発音してロックに乗せる「巻き舌唱法」によって"日本語ロック論争"は、何語で歌うかは問題外になり、論争は不毛なものとなる[111]。「巻き舌唱法」は、日本ではキャロル時代の矢沢を始まりとして[97][120]、吉川晃司で一応の完成形となる[121]、桑田佳祐、氷室京介、福山雅治など、"かきくけこ"を"きゃきぃきゅきぃぇきょ"と発音する現在のJ-POPシンガーたちへと受け継がれたなどと論じられる[10][122]。
相倉久人は1977年の著書で「キャロルに代表される英語でも日本語でもないような、今の日本語的なロックの言葉」と解説し「キャロルの歌を聴いた時に、矢沢君の歌ってのは、日本語と英語がめちゃくちゃ入り混じっているわけでしょ。その中に出てくる英語ってのは絶対アメリカ人の英語とは違うわけですよ。それと、彼の歌っている日本語の歌い方というのが、又、非常におかしいんだ。あれは完全に日本語とも言い切れないところがあるでしょう。だからその辺の日本語と英語がチャンポンになっているっていうところでもって、伝統的な日本語のしゃべり方、あるいは日本語の歌の歌い方と違ってまったく新しいキャロル独特の音葉のリズムというものを獲得したんだという実感を初めて持ったんですよね」と述べている[123]。
この他、デビュー曲「ルイジアンナ」は、プロデューサーのミッキー・カーチスがヨーロッパで学んだ最新の録音技術を駆使して当時としては革新的なサウンドを実現している[124]。キャロルは、それまで日本で認知されていなかったロックンロールを一般に広めると同時に、最新の録音技術を世に広めた[124]。
ファッション編集
ポマードべったりのリーゼントに革ジャン、革パンツというファッションは社会現象になる[95][99][122]。これらは1950年代から1960年代にかけてロカビリーの頃に全盛を迎えたが、みゆき族の時代に入るとアイビー的なファッションが主流となり、またビートルズの出現でヘアスタイルの革命が起こると、リーゼントは「終わった」といっていいところまで追いやられ、普通の若者のやることではなくなってしまった[125]。当時日本のロックミュージシャンは、外国のハードロック/プログレのミュージシャンの影響で、みな長髪だった[24][81][112]。そうした背景のもとに突如としてその葬り去られたともいえる髪型で登場したのがキャロルだった[125][112]。この先祖返りのようなコンセプトは画期的なアイデアで[10]、それまでずーっと"ダサい"の極みだったリーゼントを、全く無名のアマチュアバンドが、数分のTV出演という、たったそれだけのパフォーマンスで、あっさりとトップモードに返り咲かせ、ロックといえば長髪という価値観を、みごと一瞬にしてひっくり返した[24][125]。当時、ロックはビジュアルが表に出てくるものでなかったが、キャロルは不良に通じるビジュアルを持っていた[126]。若者向けのテレビ番組『リブ・ヤング!』出演一発で人気が爆発した点も、ビジュアル面での高さを物語り、J-POPの未来を先取りしていたといえる[127]。こうしたキャロルのファッションは、メンバーの行きつけだった新宿のライブハウス「怪人二十面相」[注 11]を中心に話題となり、その後原宿を中心に一世を風靡したロックンロールファッションの先駆けとなった[128][129]。「怪人二十面相」は、のち原宿にクリームソーダ王国を築く山崎眞行が最初に手掛けた店で[130]キャロルが一度スペシャル・ライブ(1974年3月6日)を行ったことで当時最先端のライブハウスになった[128][131]。
オールディーズの普及編集
当時、アメリカとか英国では、"ロックンロール・リバイバル"(Rock and roll revival)が叫ばれていたが、日本で形として現したのはキャロルが最初[132][133][注 12]。キャロルのファーストアルバム『ルイジアンナ』(1973年3月25日発売)に収録された「ジョニー・B.グッド」は、ロックンロールのスタンダード・ナンバーであるが、当時はまだ、日本で知られていなかった[132]。キャロルがライブで当時この曲を演奏すると、キャロルのオリジナル曲と思った人が多かった。キャロルの演奏によって「ジョニー・B.グッド」は日本で最もメジャーなロックンロールとなった[132]。この曲はタイトルにジョニーと付いているため、以前からジョニー大倉が歌っていたという[132]。「ジョニー・B.グッド」だけでなく、キャロルのファーストアルバムに収録された英語曲の多くが、キャロルのオリジナルと勘違いされた。オールディーズの普及は、アメリカ映画『アメリカン・グラフィティ』の影響が大きいとされるが、同作が日本で公開されたのは、1974年12月21日である。
ヤンキー先駆け編集
その現場に居合わせた近田春夫は「あとになって考えてみればキャロルは図らずも『パンドラの箱を開けてしまった』ということなのであろう。つまり彼らの登場無かりせば、ヤンキー的体質というものが日本の音楽市場の中でここまで大きな意味をなさなかったろうと思うからである。キャロルは、不良の生きるひとつの道としての音楽の可能性をあの"格好"と"音"でもって示唆してしまった」[125]「キャロル、そしてその後の矢沢永吉のスタイルは、のちにこの国のヤンキー文化に色濃く反映している。リーゼントに革ジャンというスタイルは、暴走族のファッションやツッパリファッションとしても定着した」などと近田は解説している[134]。反逆児っぽいキャロルのクールかつ、ツッパリイメージは、暴走族などアウトローを気取る若者たちから絶大な支持を受けた[10][103]。当時"暴走族"は"競走族"など称された[135]。2008年頃から言われ始めた「ヤンキー力」「ヤンキーパワー」の解説に於いて[136]キャロルはその歴史の始まりに持ってこられる場合が多い[137][138]。『フライデーダイナマイト』のヤンキー特集「ヤンキー40年史年表」では、「1972年、ロックバンド・キャロルがデビュー。リーゼントの若者が急増」という記述からヤンキーの歴史が始まっている[139]。それまで不良の形は様々なものだったが、キャロルの登場によってイメージは統一化された[81]。リーゼントや革ジャン、バイク、サングラスは一つの基本形になり、全国的に定着した[97]。
キャロルはとりわけ暴走族から絶大な支持を集めた[67][81]。暴走族のヒーローと言われたのは[140]篠山紀信の撮った写真にメンバーがリーゼント、革ジャンでバイクに乗った物があり、それを真似る若者が増えたため。彼らが暴走行為を始めたため、「キャロルが"暴走族"という言葉を作った」[141]「"暴走族"はキャロルが生み出したようなもの。ぼくたちがデビューした当時、バイクを乗りまわす連中は"カミナリ族"と呼ばれていて、彼らはみな、アロハシャツやスウィングトップを着てバイクに乗っていた。それがキャロルの登場によって、キャロルの演奏にシビれたバイク乗りたちが、アロハやスウィングトップを脱ぎ捨て、キャロルのスタイルを真似てバイクを乗りまわすようになった。このスタイルはたちまち全国に広がり、社会現象となって"暴走族"という言葉を生み出した」などとジョニーは話している[13][142]。
キャロルの人気が出ると暴走族が護衛やステージサイドのガードをした[142][143]。但し、有名な日比谷野音でのキャロル解散ライブに於けるクールスの護衛は、ローリング・ストーンズがヘルズ・エンジェルスを親衛隊にしてコンサートを行なったことに影響されて、矢沢が舘ひろしに同じような演出をしたいと持ちかけたものである[144][145]。
キャロルの舞台にはいつも暴力的な雰囲気が付きまとい、群がってくるファンの中にも、どことなくそれを期待する雰囲気があった[31]。実際にキャロルのコンサートでの血気盛んなファン同士のケンカ騒ぎが新聞に報じられ[10]暴走族が集会するという理由で会場に公演を拒否される問題も起こったが、そうした話題性も評判を高めることに貢献した[99]。1973年、1974年当時は、日本全国の学校で暴力事件が多発し、暴走族も600チーム以上あった[146]。そんな時代の申し子のように、キャロルの音楽やファッションは若者の心を虜にした[146]。彼らの存在自体に若者の一つの価値観が見い出せた[146]。
1974年3月、欧州での演奏旅行から帰国後に始まった全国コンサートツアーで、ファンがエキサイトして、会場内で乱闘事件が続出し、社会問題に発展した[147]。コンサートに集まる若者の半分以上が若い男の子であったが、彼らの鬱積した肉体のエネルギーは、キャロルの演奏によって挑発された[147]。興奮しきった歯止めが利かず、ステージに上がり、メンバーに飛びかかり、抱きつき機材を壊し、客席のお客同士でケンカを始めた、1974年7月17日、京都・円山公園でのコンサートでは4000人のキャパを遥かに超える7000人の聴衆が押し寄せ大混乱になる[69][148]。リーゼント・スタイルのオートバイ族とロック・ファンの長髪族とがケンカして、重傷者3名、軽傷者8名を出した[49][147]。このような暴力沙汰はマスコミにも取り上げられ社会問題となり、キャロルは段々会場となる公会堂を締め出されていった[147]。
京浜工業地帯で誕生したキャロルは、リバプールから生まれたビートルズとオーバーラップさせて、さらに下層階級的成り上がりの美学を構築した[64]。勿論、これらの真実性に矢沢の生い立ちが不可欠であった[64]。キャロルのビート感やリズムの力強さは、矢沢の生きざまそのものであったのである[81]。
影響編集
1973年2月28日、「ロックンロール・カーニバル」に出演したキャロルを会場で観たNHKディレクター・龍村仁(当時)がキャロルに取り憑かれ、彼らに帯同してカメラを回しドキュメンタリー『キャロル』を制作した[149][150][注 13]。しかし放映の是非を巡ってNHK上層部と揉め、最終的に龍村と実質の製作者といわれた小野耕世がNHKを解雇された。当時は『ヤング・ミュージック・ショー』など、外国のロックがようやく放送される時代になってはいたものの、NHKではロックに対してまだ保守的な姿勢を崩していなかった[152]。この事件は、三大新聞をはじめ、多くのマスコミに取り上げられ社会問題に発展したが[57]キャロルがNHKである種のボイコットを受けたことは、若者たちの間で異常なほどの人気で迎えられる結果となった[57]。
キャロルをスカウトしたミッキー・カーチスは「漠然とやりたいと思っていたものを目の前に見せつけられた感じだった」と述べている[43][注 14]。キャロル登場のインパクトは大きく、ロカビリー以来の活動歴を持つ内田裕也は、イベンターとしてミッキーと共同で1973年2月「日本ロックンロール振興会」を旗揚げして[67]、同月28日「ロックンロール・カーニバル」(渋谷公会堂)を仕掛け、自らもロックンロールに回帰して「1815ロックンロールバンド」の活動を活発化させた[99][135]。キャロル以前はまだ"ロックンロール"という音楽が世間で認知されていなかった[14][47]。内田は『ニューミュージック・マガジン』1973年5月号の五木寛之との対談で「ぼくはロックってのは基本的にはロックンロールだと思うンですけどね」と発言している[99]。
1973年夏には「1815ロックンロールバンド」やキャロルがパッケージとなった「ロックンロール・イン・サマー」というイベントが全国16ヶ所で開催されて、ロックンロールブームを決定づけた[67]。
キャロル売り出しの際にアートディレクター・奥村靫正が関わり、メディアミックスでやらないとと提案し、矢沢から「日本一のカメラマンに撮って欲しい」と頼まれ、デビュー間もない篠山紀信を紹介して、キャロルは大々的に売り出された[10][153]。ロックバンドが映像から入っていくといった手法で売り出されるというのも当時は珍しかった[135]。
キャロルの影響で、1950年代のロックン・ロールを聴く暴走族のうち、原宿に集まった暴走族の中から生まれたのがクールスである[67][95][126][145][154]。クールスはキャロルがコンサート会場へ行き来する時に、バイクにまたがり、キャロルの乗る車の前後を護衛するかのように付き従い、そのうちクールス自体もバンド活動を始めたもので[155]、音楽的にはシャ・ナ・ナの影響を受けている[67][154]。
ダウン・タウン・ブギウギ・バンドは、1973年12月1日のデビューで、キャロルとは約一年遅れのデビューだが、キャロルが篠山紀信に写真を撮られ、大々的に売り出されたため、キャロルの物真似と散々言われたと宇崎竜童は話している[156]。宇崎はこの一年の差に悩まされ、宇崎らも最初は皮ジャンを着ていたが、やむなく皮ジャンでないものを探して、たまたま「つなぎ」にいったという[24][156]。『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』(1975年3月25日発売)が出るときにキャロルは華々しく解散。宇崎は「矢沢永吉って人間には常に先に行かれたって気があった」と話している。『スモーキン・ブギ』(1974年12月5日発売)が2位になった時、楽屋で一緒になるとキャロルの方は、シングルヒットがなかったことで「おタク達は泥臭くやって成功したね。ウチらちょっとアカ抜けてたから」と矢沢に言われ「この野郎」と思った。ドラマーの相原誠が元キャロルということもあったこともあり、お互い敵対視していたという。矢沢のことを聞かれると「意識してないから」とツッパって来たが、実はズッと強く意識してきたとインタビューで述べている[156]。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドも頭がリーゼントだったため、キャロルとダウン・タウンで、ロックンロール=リーゼントの図式が定着した[67]。前述したように当時の日本のロック・ミュージシャンは、外国のロック・ミュージシャンの影響でみな長髪だった。
当時全国の中学・高校ではキャロルのコピーバンドがたくさん出現した[10]。キャロルは、ロック・リスナー層を拡大しただけでなく、プレイヤー人口の増加も促進した[10]。
クールス~ダウン・タウン・ブギウギ・バンド~横浜銀蝿~トラブル[157]~氣志團らに至るツッパリ系ロックン・ロールバンドのルーツである[24][91][67]。またシャネルズ、チェッカーズは、音楽的にはクールスの流れを汲むもの[67]。
金子マリは1972年に、たまたま買い物に行った東急本店の屋上であったキャロルのライブを観ていて、そこに居たCharに声をかけてプロになった[158]。
キャロルの影響を受けたミュージシャン、クリエーターは数多いが、ミュージシャンでは、大友康平、高橋ジョージ、氷室京介、藤井フミヤ、横山剣、THE COLTS、ギターウルフ、ダイアモンド☆ユカイらが有名である[95][102][159][160][161][162]。藤井と横山は、少年期に初めてキャロルを観て、藤井「心をレイプされた」、横山「矢沢永吉が龍に見えた」などと大きな衝撃を受けたと話している[107][163][164][165]。藤井は2003年に全曲キャロルの楽曲をカバーしたアルバム『MY CAROL』をリリースし、「自分のボーカルは、俺独自に作り出したニュアンスだと思っていたけど、矢沢さんとジョニーさんの合体だったんだとわかった」と話している[126][166]。ダイアモンド☆ユカイは矢沢の自伝タイトルをパロった著書『成りさがり』に、埼玉出身なのに、キャロルをまねてわざわざ川崎まで行ってバンドメンバーを探したという件がある。
ディスコグラフィー編集
※ レコードは、すべて日本フォノグラム/フィリップスより発売。
シングル編集
※ すべて7インチレコードで発売。
# | 発売日 | 規格品番 | 面 | タイトル | 作詞 | 作曲 |
---|---|---|---|---|---|---|
1st | 1972年12月20日 | FS-1732 | A | ルイジアンナ | 大倉洋一 | 矢沢永吉 |
B | 最後の恋人 | |||||
2nd | 1973年1月25日 | FS-1733 | A | ヘイ・タクシー | 大倉洋一 | 矢沢永吉 |
B | 恋の救急車 | |||||
3rd | 1973年2月25日 | FS-1736 | A | やりきれない気持ち | 大倉洋一 | 矢沢永吉 |
B | ホープ | |||||
4th | 1973年3月25日 | FS-1741 | A | レディ・セブンティーン | 大倉洋一 | 矢沢永吉 |
B | 愛の叫び | |||||
5th | 1973年4月25日 | FS-1741 | A | 彼女は彼のもの | 大倉洋一 | 矢沢永吉 |
B | 憎いあの娘 | |||||
6th | 1973年5月25日 | FS-1747 | A | 0時5分の最終列車 | 大倉洋一 | 矢沢永吉 |
B | 二人だけ | |||||
7th | 1973年6月25日 | FS-1752 | A | ファンキー・モンキー・ベイビー | 大倉洋一 | 矢沢永吉 |
B | コーヒー・ショップの女の娘 | |||||
8th | 1974年2月5日 | FS-1755 | A | 涙のテディ・ボーイ | 大倉洋一 | 矢沢永吉 |
B | 番格ロックのテーマ | |||||
9th | 1974年7月25日 | FS-1797 | A | 夏の終り | 矢沢永吉 | |
B | 泣いてるあの娘 | 内海利勝 | ||||
10th | 1974年12月20日 | FS-1807 | A | ラストチャンス/Last Chanse | 大倉洋一 | 矢沢永吉 |
B | 変わりえぬ愛/Unchained My Love |
再発売シングル編集
- ルイジアンナ/涙のテディー・ボーイ/ファンキー・モンキー・ベイビー/番格ロックのテーマ (1975.3.25)
- ラストチャンス/やりきれない気持ち/夏の終わり/レディ・セブンティーン (1975.4.25)
- ルイジアンナ/ホープ/ミスターギブソン (1975.11.25)
- ヘイ・タクシー/いとしのダーリン/番格ロックのテーマ (1975.11.25)
- ファンキー・モンキー・ベイビー/コーヒー・ショップの女の娘/ジョニー・B・グッド (1975.11.25)
- ハニー・エンジェル/憎いあの娘/恋する涙 (1975.11.25)
- レディ・セブンティーン/恋の救急車/ハニー・エンジェル (1975.11.25)
- 涙のテディ・ボーイ/愛の叫び/彼女は彼のもの (1975.11.25)
- 涙のテディ・ボーイ/彼女は彼のもの (1976.4.25)
- 夏の終わり/ラストチャンス (1976.4.25)
- やりきれない気持ち/0時5分の最終列車 (1976.4.25)
- ルイジアンナ/ヘイ・タクシー (1976.4.25)
- ファンキー・モンキー・ベイビー/レディ・セブンティーン (1976.4.25)
- ファンキー・モンキー・ベイビー/ルイジアンナ (1979.7.25)
- 夏の終わり/涙のテディー・ボーイ (1979.8.25)
- ファンキー・モンキー・ベイビー/ルイジアンナ (1979.11.25)
アルバム編集
スタジオ・アルバム編集
# | 発売日 | 規格 | 規格品番 | アルバム |
---|---|---|---|---|
1st | 1973年3月25日 | LP | FX-8056 | ルイジアンナ
※ 「やりきれない気持ち」「ホープ」「ワン・ナイト」のドラムは相原誠。 A面
B面
|
1975年5月15日 | LP | |||
1992年11月26日 | CD | PHCL-3027 | ||
2nd | 1973年7月25日 | LP | FX-8066 | ファンキー・モンキー・ベイビー
A面
B面
|
1975年5月15日 | LP | |||
1992年11月26日 | CD | PHCL-3028 | ||
3rd | 1974年7月25日 | LP | FX-8095 | キャロル・ファースト
A面
B面
|
1975年5月15日 | LP | |||
1992年11月26日 | CD | PHCL3030 |
ライブ・アルバム編集
# | 発売日 | 規格 | 規格品番 | アルバム |
---|---|---|---|---|
1st | 1973年12月20日 | LP | FX-8081 | ライブ・イン“リブ・ヤング”
※ 1973年10月23日にフジテレビ第一スタジオにて収録。 A面
B面
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1973年12月20日 | カセット | LCT-20020 | ライブ・イン“リブ・ヤング”
※ LPレコードとは収録内容が異なる。 A面
B面
| |
カセット | FT-7077 | |||
1992年11月26日 | CD | PHCL-3029 | ライブ・イン“リブ・ヤング”
※ 既発LP盤のCD化。
| |
2nd | 1975年5月15日 | LP | FS-9001~2 | 燃えつきる - キャロル・ラスト・ライヴ!! 1975.4.13.
※ 1975年4月13日、東京日比谷野外音楽堂での解散コンサートを収録。 A面
B面
C面
D面
|
1992年11月26日 | CD | PHCL-3031 | 燃えつきる - キャロル・ラスト・ライヴ!! 1975.4.13.
|
- 再発売アルバム
- 『アプローズ・デラックス・パック』 (日本フォノグラム/フィリップス、1973年11月25日)
- 1stアルバムと2ndアルバムの全ての音源を合わせたもの。LP2枚組のBOX仕様。
- 『アーリー・キャロル』 (日本フォノグラム/フィリップス、1975年9月25日)
- 上記『アプローズ・デラックス・パック』を更に再発売したもの。LP2枚組。BOX仕様ではない。
- コンピレーション・アルバム
- 『キャロル・ゴールデン・ヒッツ』(日本フォノグラム/フィリップス 20Y-3 1974年12月25日 16曲)
- 「やりきれない気持ち」はシングルバージョン。
- 『GOOD-BYE CAROL』(日本フォノグラム/フィリップス 20Y-9 1975年4月5日)
- 最後のスタジオ録音音源の「緊急電話」を初収録し、他にデモカセット音源、英語テイク、日大講堂でのライヴ音源(B面#3~6)等を収録したドキュメンタリーアルバム。
- 『キャロルとディスコ・パーティー』(日本フォノグラム/フィリップス、1976年3月5日)
- B面はクック・ニック&チャッキー、つのだ・ひろ、ミッドナイト・スーパー。
- 『キャロル・ゴールデン・ヒッツ・マークII』(日本フォノグラム/フィリップス 20Y-16 1976年5月25日 16曲)
- 「グッド・オールド・ロックン・ロール」「トゥティー・フルティー」「ワン・ナイト」の3曲はオリジナルと別テイク。
- 『INTRODUCING CAROL』(日本フォノグラム/フィリップス 1977年6月10日)
- プロモーション用音源を流用。「やりきれない気持」「恋の救急車」はオリジナルとは別ミックス。B面は音楽業界者のインタビュー。
- 『キャロル・ゴールデン・ヒット』(日本フォノグラム/フィリップス 1979年6月25日 20曲)
- ヒッツではなくヒットだが、英語表記はHITS。1974年にリリースしたベストに「ミスター・ギブソン」「コーヒー・ショップの女の娘」「最後の恋人」「二人だけ」の4曲を追加。
- 『キャロル・ゴールデン・ヒット・マークII』(日本フォノグラム/フィリップス 1979年10月25日 20曲)
- ヒッツではなくヒットだが、英語表記はHITS。1976年にリリースしたベストに「ふられた男」「トゥティ・フルティー」「甘い日々」「雨のしずく」の4曲を追加。「グッド・オールド・ロックン・ロール」「トゥティー・フルティー」「ワン・ナイト」の3曲はオリジナルと別テイク。
- 『ラスト・チャンス ~キャロル・レア・トラックス』(日本フォノグラム/フィリップス PHCL-3032 CD 1992年11月26日)
- オリジナルアルバムに未収録だったシングルテイク(#1~6)に、最後のスタジオ録音「緊急電話」(#7)、更に1973年リリースのライブ盤でカセット盤のみに収録だった音源(#8~14)を1枚に収録。
- 『THE★BEST』(ユニバーサルJ、UMCK-4048、CD、2003年1月31日)
カバーアルバム編集
- 『TEN YEARS AGO』(矢沢永吉)(1985年)- セルフカバーアルバム
映像作品編集
ビデオ編集
発売日 | レーベル | 規格 | 規格品番 | 時間 | タイトル |
---|---|---|---|---|---|
1984年3月19日 | 日本フォノグラム | VHS | PV13-1 | 47分 | 燃えつきる キャロル・ラスト・ライブ
|
1984年4月13日 | ミュージック東京 | LD | 78L-1 | 47分 | |
1990年6月5日 | 日本フォノグラム | LD | PHLL-3801 | 47分 | |
1995年4月5日 | マーキュリー・ミュージックエンタテインメント | VHS | PHVL-2501 | 47分 | |
2003年1月22日 | ユニバーサルミュージック | DVD | UMBK-1524 | 52分 | |
2004年6月23日 | Kitty Mercury | DVD | UMBK-9542 | 52分 |
テレビ出演編集
- リブ・ヤング(1972年10月1日、フジテレビ)- テレビ初出演。
書籍及び楽譜編集
- キャロル『暴力青春 キャロル・最後の言葉』KKベストセラーズ、1975年。
映画編集
注釈編集
- ^ ジョニーの著書『キャロル 夜明け前』では、ジョニーは「誰がリーダーか取り決めはしてなかった。永ちゃんも、オレがリーダーだと自己主張することはなかった」「『リブ・ヤング!』に出演してプロとして契約する際に矢沢が交渉窓口として動いた時から、矢沢がリーダーだと認知された」[2]。「デビュー曲『ルイジアンナ』のレコーディング中に、コード進行の変更を提案したら、矢沢が『いいか、だれにもオレの曲はいじらせねえ。だれにもだ!』などと激怒し以降、自分も矢沢の機嫌をうかがい、気を遣わなければいけない立場になってしまった。他のメンバーも、矢沢の態度に大きなショックを受けた。この一件で矢沢のキャロルの中での立場が決定的なものになった」などと述べている[3]。
- ^ 若かったキャロルのメンバーが成功の夢を語り合ったのが、ジョニーの母親が営む川崎のスナック[19]。ジョニーをバンドに入れるため、ジョニーの母親に矢沢は「俺きっとでかくなるよ。ジョニーだって俺と同じ位才能あるし、ジョニーに金掴ませてみせるから!」と口説いたといわれる[20]。有名な「オレの夢は、ピッカピカのキャデラックに乗って、100メートル先のタバコ屋にハイライトを買いに行くことなんだ」は、当時から周りに吹いていた矢沢語録であった[21][22]。広島で苦労して育ち、「大金を掴んで社会に勝つんだ」と成功哲学を説く矢沢に対して、ジョニーは音楽が商売になるんてとても思えなかったという。何もないところから全部生み出すような強烈なエネルギー。「とても敵わないと思わせる強さが矢沢さんにはあった」とジョニーは話している[23]。
- ^ ジョニーは著書『キャロル 夜明け前』で、これを思いついたのはキャロル結成の直前。「ハンブルク時代のビートルズは、彼らが貧しく無名で、ただ情熱だけでひたすら突っ走った時期であり、同時にバンドとして脱皮し、その真価を発揮した時期でもある。この時期の彼らが発する張り裂けんばかりのエネルギーは、革ジャンにリーゼントというスタイルによって、見事に体現されていた。これだ、と思った」と書いている[29]。
- ^ 矢沢はキャロルのアマチュア時代には、他のメンバーにも自身のオリジナル曲を披露しようとしなかった。オリジナル曲を他のメンバーに聴かせたのはプロデビューが決まってからである。これはパクられるのを恐れたか、或いは実際には100曲はなく、ただのハッタリだったかは分からない。いずれにしろ、矢沢はこの頃から既に将来の成功戦略へプランを練っていたものと考えられる[32]。
- ^ ジュニー自身も「俺は半端だった。結構慎重派だから、色々まとめてからという思いがあったが、知らない間にキャロルが爆発してしまった」「そしたらやっぱり永ちゃんのド根性の方が強いよ、そりゃ」など、矢沢の強力なリーダーシップに付いていくしかなかったという内容の話をしている[20]。
- ^ 内田は「先生、僕らを男にして下さい」とキャロルから頼まれて、内田もそのつもりで根回しをやっていたら、ミッキーのプロデュースでレコード会社を決めたといわれ、もう一回ミーティングしたら「やっぱり先生とやらしていただきます」「わかった」となったが、また話が変わったので、オレが切れて「ナメんじゃねえ!」と矢沢をぶっ飛ばしたら、矢沢がパッと正座して「自分が悪いから、もう一発お願いします」と言ってきた、こいつはスターになると思ったと話している[46]。矢沢は嫌いじゃない。憎めないヤツと話す反面、吉田豪のインタビューでは、矢沢の批判ばかりしていたといい、現在も内田の話に矢沢がよく出てくるため、内田の矢沢への思いは、ジョニーの矢沢への思いと同様に愛憎半ばするものと考えられる[46][47][48]。矢沢の自伝『成りあがり』には内田の記述は全くない。いなかったことになっている。ジョニーの著書『キャロル 夜明け前」では、「内田の誘いはミッキーほど具体的でなかったらしい」と話し、矢沢とミッキー、内田との間にどのような話があったのか知らない様子である[42]。
- ^ 通常2年程度の専属契約をキャロルは4年でフィリップス(日本フォノグラム)と結ばされていて、キャロルメンバーは最低の印税率だった。キャロルが売れれば売れるほどレコード会社とミッキーにプロデュース印税が増えていく仕組みだった。キャロル解散後もこの契約が残り、フォノグラムから千数百万の違約金を請求され、矢沢は単身、CBSソニーに行って移籍の契約をまとめ、CBSソニーから借金をしてキャッシュでフォノグラムに違約金を払った[50]。「日本フォノグラムは、アーティストとしてオレの気持ちを無視してきた」[51]。「オリジナルアルバムは三枚しかないのに、キャロルの承諾もなしに曲順を変えて、タイトルを変えて、ジャケットを変えて、さもニューアルバムのように見せかけて新しいアルバムを作ってきた。そんなイカサマ商売をしてきた。何度も『イメージが悪くなるからやめてくれ』と言っても『おまえらにいわれる筋合いはない』と無視してきた。オレは日本フォノグラムは絶対に許さない」[52]などと矢沢は述べている。ジョニーは「どういう戦術かは俺には分からないが、矢沢がミッキーを解雇した」「矢沢は、いいかジョニー。こういうヤツは切った方がいいんだとよく言ってた。いっつも俺は首ひねってたね」「地方で矢沢と和田アキ子が言い合ってたこともあった」などと話している[53]。
- ^ 相原の落胆は酷く、これを聞かされたジョニー、内海は大人社会の冷淡さに耐え切れず、相原、ジョニー、内海の三人は新宿で一晩中飲み明かし、夜明けの路上で寝転がり、泣き、喚き、ヘドを吐いた[58]。
- ^ この放送で無かった「涙のテディー・ボーイ」「やりきれない気持ち」を追加した物が後にビデオとレーザーディスクで発売[84]。
- ^ 初の作詞曲は後に日本語に書き直したサードシングル「やりきれない気持ち」[117]。
- ^ 1974年龍村仁監督の映画『キャロル』にATGとともに製作に携わる[128]。
- ^ 1975年『ヤング・インパルス』(TVK)「ヒストリー・オブ・キャロル」での言及。
- ^ 龍村は『キャロル』プログラム・ブック「アートシアター」第110号(1974年6月22日発行)「映画『キャロル』演出ノート」、及び著書『キャロル闘争宣言』で、キャロルとの最初の衝撃を「はじめてキャロルを見て、全身の皮膚が一瞬に鳥肌だってくるのを覚えた。胸がドキドキしてじっと座っていられなくて、座席から立ち上がってウロウロした。体中に激しい怒りの感情がわきおこり手当たりしだいにブチ壊したい衝動に駆られた。恥ずかしいところだけど涙が出てきた。キャロルが去って、内田裕也が國学院応援団とともに登場したとき、私と同年輩の男・内田裕也の演奏を聞くにしのびない思いがして会場を出た」と記している[66][151]。「龍村は、キャロルよりずっと先輩の日本のロックンローラー内田裕也が、キャロルには(あるいは矢沢永吉には)なれないこと、なれなかったことを、瞬時に見てしまったのである、あるいは、そう直感させるものを、登場した瞬間にキャロルが示してしまったのである」と小野耕世は論じている[66]。
- ^ ミッキーは「昔、オレ達がやってた時は、楽器ひけるヤツも少なかったし、英語はメチャクチャ、かっこばかりのロックン・ローラーだったけど、キャロルは違うんだ。曲は全部自分達で書くし、楽器はやるし、何といってもリズムのノリが違うよ。日本もここまできたのかと正直、驚いているんだ」と小野耕世に話していたという[66]。
出典編集
- ^ PROFILE|矢沢永吉公式サイト|YAZAWA'S DOOR
- ^ #夜明け前、151-152頁
- ^ #夜明け前、170-174頁
- ^ a b c #対談集、181頁
- ^ “U-WEB | Biography” (日本語). 2020年3月4日閲覧。
- ^ “本日5月30日は、キャロル“第三の男”ウッチャンこと内海利勝の65歳の誕生日”. ニッポン放送 NEWS ONLINE. 2020年3月4日閲覧。
- ^ “ユウ岡崎プロフィール”. sound.jp. 2020年3月4日閲覧。
- ^ #夜明け前、182-183頁
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- ^ a b c d e f g h i j k l m n o #Hotwax、82-89頁
- ^ #夜明け前、72-76頁
- ^ a b #越谷、176-178頁
- ^ a b c #第2章、14-17頁
- ^ a b c #夜明け前、120頁
- ^ a b c #写真集、117頁
- ^ a b #三橋、189頁
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- ^ ジョニー大倉語った「永ちゃんへの思い」 - 日刊スポーツ
- ^ #AERA、70-71頁
- ^ a b c d e f g h i #吉田、107-119頁
- ^ #夜明け前、138頁
- ^ 矢沢永吉 | JUNGLELIFE、vol.21-3 矢沢永吉、今を生きる。 | Omosan Street オモサン 、ジェイヌード 140号 矢沢永吉 インタビューこれがラストでも後悔はしない、ほぼ日刊イトイ新聞 - お金のことを、あえて。~矢沢永吉×糸井重里、矢沢永吉 - 中尊寺ゆつこのこの人を見よ!
- ^ #AERA、70-71頁
- ^ a b c d e f g 再評価! ジョニー大倉の功績を考える 「演歌・歌謡曲」 All About、元キャロル達が創出した日本最初期のレゲエ・サウンド allabout
- ^ #夜明け前、96頁
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関連項目編集
- サディスティック・ミカ・バンド - 1974年に全国13カ所を回るツアーを合同で行ったロックバンド
- 1972年の音楽#デビュー - 同じ年にデビューした歌手