キンクス

イングランドのロックバンド

キンクス (英語: The Kinks) は、イギリスロックバンド。1964年に、ロンドン北部のマスウェル・ヒルレイデイヴのデイヴィス兄弟によって結成された。アメリカ合衆国ではブリティッシュ・インヴェイジョンのグループの一つとして分類され、当時のロック界に対して重要な影響を与えたバンドとして見なされる[1][2]

キンクス
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オリジナル・ラインナップ、1965年。左からピート・クウェイフ、デイヴ・デイヴィス、レイ・デイヴィス、ミック・エイヴォリー
基本情報
出身地 イングランドの旗 イングランド ロンドン
ジャンル
活動期間
レーベル
共同作業者
公式サイト キンクス 公式サイト
メンバー
旧メンバー

彼らの音楽は幅広いジャンルの音楽に影響を与え、その中にはR&Bミュージックホールフォークカントリー等が含まれる。レイ・デイヴィス(リードヴォーカル、リズムギター)、デイヴ・デイヴィス(リードギター、ヴォーカル)は32年に及ぶバンドの歴史に於いて一貫してメンバーであった。他のオリジナルメンバーはピート・クウェイフ(ベース、ヴォーカル)とミック・エイヴォリー(ドラムス、パーカッション)である。ジョン・ダルトン英語版が1969年にクウェイフに代わって加入、ボブ・ヘンリットがエイヴォリーに代わって1984年に加入した。ダルトンは1978年に脱退、代わってジム・ロッドフォードが加入した。ニッキー・ホプキンスは1960年代中盤のスタジオセッションに参加している。後に様々なキーボード奏者が参加したが、その中ではジョン・ゴスリングイアン・ギボンズがフルタイムメンバーとして参加した[1]

キンクスの最初のヒット曲は1964年のサードシングル、レイ作曲の「ユー・リアリー・ガット・ミー」であった[2][3]。同曲は世界的なヒットとなり、イギリスではチャート1位、アメリカではトップ10を達成した[3][4]。1960年代中盤から70年代初頭にかけてグループは、商業的には成功したものの批判も受けた一連のシングルとアルバムをリリースした。それらの曲およびコンセプト・アルバムイギリスの文化Culture of Englandおよびライフスタイルを強く反映し、レイの観察による作曲スタイルは評判が高まった[2]。『フェイス・トゥ・フェイス』、『サムシング・エルス』、『ヴィレッジ・グリーン』、『アーサー』、『ローラ対パワーマン』、『マスウェル・ヒルビリーズ』といったアルバム、及び一連のシングルは当時の最も影響力を持った作品群と考えられる[1][3][5]。キンクスのその後の演劇風コンセプト・アルバムは以前と比べ成功しなかったが、バンドは1970年代後半と1980年代初期の復活を経験した。ヴァン・ヘイレンザ・ジャムザ・ナックプリテンダーズといったバンドがキンクスの曲をカヴァーし、彼らのレコードセールスを促進した。1990年代にはブラーオアシスといったブリットポップバンドが彼らに大きく影響を受けたと語っている[1]。キンクスは1996年に解散した。原因は末期のアルバムの商業的失敗およびデイヴィス兄弟の作曲に関する緊張関係であった[6]

アメリカのビルボードチャート5作のシングルをトップ10に送り込んだ。また、アルバム9作がトップ40に入った[4]。イギリスでは17曲がトップ20シングルに入り、5作がトップ10アルバムとなった[7]。4つのアルバムがRIAAのゴールドアルバムとなる。数々の栄誉から「イギリス音楽界に対する顕著な功績」を与えたことでアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞した[8]。1990年にはロックの殿堂入り[2][3]、2005年11月にはイギリス音楽の殿堂入りを果たした。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第65位。

2018年、再結成が発表された。しかし2018年8月現在、メンバーの一人であるデイヴ・デイヴィスが雑誌のインタビューで否定はしなかったものの、肯定もしなかった発言をしており、再結成が確定している事ではないのでこの情報には注意が必要である。

歴史編集

結成 (1962年-1963年)編集

 
デイヴィス兄弟が幼少時に暮らした家

デイヴィス兄弟はロンドン北部郊外のイースト・フィンチリーに生まれる。一家の8人の子どもの中で下からの2人の男の子で、上の6人は女の子であった[9]。父親のフレデリック・デイヴィスおよび母親のアニーはまもなくマスウェル・ヒルに隣接する郊外地、フォーティス・グリーンのデンマーク・テラス6番地に転居する[10]。兄弟は両親の世代が親しんだミュージックホールジャズ、姉たちが楽しんだ初期のロックンロールまで様々な音楽に没頭することとなった[10]。特に彼らの家のフロントルームで行われた、徹夜のパーティは兄弟に深い印象を与えた。トーマス・キットは「これらのパーティはキンクスに非常に影響を与えている。ステージでのレイは、カオスやビール、歌があった土曜の夜のファミリーパーティを再現しようとしているように見えた。」と記している[11]。レイは3歳年下のデイヴとギターの演奏を学び、共にスキッフルやロックンロールを演奏した[9]

兄弟はウィリアム・グリムショー・セカンダリー・モダンスクール(後にトーリントン・グラマースクールと合併しフォーティスメア・スクールとなる)に入学し、そこでレイの友人ピート・クウェイフ、クウェイフの友人ジョン・スタートと共にレイ・デイヴィス・カルテットを結成する。(彼らはベーシストのピートが、ギグをレイの代わりに上演した場合はピート・クウェイフ・カルテットと名乗った)バンドは学校のダンス会でデビュー、好評を博し、そのことに勇気づけられてパブやバーでの演奏を始めた。バンドでは何人もヴォーカリストが交代したが、その中で最も有名になったのはロッド・スチュワートである[12]。スチュワートはグリムショーの生徒であり[13]、1962年初頭に少なくとも1度は演奏に加わっている[14]。スチュワートはまもなく自身のグループ、ロッド・スチュワート・アンド・ザ・ムーンレイカーズを結成し、地元におけるレイ・デイヴィス・カルテットのライバルとなった[12][14]

1962年末にレイは自宅を離れ、ホーンジー・カレッジ・オブ・アートに入学する。彼は映画、美術、演劇、さらにジャズやブルースなどの音楽に対しても関心をもって追求した。12月にアレクシス・コーナー率いるブルース・インコーポレイテッドが学校で演奏を行った時、レイはアレクシス・コーナーにアドバイスを求めた。彼はレイにヤードバーズの前任マネージャーだったジョルジオ・ゴメルスキーを推薦した。こうしてレイはソーホーを拠点としてジャズやリズム・アンド・ブルースを演奏したプロのバンド、デイヴ・ハント・バンドに加わった。[15][16]。数日後の大晦日、レイ・デイヴィス・カルテットはライセウム劇場で、ヴァイオリニストのシリル・ステイプルトンのサポートとして演奏した。彼はレイ・デイヴィス・カルテットに残りながら、チャーリー・ワッツが一時的にドラムとして加入していた、デイブ・ハント・バンドにも参加した。

1963年2月、レイはピーター・バーデンスがピアニストとして在籍していたハミルトン・キング・バンドに入るためにデイブ・ハント・バンドを脱退した。春期の終わりに彼はホーンジー・カレッジ・オブ・アートを去り、公立美術学校のセントラルスクール・オブ・アートアンド・デザインに映画を勉強するために入学した。この頃、彼らは名前をラムロッズに変えた。レイは1963年のバレンタインデーにホーンジータウンホールで行われた、まだ駆け出しの頃のキンクス(レイ・デイヴィス・カルテット)の大切な最初のギグについて言及している。その後、ハミルトン・キング・バンドは解散したがラムロッズは活動を続け、ボー・ウィーヴィルズなどに名称を変え、最終的にレイヴンズに落ち着いた[15][3][17]

結成間もないグループはマネージャー2名、グレンヴィル・コリンズとロバート・ウェイスを雇い、1963年後半には元歌手のラリー・ペイジを3人目として雇った。アメリカ人のレコードプロデューサー、シェル・タルミーが共に働くようになり、ビートルズのプロモーター、アーサー・ハウズがレイヴンズのショーのスケジュールを管理するために残された。[18]。バンドは1964年初めまで様々なレーベルのオーディションに失敗したが、タルミーがパイとの契約をとりまとめた。この期間に彼らは新たなドラマー、ミッキー・ウィレットを加入させたが、ウィレットはバンドがパイとの契約にサインする前に脱退した[17]。レイヴンズはメロディー・メーカー誌に掲載されたミック・エイヴォリーの広告を見て、彼をウィレットの後任として招き入れた[19]。エイヴォリーはジャズ出身のドラマーで、結成間もないローリング・ストーンズとのステージを1度経験していた[19]

この頃、バンドは名前をザ・キンクスに変えることを決めた。その由来については様々な説がある。ジョン・サヴェージ英語版は「彼らは注目を集めるための何かが必要だった。それが『キンキネス Kinkiness』-変態という意味のキンクスは話題に富んでいていたずらな名前だが、許容できるものだった。彼らはキンクスを名前に採用した時、暴挙を通して有名になるという、昔からのポップスの習慣に沿っていた。」と分析している[20]。マネージャーのロバート・ウェイスは「私の友人はレイ達のバンドが、かなり面白いと思っていた。私の記憶が正しければ、彼はバンドをアピールするのに、良い名前を思いついた。私たちがバンドのメンバーにその名前を伝えた時、彼らは完全にぞっとして、『僕たちは変態だとは呼ばれたくない。』と言った。」と語っている[20]。ただレイとウェイスでは見解が異なっている。レイはラリー・ペイジが、「君たちの見た目、着ている服から『キンクス』と呼ばれるべきだ。」と語り、彼らの変なファッション感覚から思いついたとしている。[20]。またレイは「僕はその名前を本当に好きだと思ったことは一度も無い。」と述べている[20]

初期(1964年-1966年)編集

キンクスのデビューシングルはリトル・リチャードのカヴァー「のっぽのサリー」であった。バンドの友人であったボビー・グラハム[21]が、ドラムをレコーディングでプレイしている。彼はその後も時折エイヴォリーの代役としてスタジオでの録音に参加し、初期の「ユー・リアリー・ガット・ミー」や「オール・オブ・ザ・ナイト」、「ウェイティング・フォー・ユー」などのシングル数枚にそのプレイが収められている[22]。「のっぽのサリー」は1964年2月にリリースされたが、マネージャーによる広告の努力にも関わらず、全くヒットすることは無かった。セカンドシングル「ユー・スティル・ウォント・ミー」はチャート落ちし[23]、パイは3枚目のシングルがヒットしなかったら契約を破棄すると脅かした。

1964年6月15日、パイのスタジオでレイはアメリカのブルースやキングスメンの「ルイ・ルイ」に影響され、「ユー・リアリー・ガット・ミー」をレコーディングした。しかし最終的にリリースされるテイクより、テンポも遅く、満足のいかない物だった。レイは無駄のないセッションで再録音を要求したが、パイはこのセッションへの資金提供を拒否した。だが彼は譲らなかったので、プロデューサーのタルミー自身がこのセッションを引き受けることにした。バンドはIBCスタジオで、7月15日に2つのテイクを録音した。こうして8月に「ユー・リアリー・ガット・ミー」はリリースされた[24]レディ・ステディ・ゴーでの演奏や、広範囲な海賊ラジオの放送で8月15日にはチャート入りし、9月19日に全英No.1を獲得した[25]。急いでリプリーズ・レコードよりアメリカでリリースされ、アメリカでもトップ10のヒットとなる[4]。ディストーションの効いたギターリフは、デイヴによって彼のエルピコ・アンプ(バンドは「小さな緑のアンプ」と言及している)の傷つけられたスピーカー・コーンから発せられ、荒々しいギターサウンドを印象づけた[26]。「ユー・リアリー・ガット・ミー」はアメリカのガレージロックシーンに大きな影響を与え、「ハードロックヘビーメタルの設計図となった曲」と言われた[26]。同曲のリリース後まもなく彼らはデビューアルバムとなる『キンクス』用の曲を録音した。カヴァー曲とアレンジされたトラディショナルな歌が多数収められたデビューアルバムは1964年10月2日にリリースされ、イギリスでチャート4位を達成した[27]。3週間後にオリジナルでハードな「オール・オブ・ザ・ナイト」が、フォースシングルとしてリリースされ、イギリスで2位[25]、アメリカで7位を獲得した[4][26]。次のシングル「セット・ミー・フリー」「ウェイティング・フォー・ユー」もヒットし、後者はイギリスのシングルチャートで1位を獲得した[4][25]


 
キンクス、1965年スウェーデンツアーで

1965年4月、キンクスは初のオーストラリアニュージーランドツアーをパッケージツアーの一部として行った。同行ミュージシャンはマンフレッド・マンハニカムズであった[28]。徹底的な演奏スケジュールが組まれ、年間を通して様々なパッケージツアーを行いヤードバーズやミッキー・フィンといったミュージシャンと共にヘッドラインを飾った[29]。5月19日、カーディフのキャピトル・シアターでのステージでデイヴとミックが乱闘騒ぎを起こし、バンドに緊張が走った[29][30]。一曲目の「ユー・リアリー・ガット・ミー」が終了すると、デイヴがミックを侮辱し、ドラムセットを蹴り倒した[29][30]。ミックはこれに応じてハイハットのスタンドでデイヴを殴って意識不明にした。彼はデイヴを殺してしまったと思い、現場から逃走した。デイヴはカーディフ王立病院に運び込まれ、頭を16針縫うこととなった[29][30]。ミックは後に警察に釈明するため、バンドのメンバーがお互いに楽器を投げつける新しいパフォーマンスを行った際のトラブルであったと主張した[29][30]。年央に行われたアメリカツアーの後、米国音楽家連盟は続く4年間にわたってキンクスがアメリカで演奏活動を行う許可を与えないこととした。事実上、ブリティッシュ・インヴェイジョンが最高潮に達する中、ロックの主要市場からキンクスは断ち切られることとなった[1][31]。キンクスも音楽家連盟も演奏禁止の理由を明かさなかったが、当時それは彼らがステージ上で粗暴な振る舞いを続けた結果と考えられた[31]。1965年、ディック・クラークの「ホエア・ジ・アクション・イズ」の収録が、アメリカでの演奏禁止を招いたともされている。レイは自伝で次のように回想している。「僕たちはディック・クラークから『ビートルズの後追いに過ぎない』と非難された。それから彼はブリティッシュ・インヴェイジョンに対して『ビートルズが成功したのをいいことに、イギリスのマッシュルームカットでニキビ顔の少年達が、アメリカでキャリアを積むことができると思っている。』と言って批判した。」このような口撃を受けて、AMFは彼らをアメリカから追い出した。

バンドはオーストラリアおよびアジアツアーの間にインドボンベイに立ち寄った。レイはそのときの体験を元に「シー・マイ・フレンズ」を書き、同曲は1965年7月にシングルとしてリリースされた[32]。これは初期のクロスオーバーの一例で、インドの伝統音楽の影響を受けた最初のポップソングの1つだった[32]。レイは自叙伝『エックス・レイ』において、早朝の散歩の間に地元の漁師の歌を聴き、それが「シー・マイ・フレンズ」を書くきっかけとなったと語っている。

僕は起きて浜に行き、地元の漁師がやって来たのを覚えている。遠くで聞こえていた漁師の詠唱が徐々に近づいてきて、網を運んでくる様子を見ることができた。僕はオーストラリアに着くと多くの曲を書き、シー・マイ・フレンズはその一つだった。[32]

音楽史家ジョナサン・ベルマンは、「シー・マイ・フレンズ」が同時代のミュージシャンに「大きな影響を与えた」と主張する。またビートルズの「ノルウェーの森」がポップソングとして、初めてシタールが使用された曲であったが、キンクスの「シー・マイ・フレンズ」がリリースされた後に録音された。」とも書いている[32]ザ・フーピート・タウンゼントも影響を受けたと言及し、「『シー・マイ・フレンズ』を聴いた時、『神よ、彼がまたやった。新しい物を発明した。』と思った。最初の合理的な持続低音の使用例であり、ビートルズがやったよりはるかに早く、はるかに良かった。それは東洋のサウンドというよりもヨーロッパのサウンドだった。しかし、力強く、正当な東洋の影響を受け、ヨーロッパの民族音楽をルーツに持つものだった。」と書いた。[33]1960年代にキンクスやビートルズ、ザ・フーと友人関係にあったバリー・ファントーニは「私は『シー・マイ・フレンド』を鮮やかに覚えていて、注目に値するポップスだと思う。夜、ビートルズのメンバーと共に、グラモフォンの周りでダラダラとこの曲を聴いた。『このギターはシタールのように聞こえる、そこからアイデアを得ないといけない。』って話しながらね。」と言っている。[34][32]それまでのポップスから急激に離れた「シー・マイ・フレンド」はアメリカでは不評であることが判明し、イギリスでは11位を達成したが、アメリカでは111位と失速した。[35]

「60年代にR&Bスタイルと呼ばれる、荒々しいサウンドを持ったバンドはほんの少ししかなかった。ヤードバーズ、僕たちキンクス、プリティ・シングスもそうだった。」[36]
-デイヴ・デイヴィス、オースティン・クロニクルとのインタビュー

セカンドアルバム『カインダ・キンクス』のレコーディングはアジアツアーからの帰国後翌日から即座に始まった。同作12曲中の10曲はオリジナルであり、2週間以内にリリースされた。[37][38][39]。レイによると、バンドは最終的なカットに完全に満足したわけでは無かったが[38][39]、レコード会社からの圧力により、ミックスにおける欠点を修正するための時間は無かった。レイは後に「もっと注意を払うべきだった。プロデューサーのシェル・タルミーは荒々しいエッジを維持しようとして、あまりにも行きすぎていたと思う。ファーストアルバムよりは良い曲があったが、もっといい物にできたと思う。」と不満を表現した[39]

重要なスタイルの変化は1965年後半の「ウェル・リスペクテッド・マン」、「キザな奴」といったシングル、サードアルバム『キンク・コントラヴァーシー[2]で明らかになった。セッション・ミュージシャンニッキー・ホプキンスが初めてキーボードで参加した[40]。これらの作品は、レイの作曲スタイルの進化を示すものであった。ハードなロックナンバーから、社会風刺に富み観察と特有の人物描写がされ全てにユニークなイギリスの風味がまぶされた作品群であった[2][5]。皮肉がちりばめられた「サニー・アフタヌーン」は1966年夏のイギリスにおける最大ヒットとなり、ビートルズの「ペイパーバック・ライター」に代わってチャート1位を獲得した[41]。「キンク・コントロヴァーシー」リリース前、レイはツアーと作曲のプレッシャー、進行中の法廷闘争による神経症に苦しめられた[42]。休養回復の間に彼は幾つかの新曲を書き、バンドの方向性を熟考した[42]。クウェイフは交通事故に遭遇し[42]、回復後は1966年の活動から退くことを決定した。ジョン・ダルトン英語版が代役として加入し、クウェイフが復帰する年末まで活動した[1]

「サニー・アフタヌーン」はアルバム『フェイス・トゥ・フェイス 』のための先行試験作であり、レイの人々と日常生活に対する優しいながらも鋭い観察眼による作曲能力の向上が顕著に示された[1]。ニッキー・ホプキンスがセッションに復帰、様々な鍵盤楽器を担当し、その中にはハープシコードも含まれた。彼は続く2作にも参加し、BBCでのライブ演奏にも参加、その後1968年にジェフ・ベック・グループに加わった。[42]『フェイス・トゥ・フェイス』はイギリスで1966年10月にリリース、好意的に受け取られ8位を獲得した。アメリカでは12月にリリース、ビルボード誌では潜在的な「チャート・ウィナー」であると評されたが[43]、135位に達しただけで、アメリカ市場でのバンドの人気低落の兆候が示された[44]。続くシングル「危険な街角」は社会批判作であり、1966年11月にリリースされ[43]イギリスではトップ10に入るヒット作となったものの[45]、アメリカでは73位にしか達しなかった[4]。メロディ・メイカー誌のボブ・ドウバーンはレイの作曲能力を「いくつかの素晴らしい歌詞と驚くべきメロディ...が組み合わされ偉大な作品が造られた」と賞賛した[46]。評論家のジョニー・ローガンは「ドラマ無き

キッチン・シンク・ドラマ、労働者階級の禁欲主義の静的な展望」と評した[45]。この曲にはバンドの初のプロモーションフィルムが製作された。フィルムはロンドン北部、ケンティッシュ・タウン英語版のハイゲート・ロードに位置する18世紀からの小さな通り、リトル・グリーン・ストリートで撮影された[47]

最盛期 (1967年-1972年)編集

続くシングル「ウォータールー・サンセット」は1967年5月にリリースされた。歌詞は物憂げな観察者が、ウォータールー駅で出会った一組の恋人達を眺めている様子を描写している[48][49]。この曲は当時の映画俳優、テレンス・スタンプジュリー・クリスティのロマンスにインスパイアされたものだと噂された[50][51][52]。レイは自叙伝の中でこれを否定し、2008年のインタビューでは「それはボーイフレンドと共に新世界へ旅立つ僕の姉に関するファンタジーで、彼女らは他国に海外移住するつもりだった。[49][53]」と語っている。複雑なアレンジメントにもかかわらず、「ウォータールー・サンセット」のセッションはほんの10時間で完了した[54]。デイヴは後に「僕らは違ったギターの音を得るために、もっと面白いフィーリングを得るためにたくさんの時間を費やした。結局僕らはテープ・ディレイによるエコーを使ったが、1950年代以来誰もそれを使用していなかったから、それは新しく聴こえた。僕はスモール・フェイセススティーヴ・マリオットがやってきてどうやってその音を得たのか尋ねたのか覚えている。僕らはしばらくトレンディになったのさ。[55]」と語っている。この曲はキンクスのイギリスにおける最大ヒット(メロディ・メイカーで2位)の一つであり[50]、彼らの最も人気が高くよく知られた曲となった。音楽ジャーナリストのロバート・クリストゴー英語版はこの曲を「最も美しい英語の歌」と呼んだ[56]オールミュージックの編集長、スティーヴン・トーマス・アールワインは「おそらくロックンロール時代の最も美しい歌」にこの曲を挙げた[57]

 
オランダのテレビ局で、1967年4月。レイ・デイヴィスはフェンダーのアコースティックギターを使用している。デイヴ・デイヴィスはギブソン・フライングVの試作モデル、シグネチャーモデルを使用している。[58]

1967年のアルバム『サムシング・エルス』収録曲は『フェイス・トゥ・フェイス』に比べると音楽的に発展し、バンドのサウンドにはミュージックホールの影響が見られるようになった[59]。デイヴは収録曲「道化師の死」でイギリスにおけるチャート上の成功を得た。同曲はレイとの共作でキンクスと共に録音したが、デイヴのソロシングルとしてリリースされた[4][59]。しかしながら全体的に見て、アルバムの売り上げは期待外れであり、ニューシングル「オータム・オルマナック」のリリースが急がれることとなり、10月前半にリリースされた。「ミスター・プレザント」に次いでリリースされた「オータム・オルマナック」はすぐにトップ5のヒットとなった。アンディ・ミラーは成功したにもかかわらず、同シングルはバンドの経歴における転機になったと指摘する。同曲は続く3年間における最後のイギリスでのトップ10ヒットであった。「振り返ってみれば、『オータム・オルマナック』はキンクスの問題の最初のヒントを示していた。この荘厳なシングル - イギリスの60年代ポップスの最大級の実績の一つ - は、以前のデイヴィスの作品と同様すぎると当時広く批評された。[60]」メロディ・メイカー誌のニック・ジョーンズは「これはレイが灰色の郊外居住者が営む彼らのかなり理知的な毎日の生活に関する曲を書くのをやめた時なのか?...レイはフィーリングではなく公式で作曲している。そして、かなり退屈になっている。」と尋ねた[60]。DJのマイク・アハーンはこの曲を「たくさんの古いゴミ」と呼んだ[60]。デイヴの第2弾ソロシングル『スザンナズ・スティル・アライヴ』は11月24日にイギリスでリリースされた。売り上げは控えめに見ても59,000枚であったが、トップ10に達しなかった。ミラーは「年末までにキンクスは急速にファッションから取り残されていった。」と述べた[61]

「『ワンダーボーイ』がヒットシングルのようには聞こえなかったので、皆は慌てていた。マネージャーとエージェントのダニー・デテッシュの間には、バンドはもう長くないという感覚が確実にあった。...レコードが飛んでいるバックステージにやってきたダニーは『さて、君らはよくやってきた。よく楽しんでるよ。』と言った。まるで僕らにとってそれが終わっているかのように。」[62]
-レイ・デイヴィス、1960年代のバンドの人気低落時、『ワンダーボーイ』とキャバレー・ツアー

1968年早くからバンドはライヴツアーを取りやめ、代わりにスタジオでのレコーディングに焦点を合わせた。バンドには自らの作品をプロモートする材料がほとんど無く、その後のリリースはほとんど成功しなかった[63]。次のシングル『ワンダーボーイ』は1968年の春にリリースされたが、36位で失速し、バンドにとってイギリスでトップ20に達しなかった最初のシングルとなった[64]。それにもかかわらず、ビートルズジョン・レノンはこの曲をお気に入りとした[65]。レイによれば「誰かがクラブでジョン・レノンを見かけ、DJに『ワンダーボーイ』をかけ続けるよう頼み続けた。[66]」しかしながらバンド自身のこの曲に対する評価は低い。ピート・クウェイフは後に「(僕は)それが嫌いだった...それはものすごかった。[65]」キンクスの人気低下に直面しながらも、レイは商業的ヒットを起こし続けるための莫大に需要に反する、自身の深く個人的な作詞作曲スタイルを追求し続け、バンドはレイが「ヴィレッジ・グリーン」と呼ぶゆっくり展開しているプロジェクトに集中し、スタジオに時間をささげ続けていた[1]。バンドの商業的地位を回復させる試みとしてマネージャーは4月に一ヶ月間のパッケージツアーを企画し、スタジオからバンドを引き出そうとした。会場は主にキャバレーとクラブであった。ヘッドライナーはピーター・フランプトンのバンド、ハードであった。「一般的に、ティーニーボッパー英語版達は古くて退屈なキンクスを見に来たのでは無く、彼女らは我慢しながら『ウィー・ウォント・ザ・ハード!』のコールを、キンクスの短い演奏時間中に続けていた。[67]」とアンディ・ミラーは論評した。ツアーは過酷でストレスの多いものであった。ピート・クウェイフは「それは非常に無味乾燥で、退屈で単純な雑役だった。...僕らは20分だけの演奏時間であったが、ステージに立って3連符を何度も何度も演奏し、それは僕を半狂乱にした。」と回想している[67]。6月末にキンクスはシングル「デイズ」をリリースし、つかの間の復活を果たした。レイは「僕はその曲をフォーティス・グリーンで最初に演奏し、それを録音したのを覚えている。」と語っている。「僕はローディーのブライアンと、彼の奥さん、2人の娘とそれを演奏した。彼らは曲の終わりで泣いていた。ウォータールーに行って日没を見たように本当に素晴らしかった。...それはさよならを誰かに言って、次に実際に孤独になったことを恐れに感じているようだ。[62]」「デイズ」はイギリスで12位に達し、数カ国でトップ20のヒットとなったが、アメリカではチャートインしなかった[68]

「ヴィレッジ・グリーン」は結局、1968年後半に『ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサエティ』としてイギリスでリリースされた。イギリスの町と村落生活をテーマとした描写の収集であり、それは2年前から作られ録音された曲からなった[69]。それはイギリスとアメリカのロック評論家からほとんど満場一致で高い評価を受けてレビューが紹介されたが、売り上げはそれほど伸びなかった[70]。アルバムの初期の商業的失敗の原因の一つは、人気のあるシングルが不足していたことであった[71]。本作にはある程度の成功を収めていた「デイズ」は収録されなかった。「スターストラック」は北米およびヨーロッパでリリースされたが、成功しなかった[72][73]。商業的には失敗した『ヴィレッジ・グリーン』(本作のタイトルは結局長かったため、オリジナルのプロジェクト名が短縮された名称として使用されるようになった)であったが、1969年1月にアメリカでリリースされるとアンダーグラウンドのロック雑誌には受け入れられ、キンクスはカルト的バンドとしての人気が高まることとなった[74]。「ヴィレッジ・ヴォイス」紙の新編集長ロバート・クリストゴーは「今までのところの年間最優秀アルバム」と本作を評した[74]ボストンの「フュージョン」紙は「キンクスは困難、悪意を持つプレスとそれらに示された多くにもかかわらず、伝わり続ける。...彼らの粘り強さは威厳があり、その禁欲は美徳である。キンクスは今だけ現代のドレスをまとい、永遠である。」というレビューを掲載した[74]。しかしながら、本作も批判から逃れることはできなかった。学生新聞「カリフォルニア・テック」紙ではあるライターが「感傷的なロック...想像力に欠け不十分にアレンジされた、ビートルズの貧しいコピー」と論評した[74]。本作はリリース当初、世界中での売り上げは僅か約100,000枚であったが、その後キンクスのベストセラーアルバムの最初の一枚となった[70]。本作は現在も高い人気を維持し、2004年には3枚組のデラックス版が再リリースされた。収録曲の一つ「絵本」はヒューレット・パッカードのCMに採用され、本作の人気を高めるのに貢献した[75]

 
新加入したジョン・ダルトンと、1969年。左から:デイヴ・デイヴィス、レイ・デイヴィス、ダルトン、ミック・エイヴォリー

1969年前半、クウェイフはバンドに脱退を告げた[76]。他のメンバーは彼の言葉を真剣に受け止めなかったが、クウェイフがキンクスのメンバーに告げずに結成した新バンド「メイプル・オーク」の記事が「ニュー・ミュージカル・エクスプレス」紙の4月4日号に掲載された[76][77][78]。レイは次作のセッションのために戻ってくれるようクウェイフに嘆願したが、彼はそれを拒絶した[79]。レイは直ちにジョン・ダルトンを呼び出した。ダルトンは過去にクウェイフの代理を務めたことがあった。ダルトンは1977年の『スリープウォーカー』リリースまでバンドと共に活動した[79]

1970年、「ローラ」がヨーロッパ各国で大ヒットする。

後期 (1973年-1983年)編集

1973年、レイ・デイヴィスは、ロックンロールの保存、社会革命のクロニクル、そして以前のビレッジ・グリーン・プリザベーション・ソサエティの発展形から始まって、劇場的ロックの様式を飛躍させることに努めた。プリザベーション・プロジェクトに関連して、キンクスのラインナップは、ホーンセクションと女性バック・コーラス歌手を含めて、劇場・オペラ的ロック・バンドとして再構成された。

レイ・デイヴィスの夫婦問題は、この時期にバンドに悪影響を及ぼし始めたが、特に妻のラサが1973年6月に子供を連れて彼から去り、デイヴィスは落ち込んだ。キンクスホワイトシティ・スタジアムで7月に開催された演奏会を開催した。70年代後半のパンク・ブームに押されたキンクスは78年にロウ・バジェットを発表し、カムバックした。さらに83年には「カム・ダンシング」を発表し、同曲はアメリカでもヒットした。


メンバー編集

名前 担当楽器 在籍期間
現メンバー
レイ・デイヴィス
英語: Ray Davies
ボーカル
リズムギター
キーボード
ハーモニカ
1964年 - 1997年
2018年 -
デイヴ・デイヴィス
英語: Ray Davies
リードギター
ボーカル
キーボード
1964年 - 1997年
2018年 -
旧メンバー
ミック・エイヴォリー
英語: Mick Avory
ドラムス
パーカッション
1964年 - 1984年
ピート・クウェイフ
英語: Pete Quaife
ベース
コーラス
1964年 - 1966年
1966年 - 1969年
ジョン・ダルトン
英語: John Dalton
ベース
コーラス
1966年
1969年 - 1976年
アンディ・パイル
英語: Andy Pyle
ベース 1976年 - 1978年
ジム・ロッドフォード
英語: Jim Rodford
ベース
コーラス
1978年 - 1997年
ジョン・ゴスリング
英語: John Gosling
キーボード
ピアノ
コーラス
1971年 - 1978年
ゴードン・エドワーズ
英語: Gordon Edwards
キーボード
ピアノ
コーラス
1978年 - 1979年
イアン・ギボンズ
英語: Ian Gibbons
キーボード
ピアノ
コーラス
1979年 - 1989年
1993年 - 1997年
ボブ・ヘンリット
英語: Bob Henrit
ドラムス
パーカッション
1984年 - 1996年
マーク・ヘイリー
英語: Mark Haley
キーボード
ピアノ
コーラス
1989年 - 1993年

ディスコグラフィ編集

スタジオ・アルバム編集

日本公演編集

脚注編集

[脚注の使い方]
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参考文献編集

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  • Weisbard, Eric (2004). This is Pop: In Search of the Elusive at Experience Music Project. Milwaukee, WI: Harvard University Press. ISBN 0-674-01321-2 

関連項目編集

外部リンク編集