ギド・ブッフバルト
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ギド・ウルリッヒ・ブッフバルト(Guido Ulrich Buchwald、1961年1月24日- )は、ドイツ出身のサッカー指導者、元サッカー選手。
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2012年のブッフバルト | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
ギド・ウルリッヒ・ブッフバルト Guido Ulrich Buchwald | |||||
愛称 | ギド | |||||
ラテン文字 | Guido Buchwald | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1961年1月24日(58歳) | |||||
出身地 | 西ベルリン | |||||
身長 | 188cm | |||||
体重 | 88kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1969-1977 |
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1977-1978 |
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1978-1979 |
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クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1978-1983 |
![]() | 146 | (18) | |||
1983-1994 |
![]() ![]() | 325 | (28) | |||
1994-1997 |
![]() | 127 | (11) | |||
1997-1999 |
![]() | 40 | (3) | |||
代表歴 | ||||||
1980 |
![]() | 1 | (0) | |||
1983-1984 |
![]() | 9 | (1) | |||
1984-1994 |
![]() ![]() | 76 | (4) | |||
監督歴 | ||||||
2004-2006 |
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2007 |
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2012 |
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
経歴編集
1978年シュトゥットガルト・キッカーズに入団、旧西ドイツ代表ユースに選出。1983-1984シーズンにドイツ・ブンデスリーガ・VfBシュトゥットガルトでデビュー。このシーズン、34試合に出場してリーグ優勝に貢献し、1993-1994シーズンまで同クラブに在籍。
西ドイツ代表デビューは1984年5月22日。代表通算76試合に出場、4得点。ちなみに、キッカーズ時代のポジションはFWであった。このためか、後の浦和時代にも、機を見ては前線へ上がりシュートを放つシーンが何度も見られた。
大柄な選手の多いドイツ代表においてもひときわ屈強な選手で、クラブ・代表ではディフェンダーとして活躍した。1986年のFIFAワールドカップ・メキシコ大会では直前で代表から外され悔しい思いをしたが、1990年のイタリア大会の決勝戦ではアルゼンチンのディエゴ・マラドーナを完封。西ドイツの3度目の優勝に貢献した。この時のチームメイトでシュトゥットガルトでも同僚だったユルゲン・クリンスマン(前ドイツ代表監督)とは、無二の親友である[1]。
1994年のFIFAワールドカップアメリカ大会を最後にドイツ代表を引退し、来日。Jリーグ・浦和レッズで1994年から1997年の3年半の間プレーした。浦和ではディフェンスの要として活躍。「ゲルマン魂」をそのまま体現する闘志むき出しのプレイスタイルはチームに大きな刺激を与え、それまで弱小クラブだった浦和を底上げし、サポーターから敬愛された。1995年・1996年には2年連続でJリーグベストイレブンに選出されている。1997年10月15日、浦和駒場スタジアムで行われた退団セレモニーでは、白馬に乗って場内を回った。
1997年-1998年シーズンのブンデスリーガ・カールスルーエSCを最後に現役を引退。引退後はシュトゥットガルト・キッカーズのスタッフとなる。
日本を「第二の故郷」と呼ぶブッフバルトは、選手・監督として浦和レッズの歴史に偉大な足跡を残した。2002年から浦和レッズのテクニカル・アドバイザー、そして2004年から監督に就任。第2ステージでは監督就任1年目にして、チームを初のステージ優勝に導いた。2005年のシーズンでは苦しいチーム状況の中リーグ戦では2位、そして第85回天皇杯優勝という成果を残した。
翌2006年、リーグチャンピオンの座を賭けた最終戦(34節)はホーム埼玉スタジアム2002で2位ガンバ大阪を迎え撃つ形となり、その直接対決で浦和レッズが3-2で勝利を収め、悲願のリーグ制覇を決めた。(浦和レッズが自身初めての監督経験であったがヘッドコーチのエンゲルスとの二人三脚での指揮が3年目にして実を結んだものと言える。)しかしながら、家庭の事情を理由にこの年限りで浦和監督を退任すると発表(なおこの優勝はJリーガー出身の監督としても初のリーグ優勝であった)。彩の国功労賞を受賞。2007年1月1日の天皇杯連覇を置き土産にし、ドイツへ帰国した。
2007年6月、ブンデスリーガ2部のアレマニア・アーヘンの監督に就任。契約期間は2年だったが、成績は中位に甘んじ、経営陣から采配への不満の声やチームを統率できていないとの批判の声があがり、その年の11月、わずか半年も経たずに解任された。
退団後の2008年は浦和レッズとの交流を続け、再び2009年度からのテクニカル・アドバイザー就任も内定していたが、クラブがフィンケ新監督招聘を彼に相談なく決めたことや、複数年契約中だったエンゲルス前監督を社長の独断で更迭したことに対してブッフバルトが激怒。結果、浦和レッズとは喧嘩別れする形となった[2][3]。 本人は日本のマスコミに対して「Jクラブから監督就任の話があったが浦和との義理から断った。だが今後は分からない」との恨み節も残している[4]。
一時はかつて所属していた浦和とは疎遠になり、日本サッカー協会とアドバイザー契約を交わし、2011 FIFA女子ワールドカップに出場するサッカー日本女子代表のキャンプ地選定に関わったり、安藤梢の女子ブンデス・リーガ移籍の橋渡し役を務めるなど、日本サッカー界に貢献する働きが主になっていた。しかし近年では2012年7月15日に浦和駒場スタジアムのリニューアルイベントで行われた試合に浦和OBチームのメンバーとして参加[5]、2014年には元同僚山田暢久の引退試合にレッズ歴代選抜チームの監督して参加、またレッズのAFCチャンピオンズリーグの試合を観戦しに訪日するなど再び親交を深めている模様である。
ブンデスリーガ、試合の分析、解説など生放送にてゲスト出演。
所属クラブ編集
現役時代編集
- 1969年 - 1977年 SVヴァンヴァイル(西ドイツ)
- 1977年 - 1978年 TSVプリーツハウゼン(西ドイツ)
- 1978年 - 1983年 シュトゥットガルト・キッカーズ(西ドイツ)
- 1983年 - 1994年 VfBシュトゥットガルト(西ドイツ・ドイツ)
- 1994年7月 - 1997年10月 浦和レッドダイヤモンズ(日本)
- 1998年 - 1999年 カールスルーエSC(ドイツ)
指導者時代編集
- 1999年 - 2001年 シュトゥットガルト・キッカーズ スタッフ
- 2002年 - 2003年 浦和レッドダイヤモンズ テクニカル・アドバイザー
- 2004年 - 2006年 浦和レッドダイヤモンズ 監督
- 2007年 - 同年11月 アレマニア・アーヘン 監督
- 2012年11月 - 同年12月シュトゥットガルト・キッカーズ 暫定監督
代表歴編集
- 1984年-1994年 ドイツ代表 76試合4得点
個人成績編集
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
ドイツ | リーグ戦 | リーグ杯 | DFBポカール | 期間通算 | |||||||
1978-79 | シュトゥットガルト ・キッカーズ |
ツヴァイ テリーガ |
0 | 0 | |||||||
1979-80 | 33 | 1 | |||||||||
1980-81 | 38 | 8 | |||||||||
1981-82 | 38 | 5 | |||||||||
1982-83 | 37 | 4 | |||||||||
1983-84 | シュトゥットガルト | ブンデス リーガ |
34 | 3 | |||||||
1984-85 | 15 | 4 | |||||||||
1985-86 | 32 | 1 | |||||||||
1986-87 | 33 | 2 | |||||||||
1987-88 | 30 | 1 | |||||||||
1988-89 | 30 | 1 | |||||||||
1989-90 | 28 | 5 | |||||||||
1990-91 | 21 | 3 | |||||||||
1991-92 | 37 | 5 | |||||||||
1992-93 | 33 | 1 | |||||||||
1993-94 | 32 | 2 | |||||||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1994 | 浦和 | - | J | 20 | 2 | 2 | 0 | 3 | 0 | 25 | 2 |
1995 | - | 51 | 4 | - | 3 | 0 | 54 | 4 | |||
1996 | - | 24 | 3 | 12 | 0 | 4 | 0 | 40 | 3 | ||
1997 | 6 | 32 | 2 | 6 | 0 | - | 38 | 2 | |||
ドイツ | リーグ戦 | リーグ杯 | DFBポカール | 期間通算 | |||||||
1997-98 | カールスルーエ | ツヴァイ テリーガ |
9 | 0 | |||||||
1998-99 | 31 | 3 | |||||||||
通算 | ドイツ | ブンデス | 334 | 28 | |||||||
ドイツ | ツヴァイ | 177 | 21 | ||||||||
日本 | J | 127 | 11 | 20 | 0 | 10 | 0 | 157 | 11 | ||
総通算 | 638 | 60 |
なお、1996年のJリーグの背番号固定化以前も背番号は主に「6」を付けていた。この6番はドイツ代表でつけていた背番号である。
監督成績編集
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
2004 | J1 | 浦和 | 2位 | 30 | 62 | 19 | 5 | 6 | 準優勝 | ベスト4 |
2005 | 2位 | 34 | 59 | 17 | 8 | 9 | ベスト4 | 優勝 | ||
2006 | 優勝 | 34 | 72 | 22 | 6 | 6 | ベスト8 | 優勝 | ||
J1通算 | - | 98 | - | 58 | 19 | 21 |
タイトル編集
選手時代編集
- VfBシュトゥットガルト
- ブンデスリーガ:1983-84, 1991-92
- DFLスーパーカップ:1992
- 西ドイツ代表
監督時代編集
- 浦和レッドダイヤモンズ
個人編集
- Jリーグベストイレブン:1995, 1996
- Jリーグ最優秀監督賞:2006
- 彩の国スポーツ功労賞 : 2006
脚注編集
- ^ 2006年12月に浦和レッズの監督退任を発表する記者会見を行った際、退任後にまず何をするかと聞かれて「ユルゲン・クリンスマンを訪ねる」と答えている。
- ^ ◆ブッフバルト氏とのアドバイザー契約にも失敗…(2008年12月8日付スポーツ報知、同日閲覧)
- ^ “反フィンケ”ギドはアドバイザー拒否(2008年12月8日付スポーツニッポン)
- ^ ブッフバルト氏、浦和に激怒!「フィンケ監督適任でない」(2008年12月6日付スポーツ報知)
- ^ 【浦和】ブッフバルト氏が駒場に登場(日刊スポーツ 2012年7月15日)