ギヨーム10世 (アキテーヌ公)

ギヨーム10世(Guillaume X duc d'Aquitaine, 1099年 - 1137年4月9日)は、アキテーヌ公(在位:1126年 - 1137年)。ポワティエ伯ギヨーム8世(Guillaume VIII comte de Poitou)でもあった(在位:同)[1]。 ル・トゥールーサン(le Toulousain、聖トゥールーズ公)もしくはル・サン(le Saint、聖者公)とも称された。

ギヨーム10世
Guillaume X duc d'Aquitaine
アキテーヌ公
ポワティエ伯
Guillaume X d'Aquitaine.jpg
1643年頃にマルテン・ペピンによって制作された聖ベルナールと共に描かれたアキテーヌ公ギヨーム10世。バレンシエンヌ美術館(英語版)。
在位 1126年 - 1137年(アキテーヌ公・ポワティエ伯)

出生 1099年
フランス王国Blason ville fr Toulouse (Haute-Garonne).svg トゥールーズ
死去 1137年4月9日
Bandeirareinogaliza.svgガリシア王国Bandera de Santiago de Compostela.svg サンティアゴ・デ・コンポステーラ
配偶者 アエノール・ド・シャテルロー
  エマ・ド・リモージュ
子女 一覧参照
家名 ポワティエ家
父親 ギヨーム9世
母親 フィリッパ・ド・トゥールーズ
宗教 ローマ・カトリック
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ポワティエ家(ラヌルフ家)最後の男性相続人・当主。アキテーヌ公兼ポワティエ伯ギヨーム9世と2人目の妃であったトゥールーズ伯ギヨーム4世の娘フィリッパ・ド・トゥールーズの長男。アンティオキアレーモンの兄に当たり、フランスルイ7世妃・イングランドヘンリー2世妃として戴冠したアリエノール・ダキテーヌの実父である。

生涯編集

アキテーヌ公ギヨーム9世と妃フィリッパ・ド・トゥールーズの長男としてトゥールーズで生まれる。

父同様に芸術を愛し、トルバドゥール、音楽、文学のパトロンであった。また当時は支配者層も識字率が低く、読み書きができる者が少なかったが、ギヨーム10世は高水準の教育を受けており、教養深い人物であった。娘達にも自分と同じように質の高い教育を身に付けさせることに苦心した。

ギヨーム10世は芸術を愛する文化人であった一方、統治者・戦士としては粗暴で好戦的な面を持っており、フランス王国内における数々の紛争に関わった。

ノルマンディーに対抗すべく、アンジュージョフロワ4世と同盟を結んた。その一方、穏やかな国境北部でオーニスフランス語版の自分の臣下イゼンベール・ド・シャトライヨンを制御するために長期にわたる戦争を強いられ、その他国境内において、武力を用いて制御した者が起こした反乱にも対処しなければならなくなった。

外交においてギヨーム10世は、1130年2月にローマ教皇ホノリウス2世が死去し、次期教皇の座を巡り枢機卿の間でインノケンティウス2世アナクレトゥス2世の両派に分裂して抗争が起きた際、5年間は教皇インノケンティウス2世を支持する司教達に反発しアングレーム司教ジェラール2世と対立教皇アナクレトゥス2世を支援していた。しかし、クレルヴォーのベルナルドゥスと謁見した際にインノケンティウス2世を正当な教皇として認めるよう説得されたことにより考えを改め、インノケンティウス2世の支持者となった。ギヨーム10世は最初、ベルナルドゥスの訪問を受け、反教皇アナクレトス2世に汚されたことを聞くと、彼がミサを読んだ祭壇を打ち砕き、地面に投げ捨てるよう臣下に命じたため、彼は身の危険を感じて逃走した。

ギヨーム10世は、教皇インノケンティウス2世を信奉する司教を教区から追放したため、教会から呪いを受けた。再びクレルヴォーのベルナルドゥスが、突然パルトネー城を訪ねて来た。

翌朝ギヨームとベルナルドゥスは教会に集まり、ミサが執り行われた。正門にいたギヨームにベルナルドゥスが近寄り、その言葉の猛攻によりウィリアムは足元に前のめりになり、話によると唇から泡を吹きながら、うめき声をあげて倒れたとされる。ベルナルドゥスの命により、ギヨームはポワティエ司教の再任を許し、和睦したとされている。

1137年4月9日の聖金曜日、アナクレトゥス2世を支持したことに対する贖罪を目的としたサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼中、食中毒に罹患して死去した。死の床でギヨーム10世は友でもあった主君のフランス王ルイ6世に自分の亡き後、当時15歳程であった長女アリエノール・ダキテーヌの後見及び、彼女に相応しい結婚相手との縁組を頼み遺した。ギヨームの遺言通りルイ6世はアリエノールの後見人となり、自分の息子の王太子ルイと結婚させた。

中世終期にギヨーム10世の逸話の一部が伝説上の人物ギヨーム・ド・ジェローヌと聖ギヨーム・ド・マラヴァッレフランス語版の基になったとされる。

結婚と子女編集

ギヨーム10世は1118年もしくは1121に結婚し、父の愛人ダンジュルーズとその夫シャテルロー副伯エメリー1世の娘アエノール・ド・シャテルローと結婚し、3子に恵まれた。

アエノールとの死別後、2人目の妻にリモージュ副伯アデマール3世ル・バルビュ(1139年没)とその妻マリー・ド・カールの娘に当たるコニャック卿バルドン未亡人エマ・ド・リモージュと再婚したされる。エマとの間に子女はなかった。ギヨーム10世と死別し再び未亡人となったエマはアングレーム伯ギヨーム6世と結婚した。

注意事項と参考文献編集

  1. ^ Sa généalogie sur le site Medieval Lands

外部リンク編集

関連記事編集

先代
ギヨーム9世
アキテーヌ公ポワティエ伯
1126年 - 1137年
次代
アリエノール/ルイ7世