クラージュ・コンペティション

クラージュ・コンペティションは、現在オレカが所有する、フランスのルマンにあるサルトサーキット近くに拠点を置く、レーシングチームおよびシャーシコンストラクターだった。それは会社を設立する前にヒルクライムを走らせたフランスのレースドライバーであるイヴ・クラージュによって設立された。2007年オレカがクラージュを買収した。

オレカ-クラージュLC70

歴史編集

イブ・クラージュ編集

イブ・クラージュ(1948年4月27日生まれ)は1972年にレースキャリアを開始し、1970年代を通じてさまざまなヒルクライムでレースを行った。 1980年までに、彼はモンドールを含む80以上のヒルクライムレースで優勝した。しかし、1977年、イブ・クラージュはスポーツカーレースに移り、1981年ル・マン24時間レースに初めて参加した。ジャン・フィリップ・グランドとともに、クラージュのローラ-BMWは2L以下のスポーツクラスで勝利を収めた。この成功により、クラージュは自分の会社を設立することを決め、ル・マンで競争できるプロトタイプのシャーシの制作を開始した。そして、1982年にクラージュC01を完成してクラージュ・コンペティションが設立された。

創成期編集

1982年ルマン24時間レースでデビューした、クラージュC01は、フォードコスワースDFL V8を使用し、グループCクラスにも参加した。残念ながら、リタイアを余儀なくされ、車はわずか78周しか持続できなかった。クラージュは、C01の次期型であるC02で次年も続けた。チームはまた、財政的に支援するためにプリマガズのスポンサーを獲得したが、シャーシ名はクラージュではなくクーガーに変更された。これは、何年も続いた。しかし、チームは1983年と1984年に再びルマンでフィニッシュすることができなかった。しかし1985年、チームはポルシェとの契約を発表した。これにより、チームの戦闘力が強化される。

ポルシェ時代編集

1985年、イブ・クラージュはポルシェと契約を結び、フォード・コスワースから変えてエンジンを使用した。ポルシェのターボチャージャー付水平対向6気筒エンジンにより良くフィットし、クラージュはクーガーC12をデビューさせた。チームは、1985年に20位、1986年に18位だったため、この組み合わせは成功を収めた。1987年にチームの最大の成果を達成した。彼らはファクトリーチームのポルシェ962と自チームの962に次ぐ、総合3位でフィニッシュしました。同じ年に、クラージュは世界スポーツカー選手権のシーズンにスポット参戦し、クーガーC20とポルシェ962で選手権の8位を獲得した。この成功に、クラージュのシャーシとチームがル・マンで成功することができると信じ、イブ・クラージュはチームの運営に集中するために正式にドライバーを辞めた。

残念ながら1988年は、チームはその成功を維持することができず、ル・マンでのエントリー3台いずれも完走できず、世界スポーツカー選手権では1回ポイントを獲得することができた。しかしチームは1989年にすぐに逆転した。ル・マンで総合14位でC2クラス優勝、世界スポーツカー選手権で11位になった。翌年、クラージュはC1クラスに戻り、ル・マンで総合7位になり、1991年には11位になった。

スポーツカーレースのルール変更により、クラージュは1991年にルマンのC2クラス(旧ルールに準拠した車)に、1992年にC3(ポルシェエンジン搭載車のクラス)に入れられた。しかし、ル・マンでは、C3クラスのクラージュC28LMがクラス優勝を果たし、総合6位でフィニッシュした。この車は、後年クラージュと関係を築くポルシェのファクトリードライバー、アンリ・ペスカロロがドライブした。

1993年の世界スポーツカー選手権の終焉とともに、クラージュは再びC2クラスに戻り、ル・マンで10位と11位のフィニッシュ(クラス5位と6位)を取り、1994年にLMP1クラスで総合7位フィニッシュを果した。

1995年、クラージュはこれまでで最高の挑戦を開始、ドライバーのボブ・ウォレクエリック・エラリーマリオ・アンドレッティが#13 クラージュC34で勝利に挑戦した。結局、チームは総合2位で、マクラーレンF1GTRに1周差だった。 1996年、クラージュは総合7位と13位で終了したが、ルマンプロトタイプ(LMP1)クラスで2位と3位だった。 2チームのうちの1つは、実質アンリ・ペスカロロによって運営されていた。アンリ・ペスカロロは、クラージュに関連した独自のチームの結成を始めた。クラージュは1997年も成功を続け、総合4位、7位、16位になりました。しかし、1998年には、クラージュとポルシェのパートナーシップは10年以上前のものであり、クラージュが使用していたエンジンの設計も同様に古かった。ポルシェエンジンでのクラージュの最後のレースは、ポルシェ、日産トヨタのLMGT1クラスのペースについていけず、総合15位と16位でフィニッシュした。

アンリ・ペスカロロは、1999年に新しく設立されたチームで古いシャーシでレースし、ポルシェエンジンのクラージュC50で、総合9位のフィニッシュを達成した。

日産エンジン編集

日産モータースポーツは、当時R390 GT1でGT1クラスで参戦してたが、1999年にオープンコックピットプロトタイプの開発を検討していた。プロジェクトを支援するために、日産はシャーシの開発だけでなく、日産が必要なテストと走行距離を獲得するのを助けるために日産エンジン使用するクラージュコンペティションを頼った。したがって、1998年には、2台のポルシェエンジンのクラージュに加えて、2台の日産エンジンのクラージュも参戦した。どちらもR390GT1と同様の日産VRH35Z 3.5LV8ターボを使用した。しかし、ポルシェエンジン車がゴールした一方で、両方の日産車エンジン車はフィニッシュできなかった。

1999年、日産はクラージュとの関わりを継続。日産は自チームのR391と一緒に走るために、クラージュC52のシャーシを購入し、クラージュは引き続き自分たちの車で日産エンジンを使用して開発した。レース終了時、クラージュは6位、日産は8位、 ペスカロロロ・スポールのクラージュポルシェは9位でフィニッシュした。しかし、日産のR391はトラブルで完走できず、日産はスポーツカーレースから撤退し、クラージュとの関係を終わらせることにした。

新時代編集

 
2000年ル・マンでペスカロロスポールがクラージュC52プジョー3.2l V6を、4位でフィニッシュ

2000年には、クラージュC60と呼ばれるLMP1クラスの新しい最先端のシャーシをデビューさせた。 C60は、撤退した日産の代わりに、新しくV10ジャッドエンジンを使用。同時に、ペスカロロスポーツは、プジョーターボエンジンでクラージュC52をアップグレードした。ペスカロロは古いシャーシでル・マン4位でフィニッシュしたが、クラージュは完走できなかった。

2001年には、ペスカロロはC60にアップグレードするだけでなく、シャーシを2つ購入した。1台は総合13位でフィニッシュし、2台目はフィニッシュできなかった。クラージュのジャッドエンジンの車もリタイアした。2002年は、ペスカロロの1台が10位完走し、クラージュのマシンが15位完走した。

2003年は、クラージュC60が今までの最高の7位でフィニッシュし、ペスカロロの車が8位と9位だった。 2003年後半、クラージュは、LMP675(後のLMP2)クラス用に、C65と呼ばれる別のシャーシをデビューさせた。このシャーシは、 ルマン1000kmレースでデビューし、クラス優勝と総合4位を獲得した。

当時、ペスカロロはC60の改造を始めていた。 2004年に、もはやクラージュのC60とは違う車に到達した。したがって、車はペスカロロC60として知られるようになった。これらの改造された車は、ペスカロロとクラージュの両方が新しいルマン耐久シリーズでレースを始めた2004年シーズンにつながった。ル・マンでは完走できなかったが、クラージュC65はルマン耐久シリーズ最初のシーズンでLMP2チームチャンピンを獲得した。ペスカロロチームの車は、アウディの後ろで、ルマンで総合4位になった。

クラージュはC65をフランスのポール・ベルモンドレーシングとイプシロンスポーツと米国のミラクルモータースポーツへのカスタマーチームにシャーシの供給が始めた。最終的には10台のC65が製造され、当時のLMP2で最大のメーカーになった。

クラージュはC60の開発に戻り、2005年にC60「ハイブリッド」にアップグレードした。チームは総合8位を獲得し、ペスカロロの大幅に改造されたC60は総合2位でフィニッシュした。

その後の奮闘編集

2006年、クラージュは、横浜ゴム無限からの支援を受けて、ルマンシリーズで2台のマシンで出場した。無限は全日本スポーツカー耐久選手権で新しいクラージュシャーシと引き換えに、無限のV8エンジンに置き換えた。同時に、クラージュは古いシャーシのC60を新しいLC70 LMP1に正式に更新した。 4台目のLC70は、同じくルマンシリーズで参戦してたスイス・スピリットチームに販売された。一方、ペスカロロスポーツは、大幅に改造された独自のC60の運用を継続した。ペスカロロはLMSのLMP1クラスを支配し、5レースすべてで優勝した。一方、スイス・スピリットは4位、クラージュチームは8位と10位だった。新しいクラージュマシンは、信頼性の問題を抱えていた。

LMP2では、クラージュC65のカスタマーの、バラジ・イプシロンチームの手でルマンシリーズのチームチャンピオンを獲得した。アメリカンルマンシリーズでは、マツダチームの取り組みでC65を使用してチームチャンピオンシップで3位を獲得した。

ル・マン24時間レースでは、ペスカロロのC60が総合2位と5位になり、クラージュLC70はリタイヤした。ミラクル・モータースポーツとバラジ・イプシロンのC65は完走した。

オレカ編集

 
ホッケンハイムリンクでのクラージュLC75

2007年、クラージュはC65に代わるLC75 LMP2を開発した。アキュラは、アメリカンルマンシリーズ用に3台を正式に購入し、ボディワークを大幅に変更し、アキュラARX-01aとして公認された。ルマンシリーズでも以前のC65使用チームもLC75に変更された。

クラージュとのコラボレーションが終了した無限の後継としてAER製エンジン使用した。


2007年のルールに準拠するために車を変更することを余儀なくされたペスカロロは、古いC60から変更されたシャーシを開発。新たにペスカロロ01と呼ばれる彼らの新車は、2つのチームが開発において互いに助け合い続けたものの、もはやクラージュのシャーシとは関係が無くなった。

2007年9月14日、オレカはクラージュを買収する計画を発表した。イブ・クラージュは会社に残り、オレカはクラージュのエンジニアの専門知識を使用して、まったく新しいル・マン・プロトタイプを開発する。 [1]

レーシングカー編集

これらは、クラージュ・コンペティションが設立以来構築してきたシャーシの名称。記載されている日付は、各シャーシが最初に参戦した年。

  • C01-フォード(1982)
  • C02-フォード(1984)
  • C12-ポルシェ(1985)
  • C20-ポルシェ(1987)
  • C22-ポルシェ(1988)
  • C24S-ポルシェ(1990)
  • C26S-ポルシェ(1991)
  • C28S-ポルシェ(1992)
  • C30LM-ポルシェ(1993)
  • C32LM-ポルシェ(1994)
  • C34-ポルシェ(1995)
  • C36-ポルシェ(1996)
  • C41 -Chevrolet(1995)
  • C41 -Porsche(1996)
  • C50 -Porsche(1998)
  • C51 -日産(1998)
  • C52 -日産(1999)
  • C52 -Peugeot(2000)
  • C60-ジャッド(2000)
  • C60-プジョー(2001)
  • C65-JPX(2003)
  • C65- AER (2005)
  • C65-ジャッド(2005)
  • LC70-無限(2006)
  • LC70-AER(2007)
  • LC75 -AER(2007)
  • アキュラ・ARX-01、LC75をベースに、大幅に改良し、独自のものとした。(2007年)  

脚注編集

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