クリスティアン・エルンスト (ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公)

クリスティアン・エルンストドイツ語:Christian Ernst, 1683年8月18日 - 1745年9月4日)は、ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公(在位:1729年 - 1745年)。

クリスティアン・エルンスト
Christian Ernst
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト
在位 1729年 - 1745年

出生 (1683-08-18) 1683年8月18日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公領、ザールフェルト
死去 (1745-09-04) 1745年9月4日(62歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公領、ザールフェルト
配偶者 クリスティアーネ・フリーデリケ・フォン・コス
家名 ヴェッティン家エルンスト系
父親 ザクセン=コーブルク=ザールフェルトヨハン・エルンスト
母親 ゾフィー・ヘートヴィヒ・フォン・ザクセン=メルゼブルク
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妃クリスティアーネ・フリーデリケ・フォン・コス

生涯 編集

クリスティアン・エルンストはザクセン=ザールフェルトヨハン・エルンストと、その最初の妃でザクセン=メルゼブルク公クリスティアン1世の娘ゾフィー・ヘートヴィヒの長男である。

父の意に反して、1709年にグライツにおいてクリスティアーネ・フリーデリケ・フォン・コス(1686年8月24日 - 1743年5月15日)と婚約した。クリスティアーネ・フリーデリケはクリスティアン・エルンストと同じく敬虔主義に傾倒し、ザールフェルト近くのキッツァーシュタイン城を居所として購入した[1]。クリスティアーネ・フリーデリケはロイス家の森林監督官[1]でザールフェルトの侍従であった[2]ギュンター・クリストフ・フォン・コス[3](1653年 - 1710年[4])の娘であり、母アンナ・エリザベートはヴォルフ・クリストフ・フォン・ブライテンバウフ(1631年 - 1672年)とシュトレーラのマリア・マグダレナ・プフルックの娘であった[5]。クリスティアーネ・フリーデリケの父方のコス家がメクレンブルク公国の有名な古い騎士の家系であるのか[6]、それとも西プロイセンの同名の家系(les Koss de Pomérélie)であるのかは不明である[7]。しかし、ラッツェブルク(ザクセン=ラウエンブルク)近くのヘルマンシュトルプとリュットウに、1230年に従者ヘルマヌス・コスと共に最初に現れたのはメクレンブルク家であった[8][7]。この対等でない婚約に父と弟らは不満であったが、クリスティアン・エルンストは1724年8月18日にナイチャウにおいてクリスティアーネ・フリーデリケと結婚した。父ヨハン・エルンストは結婚に同意したが、クリスティアン・エルンストの異母弟であるフランツ・ヨシアスは、異母兄クリスティアン・エルンストの妻が同等の身分ではなかったため相続に異議を唱えた。兄弟の妻の序列の問題もあった。弟の(したがって実際には臣下である)フランツ・ヨシアスは、シュヴァルツブルク侯家出身の女性と結婚していたため、出自は兄の妻よりも上位であった。父ヨハン・エルンストは、クリスティアン・エルンストの妻はプリンツェシン(Prinzessin)の称号を持たなければならないが[9]、彼女の義理の妹より下位とすることを決めた。この結婚で生まれた子供はプリンツ(Prinz)またはプリンツェシンの称号を与えられるが継承から除外されることとなった。いずれにせよ、これは、フランツ・ヨシアスの結婚から男系の子孫が存続する限り適用されることとなった。実際には、クリスティアン・エルンスト夫妻には子供が生まれずこれについて取り上げられることはなかった[10]。1724年10月14日、公国が分割不可能であることを考慮して、父ヨハン・エルンストは兄弟が共同で統治することに決めた。そして実際に1729年にヨハン・エルンストが死去した後、兄弟は共同統治を開始した。クリスティアン・エルンストはザールフェルトに、フランツ・ヨシアスはフェステ・コーブルクに移った。そして長男であるクリスティアン・エルンストが実務を担当した[11]

兄弟が共同統治している間に「コーブルク・アイゼンベルク・レームヒルトの相続争い」が集結し、ザールフェルト家はコーブルクローダッハおよびメンヒレーデンとノイハウスの半分を受け取り、ザクセン=コーブルク=ザールフェルトという名前を採用した。クリスティアン・エルンストは1743年に死去した妻のクリスティアーネ・フリーデリケを記念して、その墓を刻んだ2ドゥカート相当の金貨を鋳造した[12]。クリスティアン・エルンストは1745年に嗣子なく死去し、弟フランツ・ヨシアスが唯一の相続人となった。

クリスティアン・エルンストは病弱で、敬虔主義に傾倒していた。1727年、クリスティアン・エルンストはニコラウス・ルートヴィヒ・フォン・ツィンツェンドルフをザールフェルトに招いて長時間にわたり会話を交わし、その後頻繁に手紙のやりとりをした[13]。クリスティアン・エルンストは教会の賛美歌を作曲し、「Warum, mein Jesu, läßt du mich in meinen Schmerzen liegen?(イエスよ、どうして私を苦痛の中で横たえさせてくださるのですか?)」は1712年にザールフェルトで出版された。また、1733年に敬虔主義者のベンジャミン・リンドナーを監督職および宮廷牧師に任命した。

脚注 編集

  1. ^ a b Hans Patze: Geschichte Thüringens: Politische Geschichte in der Neuzeit, 1982, S. 536.
  2. ^ Roswitha Jacobsen: Residenzkultur in Thüringen vom 16. bis zum 19. Jahrhundert, 1999, S. 67.
  3. ^ Neue Landeskunde des Herzogtums Sachsen-Meiningen, 1903, S. 472.
  4. ^ Johann Christoph Cellarius: Bey dem Grabe, Des Wohl-gebohrnen Herrn, Herrn Günther Christoph von Koß, auff Kitzerstein ... Meines hohen Patrons, Entwurff dieses zu Bezeugung schuldigsten Beyleidenns, Aus Devotion gegen dessen hinterlassene Hoch-Adeliche Familie In Eyl den 10. Jan. 1711. Gedruckte Trauerrede, Saalfeld 1711
  5. ^ Valentin König: Genealogische Adels-Historie Oder Geschlechts-Beschreibung Derer Im Chur-Sächsischen und angräntzenden Landen zum Theil ehemahls, allermeist aber noch ietzo in guten Flor stehenden ältesten und ansehnlichsten adelichen Geschlechter, Band 2, 1729, S. 187. Detlev Schwennicke: Europäische Stammtafeln: Die deutschen Staaten, 1998, Tafel Sachsen-Coburg und Saalfeld.
  6. ^ Wolf Lüdeke von Weltzien: Das Land Werle, Gross- und Klein-Tessin, 2001, S. 26–32. [Die von Koss. 1230–1707. Im Volksmund die Kossen genannt.]
  7. ^ a b Michel Huberty: L' Allemagne dynastique. Oldenbourg. Familles alliées. H - L, 1994, S. 616.
  8. ^ Genealogisches Handbuch des Adels, Band 38, Limburg an der Lahn 1966, S. 293.
  9. ^ クリスティアーネ・フリーデリケは侯夫人の地位にまで上ったとも言われている。少なくともザールフェルトでは、クリスティアーネ・フリーデリケは公爵夫人として扱われ、夫がまだ生きていた1743年にクリスティアーネ・フリーデリケが亡くなると、葬列規程が記された印刷物や実際に行われた葬式の説教でも「ザクセン公爵夫人」と称された。: H. Traut: Geschichte morganatischer und legitimirter Fürsten- und Grafen-Ehen in Deutschland nebst Mittheilungen über damit verwandte Erscheinungen und einem Inhalts- und Namen-Register, 1874, S. 189. Johann Ludwig Klüber: Abhandlungen und Beobachtungen für Geschichtskunde, Staats- und Rechtwissenschaften, Band 2, 1834, S. 185. 1743年のLeichenpredigt von Benjamin Lindnerにおいて以下のような長い称号が記されている: 「最も穏やかなプリンツェシンで貴婦人である、クリスティアーネ・フリーデリケ夫人、ザクセン、ユーリヒ、クレーフェとベルク、エンゲルンとヴェストファーレンの公爵夫人、テューリンゲン方伯夫人、マイセン辺境伯夫人、ヘンネベルク伯爵夫人、マルク伯爵夫人およびラーヴェンスベルク伯爵夫人、ラーヴェンシュタイン夫人・・・」
  10. ^ Christian Wilhelm Friedrich Wagner und Konrad L. Grobe: Chronik der Stadt Saalfeld im Herzogthum Sachsen-Meiningen, 1864, S. 481 f.
  11. ^ Hermann Johann F. Schulze: Das Recht der Erstgeburt in den deutschen Fürstenhäusern, Avenarius und Mendelssohn, 1851, S. 414
  12. ^ Gerhard Schön, Deutscher Münzkatalog 18. Jahrhundert, Nr. 15
  13. ^ Horst Weigelt: Geschichte des Pietismus in Bayern, Vandenhoeck & Ruprecht, 2001, S. 261

参考文献 編集

先代
ヨハン・エルンスト
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト
1729年 - 1745年
フランツ・ヨシアスと共治)
次代
フランツ・ヨシアス