クレイグ・アンソニー・ホッジス (Craig Anthony Hodges, 1960年6月27日 - ) は、アメリカ合衆国イリノイ州パークフォレスト出身の元プロバスケットボール選手、指導者。身長188cm、体重86kg。ポジションはシューティングガード

クレイグ・ホッジス
Craig Hodges
1991年のホッジス
引退
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1960-06-27) 1960年6月27日(64歳)
出身地 イリノイ州パークフォレスト
身長(現役時) 188cm (6 ft 2 in)
体重(現役時) 86kg (190 lb)
キャリア情報
出身 カリフォルニア州立大学ロングビーチ校
NBAドラフト 1982年 / 3巡目 / 全体48位[1]
プロ選手期間 1982年–1998年
ポジション SG
背番号歴 24, 15, 25, 14
指導者期間 1994年–現在
経歴
選手時代:
19821984サンディエゴ・クリッパーズ
19841988ミルウォーキー・バックス
1988フェニックス・サンズ
19881992シカゴ・ブルズ
1993パラカネストロ・カントゥ
1994–1995ガラタサライSK
1995–1996ロックフォード・ライトニング英語版
1997–1998ヤムトランド・バスケット英語版
コーチ時代:
1994–1996シカゴステート・クーガーズ英語版
20052011ロサンゼルス・レイカーズ (AC)
2013–2014ハリファックス・レインメン英語版
2014–2015ウェストチェスター・ニックス (AC)
2015ウェストチェスター・ニックス (暫定HC)
受賞歴

選手

アシスタントコーチ

NBA通算成績
得点 5,940 (8.5 ppg)
リバウンド 937 (1.3 rpg)
アシスト 1,769 (2.5 apg)
Stats ウィキデータを編集 Basketball-Reference.com
Stats ウィキデータを編集 NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten

経歴

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カリフォルニア州立大学ロングビーチ校出身のホッジスは、1982年のNBAドラフト全体48位でサンディエゴ・クリッパーズに指名を受けNBA入りした。1984年にミルウォーキー・バックスに移籍した後は優れたシューターとしてプレーし、1986年と1988年の2度にわたってスリーポイント成功率リーグ1位を記録した。また、1991年と1992年には、マイケル・ジョーダン擁するシカゴ・ブルズの一員としてリーグ2連覇を経験した。1992年にブルズを解雇された後はヨーロッパのプロリーグやCBAでプレーし、1998年に現役を引退した。NBAでの成績は、695試合の出場で通算5,940得点(平均8.5得点)、スリーポイント成功率.400であった。

ホッジスはNBAスリーポイントコンテストに第1回から8年連続で出場し、1990年から1992年にかけて3連覇を達成した。大会史上3連覇を果たしたのはラリー・バードとホッジスのみである。また、1991年大会では19本連続シュート成功の大会記録を樹立した。最後の出場となった1993年大会では、当時フリーエージェントでどのチームにも所属していなかったため、"NBA"と印字されたジャージを着て臨んだ(結果は準決勝敗退)。

引退後、ホッジスは1994年にシカゴ州立大学のヘッドコーチに就任したが、約2シーズンで8勝51敗(勝率.136)という惨憺たる戦績を残して解任された。その後はカナダのプロリーグやDリーグで指揮を執った。現在は母校であるイリノイ州のリッチ・イースト高校でヘッドコーチを務めている。

個人成績

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略称説明
  GP 出場試合数   GS  先発出場試合数  MPG  平均出場時間
 FG%  フィールドゴール成功率  3P%  スリーポイント成功率  FT%  フリースロー成功率
 RPG  平均リバウンド  APG  平均アシスト  SPG  平均スティール
 BPG  平均ブロック  PPG  平均得点  太字  キャリアハイ
  優勝シーズン      リーグリーダー

レギュラーシーズン

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シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG PPG
1982–83 SDC 76 48 26.6 .452 .222 .723 1.6 3.6 1.1 .1 9.9
1983–84 76 28 20.7 .450 .217 .750 1.1 1.5 .8 .0 7.8
1984–85 MIL 82* 63 30.4 .490 .348 .815 2.3 4.3 1.2 .0 10.6
1985–86 66 66 26.3 .500 .451* .872 1.8 3.5 1.1 .0 10.8
1986–87 78 43 27.5 .462 .373 .891 1.8 3.1 1.0 .1 10.8
1987–88 43 0 22.9 .449 .466 .821 1.1 2.5 .7 .0 9.2
PHX 23 0 20.1 .489 .544 .844 1.4 1.9 .7 .1 10.1
1987-88計 66 0 21.9 .463 .491* .831 1.2 2.3 .7 .0 9.5
1988–89 10 0 9.2 .444 .333 .750 .5 .8 .2 .0 3.9
CHI 49 6 22.7 .475 .423 .849 1.7 2.8 .8 .1 10.0
1988-89計 59 6 20.4 .472 .417 .842 1.5 2.5 .7 .1 9.0
1989–90 63 0 16.7 .438 .481 .909 .8 1.7 .5 .0 6.5
1990–91 73 0 11.5 .424 .383 .963 .6 1.3 .5 .0 5.0
1991–92 56 2 9.9 .384 .375 .941 .4 1.0 .3 .0 4.3
通算 695 256 21.7 .461 .400 .828 1.3 2.5 .8 .0 8.5

プレーオフ

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シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG PPG
1985 MIL 8 8 27.0 .364 .174 .800 1.6 3.3 1.5 .1 8.0
1986 14 14 32.9 .510 .452 .794 1.8 4.5 2.3 .1 13.5
1987 12 0 18.8 .519 .294 .909 1.8 1.7 .8 .2 7.9
1989 CHI 17 17 32.6 .412 .398 .714 1.5 3.6 1.3 .2 11.2
1990 16 1 15.9 .378 .293 .750 1.1 1.1 .3 .0 4.4
1991 17 0 12.3 .423 .393 .750 .2 .6 .6 .0 4.7
1992 17 0 8.1 .390 .450 .500 .2 .3 .3 .0 2.5
通算 101 40 20.4 .436 .363 .784 1.1 2.0 .9 .1 7.2

人物・エピソード

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  • 1992年にシカゴ・ブルズが優勝してホワイトハウスを表敬訪問した際、ホッジスはダシキを着用して参加し、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領に直筆の手紙を渡した。手紙の内容は、ブッシュ政権の貧困層やマイノリティに対する扱いに抗議するものだった。
  • ブルズ時代のチームメイトであるマイケル・ジョーダンに対し、その名声を利用して政治的・社会的問題に関する発言を行わないことを批判した。
  • 1996年、ホッジスはNBA及びリーグに所属する全29チーム(当時)に対して4,000万ドルの賠償を求める訴訟を起した。その理由は、「アフリカ系アメリカ人のプロスポーツ選手は、その富や影響力を利用して、貧困層や権利を奪われた人々を支援することを怠っている」と批判したためリーグから干されたというものだった。実際、ブルズから解雇されたときはまだ32歳と充分プレーできる年齢であったにもかかわらず、NBAのどのチームからも契約オファーやトライアウトの要請が来なかった。ブルズの関係者は、ホッジスの解雇は年齢による衰えでディフェンスに難が生じたためと証言したが、ブルズのヘッドコーチであったフィル・ジャクソンは彼のシュート能力を高く評価した上で、解雇後1度も電話がなかったのは不思議だと語っている。
  • 2014年、ホッジスはデニス・ロッドマン北朝鮮との「バスケットボール外交」の一環として結成したエキシビジョンチームに指名され、金正恩第1書記の誕生日を祝う親善試合でプレーするという仕事を引き受けた。しかし彼が搭乗したカナダから北京へのフライトが大きく遅れたため平壌への乗継ぎ便に間に合わず、中国政府によってただちに帰国させられた。

外部リンク

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