クレメント・アトリー
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初代アトリー伯爵クレメント・リチャード・アトリー(英語: Clement Richard Attlee, 1st Earl Attlee、1883年1月3日 - 1967年10月8日)は、イギリスの政治家、弁護士。同国第62代首相(在任:1945年7月26日 - 1951年10月26日)。労働党党首、王璽尚書、副首相などを歴任した[1]。
クレメント・アトリー Clement Attlee | |
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![]() 1950年2月23日 | |
生年月日 | 1883年1月3日 |
出生地 |
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没年月日 | 1967年10月8日(84歳没) |
死没地 |
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出身校 | オックスフォード大学 |
所属政党 | 労働党 |
称号 |
初代アトリー伯爵 プレスウッド子爵 ガーター勲章 メリット勲章 コンパニオン・オブ・オナー勲章 イギリス枢密院 |
配偶者 |
バイオレット・ミラー (1922年1月 - 1964年6月) |
子女 | 4人 |
内閣 |
第1次アトリー内閣 第2次アトリー内閣 |
在任期間 | 1945年7月26日 - 1951年10月26日 |
国王 | ジョージ6世 |
在任期間 | 1935年10月8日 - 1955年12月14日 |
軍人としての経歴 | |
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所属国 |
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所属組織 |
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軍歴 | 1914年9月 - 1919年1月 |
最終階級 | 少佐 |
ラムゼイ・マクドナルド以来2人目の労働党出身の首相で、同党出身の首相として初めて4年の任期を全う出来ただけで無く、任期中に議会で過半数の議席を得た。内政では国営医療事業の国民保健サービス(NHS)などが設立され、イギリスはベヴァリッジ報告書構想に基づく福祉国家の建設に歩みだした。外交では長年のイギリスの植民地であったインド・パキスタン・セイロン・ビルマの独立承認などを実行した。
来歴編集
弁護士時代編集
1883年1月3日、ロンドンに誕生する。オックスフォード大学を卒業した後は、1906年3月に弁護士となった。ウェッブ夫妻の影響を受けて1908年1月に独立労働党に入党し[2]、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで講師を務めながら社会主義活動を行い[1]、ロンドンのスラム街にあったセツルメントなどに関わった。
第一次世界大戦編集
第一次世界大戦に出征したが、1916年にガリポリの戦いで負傷した後、1919年1月に除隊して政界に転じる。
政界編集
1919年11月に労働党の出身者としては初めてステップニーの市長となった後[3]、1922年11月に実施された総選挙に初めて立候補する。かつて関わりのあったロンドンのスラム街を地盤として選挙戦を戦い、庶民院議員となった後は、1955年12月まで連続して議席を確保した[1]。同年にラムゼイ・マクドナルド党首の秘書を務める[1]。
1924年1月にマクドナルドが労働党党首で初めて首相を務め、第1次マクドナルド内閣を組織した際には、陸軍次官を務める[1]。その後逓信相と労働党庶民院代表などを経て、1935年10月に引退するジョージ・ランズベリーの後任として労働党党首となる。1940年5月から1942年2月まで王璽尚書、1942年2月から1945年5月まで副首相を務めた。
1945年7月の総選挙編集
ヨーロッパ戦線の終結後の初の総選挙は、1945年7月5日に投票が開始された。26日に開票が実施され、以下のような結果になった。
保守党は181議席を失い、チャーチルとイーデンら6名の閣僚が当選したものの、残りの閣僚は全員落選する事態となった。チャーチルはポツダム会談に参加中であったが、7月25日に帰国し、同月26日に内閣総辞職した。なお、総選挙を控えていたため、このポツダム会談にはアトリーも次席として参加し、イギリスの新首脳として会議を引き継いだ。
首相編集
クレメント・アトリー内閣を参照。
就任編集
労働党の勝利後、党内ではハーバート・モリソンや党幹部のハロルド・ラスキがアトリー追い落としを狙っていた。しかし既にチャーチルが保守党の敗北を認め、次期首相にアトリーを推挙していたことから、1945年7月26日にアトリーはバッキンガム宮殿を訪れて参内し、国王ジョージ6世から組閣の命を拝した。首相就任後直ちにイギリス全権としてポツダム会談に参加した(8月2日に終了)。
内政編集
その後8月15日に日本が降伏したことで第二次世界大戦が終結した。首相就任後アトリーは、第二次世界大戦で疲弊したイギリスの戦後復興を進めると共に、労働党の公約であった基幹産業の国有化と「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる社会保障制度の確立を行い[1][4]、社会主義的諸政策を矢継ぎ早に実現していった。
しかし1947年1月の寒波で国内は大きな打撃を受け、さらに戦後復興のためにアメリカが示した「マーシャル・プラン」を受け入れるなど、国際経済における主導権は完全に失われた[5]。1950年2月に実施された総選挙で労働党は再勝利を果たし、第2次アトリー内閣が発足した。
外交編集
イギリスは戦勝国となったものの、かつてのような超大国としての地位・権威はすでに持ち合わせておらず、各地でイギリスからの独立運動が活発化した。アトリーは、これらの植民地の支配継続はもはや困難と考えており、野党保守党の反対を押し切ってインド・パキスタン・セイロン・ビルマの独立を承認した。しかしインド・パキスタンでは宗教問題から分離独立となり、委任統治領だったパレスチナではユダヤ人とアラブ人の対立に対処しきれず、その解決を国際連合に委ねるなど、先の内閣が敷いた独立阻止の政策によって生じた各種問題を、アトリー内閣は解決しきれず、分割統治の爪痕を残す結果となった。
1950年1月6日には西側諸国で最も早く中華人民共和国を国家承認した[6]。これは日本の占領下を経てイギリスの植民地に復帰した香港の地位保全を企図していた。中華民国には台湾に駐在する領事館を残した[7]。なお、これに先立つ1948年にはチベット使節団がイギリスを訪問し、アトリーに面会している[8]。
アトリー率いる労働党政権は反共主義の立場で、外務大臣のアーネスト・ベヴィンの下、反共外交を展開した。朝鮮戦争では日本の占領を担当していたイギリス連邦占領軍を朝鮮半島へ派遣し、「朝鮮イギリス連邦軍」の名で国連軍として参戦させた。朝鮮戦争でのアメリカによる核兵器の実戦使用には、アトリーは強硬に反対した[1][9]。ただしアトリー内閣は、イギリスの安全保障・国際的地位の維持のため、自国での原子爆弾開発を決定している。
辞任編集
1951年10月に実施された総選挙でチャーチル率いる保守党に敗北したことにより、同年10月26日に首相を辞任した。同日付けで第2次アトリー内閣は総辞職し、その後第3次チャーチル内閣が成立した。
首相辞任後編集
首相退任後の1954年には中華人民共和国を訪問し、西側の要人で初めて毛沢東と会見[10]している。なお、首相を辞任した後も労働党党首の座に留まっていたが、労働党が1955年5月に実施された総選挙で、チャーチルに代わって新たに党首に就任していたイーデン率いる保守党に敗北したことで、12月に党首を辞任して庶民院議員を辞職した。しかしその後爵位を授かり(初代アトリー伯兼プレストウッド子爵)、以後は貴族院議員となるが、1967年10月8日に肺炎で死去した。84歳であった。
評価編集
アトリー内閣の諸政策によって「ゆりかごから墓場まで」と称される社会保障制度が確立した。イギリスは福祉国家の優等生と見なされ、各国の模範とされた。しかし産業の国有化などの社会主義的諸政策は「英国病」と称される経済の停滞をもたらし、労働権の強化は労働組合によるストライキを頻発させることになり、国民の不満を招いた(不満の冬)。
後年、アトリー内閣の諸政策は、保守党のマーガレット・サッチャー政権によって、修正が図られた。
家族編集
1922年1月にバイオレット・ミラーと結婚し、4人の子女が誕生した。
クレメント・アトリーの孫にあたる、第3代アトリー伯爵ジョン・アトリーは、貴族院議員で、保守党に所属している。
参考文献編集
伝記研究編集
脚注編集
- ^ a b c d e f g “アトリーとは”. コトバンク. 2020年12月27日閲覧。
- ^ アトリー、ILPとロマンチックな伝統
- ^ クレメント・アトリー像
- ^ 中村久司 『観光コースでないロンドン イギリス2000年の歴史を歩く』高文研、2014年、247頁。ISBN 978-4-87498-548-9。
- ^ 山口, 育人 (1999-07-01). “アトリー労働党政権の対外経済政策と植民地”. 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY 82 (4): 624–658. doi:10.14989/shirin_82_624. ISSN 0386-9369 .
- ^ British note recognising the People's Republic of China
- ^ Taiwan-UK Relations - Taipei Representative Office in the U.K. 駐英國台北代表處
- ^ Farrington, Anthony, "Britain, China, and Tibet, 1904-1950".
- ^ Thorpe, Andrew. (2001) A History of the British Labour Party, Palgrave; ISBN 0-333-92908-X
- ^ Letter from Mao Zedong to Clement Attlee sells for £605,000China
関連項目編集
外部リンク編集
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