クロード・シェソンフランス語: Claude Cheysson1920年4月13日 - 2012年10月15日)は、フランス政治家。1981年5月から1984年12月まで外務大臣を務め、それ以前は欧州委員会の委員などを歴任した。

クロード・シェソン
Claude Cheysson
1981年11月26日
生年月日 (1920-04-13) 1920年4月13日
出生地 フランス パリ
没年月日 (2012-10-15) 2012年10月15日(92歳没)
死没地 フランスの旗 フランス パリ
出身校 エコール・ポリテクニーク
エコール国立行政学院
所属政党 社会党
配偶者 ダニエレ・シュワルツ・シェソン[1]
子女 3人

在任期間 1989年7月25日 - 1994年7月18日
議長 フランソワ・ミッテラン
チャールズ・ホーヒー
ジュリオ・アンドレオッティ
ジャック・サンテール
ルート・ルベルス
アニーバル・カヴァコ・シルヴァ
ジョン・メージャー
ポール・シュルーター
ポール・ニルップ・ラスムセン
ジャン=リュック・デハーネ
アンドレアス・パパンドレウ

内閣 第1次ピエール・モーロワ内閣
第2次ピエール・モーロワ内閣
第3次ピエール・モーロワ内閣
ローラン・ファビウス内閣
在任期間 1981年5月22日 - 1984年12月7日
大統領 フランソワ・ミッテラン
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生涯 編集

1920年4月13日、パリに誕生する。第二次世界大戦の間は国外に逃れ、ルクレール将軍の第2機甲師団英語版(現在の第2機甲旅団)に加わり、第12アフリカ騎兵連隊[訳語疑問点]で少尉を務めた。1948年に外務省へ入省し、その後は西ドイツとの連絡部門の責任者となった。

外務省での役職を移る中で、1952年4月にフランス領インドシナ政府大統領の参事官[訳語疑問点]、1954年6月から1955年3月にピエール・マンデス=フランス首相の官房長官[訳語疑問点]、1957年8月から1962年8月にアフリカ技術協力委員会[訳語疑問点]幹事長[訳語疑問点]、1962年8月から1966年5月にサハラ機構[訳語疑問点]理事[訳語疑問点]、1966年6月から1970年1月にインドネシア大使を務めた。

1973年4月には欧州委員会の委員に任命された。1977年1月まで務めた最初の役職は、開発政策・協力・予算・財政管理を担当するものだった。1977年1月から1981年5月の間は開発担当の長[訳語疑問点]を務めた。

1981年5月から1984年12月まで外務大臣として本国政府の一員となった。彼の時に省の名称がミニストリー・オブ・ジ・エクスターナル・リレーションズ(Ministry of the External Relations)に変わったが、1986年には元の名前に戻った。シェソンはドロール委員会に加わり、1985年1月から1989年1月の間は地中海政策と南北関係に関する責任者となった。

2012年10月15日、パリにて92歳で死去した[2]

家族 編集

1969年10月にダニエレ・シュワルツ・シェソンと結婚し[3]、3人の子女が誕生した。なお他の3人は以前の妻との間に誕生している。

脚注 編集

外部リンク 編集

先代
ジャン・フランソワ=ポンセ
  フランス外務大臣
第9代:1981年5月22日 - 1984年12月7日
次代
ローラン・デュマ