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フラウィウス・グラティアヌスラテン語: Flavius Gratianus, 359年4月18日5月23日 - 383年8月25日)は、ローマ帝国皇帝(在位:375年 - 383年)。

グラティアヌス
Flavius Gratianus
ローマ皇帝
Gratian Solidus.jpg
グラティアヌスが印された硬貨
在位 375年 - 383年

出生 359年4月18日/5月23日
ローマ帝国下パンノニア属州シルミウム
死去 (383-08-25) 383年8月25日(24歳没)
ローマ帝国ガリア・ルグドゥネンシス属州ルグドゥヌム
配偶者 フラウィア・マキシマ・コンスタンティア(コンスタンティウス2世の娘)
  ラエタ
子女 男子(母はコンスタンティア)
王朝 ウァレンティニアヌス朝
父親 ウァレンティニアヌス1世
母親 マリア・セウェラ
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グラティアヌスが印された硬貨

生涯編集

ウァレンティニアヌス1世の長男として生まれ、7歳で西方正帝の称号を受ける。父帝死亡時はまだ16歳にすぎなかったが、弟のウァレンティニアヌス2世とローマ帝国西方の統治者として跡を継いだ。378年、東帝ウァレンスハドリアノポリスの戦いで戦死した後、グラティアヌスは隠遁生活を送っていた小テオドシウス(後のテオドシウス1世)をローマ帝国東方の共同皇帝に任命した。小テオドシウスの隠遁のきっかけとなった大テオドシウス(小テオドシウスの父)の処刑を指示したのはグラティアヌスであったが、大テオドシウスの名誉回復を約束することで協力させた。

政治では、ミラノの司教アンブロジウスの影響で、父帝の穏健な宗教政策から離れ、最高神祇官の称号を拒否したり、女神ウィクトリアの祭壇を元老院から撤去させたりした。 383年、マクシムスがブリタンニアで挙兵してガリアに進軍を開始すると、それを迎え撃ったが、歩兵長官メロバウデスの裏切りで敗走し、ルグドゥヌム(現リヨン)で殺害された。24歳没。

家族編集

前王朝のコンスタンティヌス朝ウァレンティニアヌス朝の皇統の連続性を示す為にコンスタンティウス2世の唯一の実子コンスタンティアと374年に15歳で結婚。妻コンスタンティアは12歳頃と考えられている。コンスタンティアは383年に死去。死亡日は不明だがグラティアヌス死去時には後妻にラエタという女性の存在が確認できることからして、グラティアヌスが殺害される8月25日より前と考えられている。ヒエロニムスが著した『ヒエロニムスの年代記』によれば383年12月1日にコンスタンティアは埋葬されている(埋葬場所は不明)。没年齢は20〜22歳頃とされる。コンスタンティアとの間に生まれた男子(名前不明、374年以降生誕 - 没年不明)の消息は記録がなく不明である。

後妻ラエタとの間に子女はいない。ラエタは410年アラリック1世ローマ略奪まで存命していることが記録から確認できる(ローマが包囲され食べる物の不足に苦しむ市民に食料を分け与えている記録がある。アラリック1世によるローマでの3日間の略奪で死亡したか、生き残ったかは分かっていない)。

関連項目編集