ゲルトルート・キュックリヒ

宣教師、社会事業家

ゲルトルート・エリザベート・キュックリヒ(Gertrud Elizabeth Kücklich[1]1897年12月25日[2] - 1976年1月2日[2][3])は、おもに日本東京と埼玉で活動したドイツ出身の宣教師社会事業家フィランソロピスト

名の日本語表記には揺れがあり、原語での名を Gertrude[2]としてゲルトルード[4]、ないし、ゲルトルドとしたり[5]ミドル・ネーム英語読みでエリザベスとすることもある[4]

経歴 編集

ドイツ帝国シュトゥットガルト[2][3]牧師の四女として生まれる[1]ペスタロッチ=フレーベル・ハウス (Pestalozzi-Fröbel-Haus) を卒業[2]。その後南ドイツの教育専門学校に学ぶ。

1922年[6]、ドイツに伝道していたアメリカの福音教会の宣教師として、アメリカの本部から日本に派遣され、来日[3]小石川日本語を学びながら、小石川福音教会に併設されていた孤児収容施設愛泉寮(これは戦後の愛の泉や愛泉寮とは別のものである)や保母養成所で奉仕し、東京の下町で、向島教会(現在の聖和教会)の設立やその後の伝道を助けた。来日した年に関東大震災に遭遇するが、鐘淵紡績の工場に近い赴任先の教会で地域住民を支援し、また教会内に託児所を設け[7]、やがて鐘ケ淵子供の家を設立した[1]。日本語も上手く「地域の子どもたちのあこがれ」であったという[7]1926年には、東京保育女学院(後に東洋英和女学院師範科と合併)を設立した[1]

第二次世界大戦中も帰国せず、日本に留まり[3]、戦後は乳児院や高齢者福祉施設の設立に尽力し[2]、1945年、埼玉県加須市の岡安ゴムの寮の敷地内に、後の社会福祉法人「愛の泉」となる孤児院を開設し、さらに藤崎五郎牧師と協力して、愛泉寮教会(後の日本基督教団愛泉教会)を設立した[8]社会福祉法人愛の泉理事長、キリスト教保育連盟副理事長などを歴任した[3]保育者養成にも力を尽くし、東洋英和女学院短期大学保育科教授草苑保育専門学校講師和泉短期大学教授などを歴任した。

日本国政府から勲四等瑞宝章西ドイツ政府から一等功労十字勲章を贈られた[3]

1976年、正月の休暇を過ごしていた高輪プリンスホテルで亡くなり、加須の愛泉教会墓地に埋葬された。加須市名誉市民となり、胸像が加須市役所に設置された。財団法人「キュックリッヒ記念財団」が設立されたが、現在は解散している。

おもな著書 編集

  • ゲルトルド・キユツクリヒ『學齡前に於ける宗教々育』(一)-(五)(基督教出版社、1932年)

出典・脚注 編集

  1. ^ a b c d 谷田貝公昭 編「キュックリヒ」『保育ミニ辞典』、175頁https://books.google.co.jp/books?id=hUdfRhK5cpIC&pg=PA175&lpg=PA175&dq=%22東京保育女学院%22&source=bl&ots=vPOL1-BZwZ&sig=OxJ2T8wOy9jYZh_8AJG18PWu5uY&hl=ja&sa=X&ei=XkPZUISYBejFmQWowoHABg&redir_esc=y#v=onepage&q=%22東京保育女学院%22&f=false2012年12月25日閲覧 
  2. ^ a b c d e f デジタル版 日本人名大辞典+Plus『キュックリヒ』 - コトバンク
  3. ^ a b c d e f “ゲルトルート・E・キュックリヒさん(訃報)”. 読売新聞・朝刊: p. 19. (1976年1月4日)  - ヨミダス歴史館にて閲覧
  4. ^ a b 愛泉教会のご紹介”. 社会福祉法人 愛の泉. 2020年7月26日閲覧。
  5. ^ 学齢前に於ける宗教々育 1 (基督教宗教々育講座 ; 5)”. 国立国会図書館. 2020年7月26日閲覧。
  6. ^ 読売新聞訃報では「大正十二年」(1923年)とあるが、キュックリヒ記念財団、コトバンクの記載を優先させた。
  7. ^ a b 前田遼太郎 (2012年12月24日). “(東京の記憶)鐘淵紡績 遷移の町 下町人情 日本の経済成長牽引”. 読売新聞・朝刊・都民版: p. 31 
  8. ^ “キリスト教の福祉事業 乳児から老人まで 社会福祉法人「愛の泉」”. 読売新聞・朝刊: p. 11. (1966年3月20日)  - ヨミダス歴史館にて閲覧

外部リンク 編集