ココチュ (寧王)

モンゴル帝国の皇族

ココチュ(Kököčü,モンゴル語: Хөхчү,中国語: 闊闊出,? - 1313年)とは、モンゴル帝国第五代皇帝クビライ・カーンの庶子で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では寧王闊闊出、ペルシア語史料ではكوكچو Kūkuchūと記される。

概要編集

『集史』によると、ココチュの母親はモンゴル帝国建国の功臣であるボロクルの娘フシュチン(هوشیجینHūshījīn)であったという。フシュチンはクビライの妃(ハトゥン)たちの中では比較的身分が低く、フシュチンより生まれたココチュとアヤチはクビライの諸子の中でも扱いの低い存在であった。

1275年、ココチュは異母兄でありモンゴリアを統轄する北平王ノムガンの指揮下に入り、中央アジアを支配するカイドゥとの戦いに従軍した。ノムガンはカイドゥ軍を打倒するためにアルマリクへと急襲をかけたが、ソゲドゥの息子トク・テムルとモンケの息子シリギが叛乱を起こしノムガン・ココチュ兄弟とアントンを捕縛してしまった。ノムガン・ココチュはシリギらによってジョチ・ウルスモンケ・テムルの下へ送られ、長く監禁状態に置かれることとなった[1]

至元21年(1284年)、クビライの下に帰還したココチュは第五ランクの寧遠王に封ぜられた。これはクビライの嫡子やフゲチ・アウルクチに比べるとランクの低い王号であったが、王号を与えられなかった同母兄のアヤチなどの庶子に比べれば好待遇であった。

大徳二年(1298年)冬、カイドゥ配下のドゥアは密かにモンゴリアに出兵しココチュ軍に攻撃を仕掛けたところ、宴会を開いて酩酊していたココチュ軍は応戦できず、唯一奮戦したコルクズ駙馬は捕らえられてしまった。カーンの処罰を恐れたココチュは数度の召喚にも応えずカーンの下に戻らなかったため、テムル・カーンはアジキを送ることでようやく参内させたという[2]

このココチュの怠慢からくる失態を契機として、モンゴリアにおける対カイドゥ戦線の司令官にカイシャン(後の第七代モンゴル皇帝)が起用された[3]。これは当時実権を握っていたブルガン・ハトゥンによる次代カーンの有力な候補者の「厄介払い」という側面もあったが、カイシャンはカイドゥとの戦いで力闘奮闘することによって有力将軍・王侯の支持を得ることに成功した。

テムル・カーンが死去した際、ブルガン・ハトゥンは安西王アナンダを擁立しようと企んだものの、ブルガンの専横に反感を抱く官僚によってテムルの兄ダルマバラの遺児(カイシャン・アユルバルワダ)を擁立しようとする運動が起こった。ココチュはアユルバルワダに協力してブルガン・ハトゥンに対するクーデターを成功させたが、アユルバルワダとは別にカイシャンがモンゴリアにおいて諸王の支持を得てカーンに即位するため南下しようとしていた。

そこでココチュとヤクドゥはアユルバルワダに対しカイシャンに遠慮することなくカーン位に即くべきだと進言したが、アユルバルワダはこの意見を退けカイシャンにカーン位を譲ることとなった[4]。カーンに即位したカイシャンは従来限られた人物にしか与えられなかった最高ランクの「一字王号」を頻発し、ココチュもまた「寧遠王」から最高ランクの「寧王」に封ぜられた[5]

至大三年(1310年)、ココチュはカイシャンに対して反逆を企んでいたことが発覚し、獄に下された。ココチュは処刑を免れたものの、ココチュの妻オルジェイは死を賜ることとなった[6]。カイシャンが死去し、アユルバルワダが即位した後もしばらくココチュは存命であったが[7]、皇慶二年(1313年)に入ってココチュは亡くなった[8]

子孫編集

脚注編集

  1. ^ 杉山2004,300頁
  2. ^ 松田1982,2-3頁
  3. ^ 『元史』巻22,「成宗大徳三年、以寧遠王闊闊出総兵北辺、怠於備禦、命帝即軍中代之」
  4. ^ 『元史』巻24,「[大徳十一年春正月]諸王闊闊出・牙忽都等曰「今罪人斯得、太子實世祖之孫、宜早正天位」。帝曰「王何為出此言也!彼悪人潛結宮壼、構乱我家、故誅之、豈欲作威覬望神器耶?懐寧王吾兄也、正位為宜」。乃遣使迎武宗於北辺」
  5. ^ 『元史』巻22,「[大徳十一年六月]己未、封寧遠王闊闊出為寧王、賜金印」
  6. ^ 『元史』巻23,「[至大三年二月]己巳、寧王闊闊出謀為不軌、越王禿剌子阿剌忒納失里許助力、事覚、闊闊出下獄、賜其妻完者死、竄阿剌忒納失里及其祖母・母・妻於伯鉄木児所」
  7. ^ 『元史』巻24,「[皇慶元年八月]甲申、賜諸王闊闊出金束帯一・銀百五十両・鈔二百錠」
  8. ^ 『元史』巻24,「[皇慶二年春正月]丙午、寧王闊闊出薨」

参考文献編集

  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 松田孝一「カイシャンの西北モンゴリア出鎮」『東方学』、1982年
  • 新元史』巻114列伝11
  • 蒙兀児史記』巻76列伝58