コルネリス・ヘンドリクス・マッテーウス・フォック(Cornelis Hendricus Mattheus Fock、1845年9月23日 - 1883年2月4日)は、明治時代にお雇い外国人として来日したオランダ医師である。日本名は漢字で保阿倔等と表記される。

経歴・人物 編集

ユトレヒトの生まれ。ユトレヒト大学に入学し、後に幕末から明治時代のお雇い外国人となるアントニウス・ボードウィンから医学を学ぶ。

卒業後、1877年(明治10年)に日本政府の招聘により来日した。新潟に在住し、新潟医学校(現在の新潟大学医学部)の教師であった竹山屯の勧めで同校に着任し、眼科学産婦人科学解剖学医学に関する多彩な学問の教鞭を執った。1879年(明治12年)からは長崎に移住し、長崎医学校(現在の長崎大学)にて教鞭を執る等、地方での医学おける西洋化に貢献した。

この間にフォックはヨーロッパ旅行のため一旦帰国し、再度来日するが長崎で急逝した。なお、フォックの墓は大浦外国人墓地に所在する。

著書 編集

  • 『眼科提要』- 1879年(明治12年)に刊行。中根重一との共著で、新潟医学校の教師であった竹山と共に翻訳した。現在は新潟大学付属図書館が所蔵している。

出典 編集

外部リンク 編集