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コルベルク』(ドイツ語: Kolberg) はドイツの長編映画であり、1943年から1944年にかけてファイト・ハーランドイツ語版監督のもと撮影された。封切は1945年1月30日、ナチス政権獲得12周年記念日であった。首都ベルリンと、抵抗を続けていた大西洋要塞ドイツ語版ラ・ロシェルフランス)で同時に公開が行われた。

コルベルク
Kolberg
監督 ファイト・ハーランドイツ語版
脚本 ファイト・ハーラン
アルフレート・ブラウンドイツ語版
テア・フォン・ハルボウ
製作 ヴィルヘルム・シュパーバードイツ語版
(Universum Film AG (Ufa), Berlin)
出演者
音楽 ノルベルト・シュルツェドイツ語版
撮影 ブルーノ・モンディドイツ語版
編集 ヴォルフガング・シュライフドイツ語版
製作会社 UFA Filmkunst GmbH (Herstellungsgruppe Veit Harlan)
公開
  • 1945年1月30日 (1945-01-30)
上映時間 111 分
製作国 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
言語 ドイツ語フランス語
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制作はUFAであり、アグファ社のカラーフィルムによる天然色映画である。ストーリーはパウル・フォン・ハイゼ作の劇作『コルベルク』とヨアヒム・ネッテルベックドイツ語版の自伝に基づく。この映画はプロパガンダ映画として第二次世界大戦末期にドイツ国民の耐久精神の強化を目的とし、そのため「耐久映画 (Durchhaltefilm)」とも呼ばれている。

目次

ストーリー編集

1806年の秋、ナポレオン・ボナパルトの軍隊は、ドイツの地に順調に軍を進め、コルベルクドイツ語版(現ポーランド領)の要塞を包囲ドイツ語版した。フランスは既にベルリンを占領し、現地司令官ルカドゥードイツ語版は降伏しようとしていた。

しかし勇敢な市民代表ヨアヒム・ネッテルベックドイツ語版は諦めず、市民軍を組織し、全住民の戦闘動員を試みた。農民ヴェルナー (Werner) は、軍事戦略のために進んで犠牲を払い、自らの農場に火を放った[1]。ヴェルナーの娘マリア (Maria) は、英雄的なシル騎兵大尉と恋に落ちるが、シルの新たな任務を前に、彼を諦めるのであった。

若きグナイゼナウ少佐は、新たな都市司令官となり、住民を英雄的闘争へと鼓舞する。そのため、フランス軍は要塞を砲撃するに至る。しかし住民は諦めず、ついにはこの戦いに勝利したのであった。その一方でフランス軍の将軍は口論するばかりであった。

コルベルク包囲戦を「最後の戦い (Endkampf)」の歴史的前例と暗に示すべく、物語の始めと終わりは1813年に設定された。ここでグナイゼナウはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世を前に、コルベルクが救われたこの出来事を語る。これに応えて王は布告「我が民に告ぐドイツ語版」を発し、こうして国民と軍隊が一つとなって、対ナポレオン戦が始まるのであった。

制作編集

ナチス・ドイツ宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスは、1943年6月1日に書面でハーランへ本映画の制作を命じた。ここではこの映画に期待されるプロパガンダとしての機能が詳細に述べられている。

ここに映画大作『コルベルク』の制作を命じる。本作では、題名に冠された都市を模範に、郷土と前線が一体となった国民はいかなる敵にも勝ることを示すものとする。国防軍、国家、党の全部署に対し、必要な場合に援助、支援の申し入れを行う権限を与える。またその際、ここで本職が命じた映画は、我々の精神的戦争遂行に貢献するものと言及することも許可する[2]

製作費は880万ライヒスマルクにのぼり、ナチス時代を通じて最高額となった。映画にはエキストラとしてドイツ国防軍から数千人の兵士、千頭の軍馬が協力し、困難な戦況下、多大な負担となった[3][4]。夏にもかかわらず冬景色のシーンの撮影を可能にするため、撮影地のポンメルンに運ばれたのは、貨車で100両もの塩であった。助監督、編集者のヴォルフガング・シュライフドイツ語版は、1979年にテレビのインタヴューに応え、この映画の火薬担当エルヴィン・ランゲドイツ語版は40万ライヒスマルクの予算を組んでいたと証言した[5]

ゲッベルスは映画の完成後、大幅なカットを行った。猛烈な空襲に見舞われたドイツの都市を考慮したためである。例えばコルベルク市民がナポレオンの強力な砲火に殺戮されるシーンは精巧であったため、上映には不適切としたのである。ルイ・フェルディナント公の死亡シーンもカットされたが、印刷されたプログラムでは掲載され、この役を演じたヤスパー・フォン・エルツェンドイツ語版もクレジットされている[6]

反響編集

当時編集

封切は1945年1月30日に行われた。場所は連合軍包囲下のUボート基地ラ・ロシェルベルリンタウエンツィーンパラストドイツ語版の2か所同時であった。その後、包囲下にあるケーニヒスベルクブレスラウダンツィヒや、他の主要都市の映画館で上映された。この他にヒトラーユーゲントの青少年映画鑑賞や、ドイツ国防軍武装親衛隊の新兵に上映された。ベルリンでは、『ほら男爵の冒険』と同じく、1945年4月まで上映された。上映は大型映画館の2館で行われ、客席総数は2,000席以上にのぼった。しかし観客は減少の一途をたどった。1945年3月には、31回目の上映日を迎えたが、総客席数1,053席のベルリンのタウエンツィーンパラストでは、午前の観客は91人、午後は204人であった。その一方、ミュンヒハウゼン男爵の物語を描いた『ほら男爵の冒険』の入場券は完売であった[7]。要するに映画の内容は、観客に受けなかったのである。『コルベルク』が、望み通りのプロパガンダ効果を挙げるには、明らかに時期が遅すぎた。1945年3月18日にソ連赤軍とポーランド人部隊によってコルベルクは陥落した。ゲッベルスは、ドイツ国防軍が国防軍軍報ドイツ語版でこれに言及することを禁じた。

映画では、人々が隊列を組んでテオドール・ケルナードイツ語版の詩「男児と小児 (Männer und Buben)」をもとにした歌を歌う。「民は立ち上がり、嵐は起きる! (Das Volk steht auf, der Sturm bricht los!)」。ほぼ同じ言葉を、ゲッベルスは1943年2月にスポーツ宮殿演説の終末に使用していた。「今こそ、[国]民よ、立ち上がれ、そして嵐よ、起きよ! (Nun, Volk, steh' auf, und Sturm, brich los!)」

『コルベルク』は、ナチス・ドイツにおける映画の最優秀賞である「国民の映画ドイツ語版」を受賞した最後の映画だった。

戦後編集

この作品は1945年以降、連合軍占領下ドイツの全体で禁止され、今日でもなお「留保付き映画ドイツ語版」である。1965年、本作は『コルベルク-1945年1月30日 (Kolberg – Der 30. Januar 1945)』とタイトルを新たに上演された。新版ではドキュメンタリーが挿入され、相応な個所で観客にナチスのプロパガンダとの平衡関係を明確にするものであった。付加された資料において、ファイト・ハーランは数々の意見を述べているが、事実とは異なるものであった。制作はアドルフ・ヒトラーの直接命令によるものとし、また、パウル・フォン・ハイゼの作品を原案としたことを伏せた。エキストラ数では兵士18万7,000人、または国防軍の18個師団とし、歴史的背景についても、ティルジットの和約の後、フランス軍がコルベルクを占領した、などというものであった。これらは以降、精査されることもなく、他の出版物に引用される結果となった。この版の上映期間は短かった。抗議が多数寄せられ、中止されたためである。

テレビ局ARTEは、1998年3月22日にこの作品の原典版を放映した。これはハインリヒ・ゲオルゲをテーマにした放送プログラムの一環であった。本編の前には、本作成立を描くドキュメンタリーが放映された。

『コルベルク』の上映にはフリードリヒ=ヴィルヘルム=ムルナウ財団ドイツ語版の同意が必要である。財団は関心を持つ者に「教材 (Arbeitsmaterialien)」を提供しているが、1965年に制作された資料が付けられている。なおこのテキストでは、コルベルクは包囲後「フランス軍に占領された」という事実と異なる主張が再掲されている[8]

参考文献編集

  • Paul Heyse: Kolberg. Historisches Schauspiel in 5 Akten. 446.–450. Tausend. Cotta, Stuttgart 1935.
  • ATLAS-Filmhefte. Doppelheft 61, 1965, ZDB-ID 43739-6
  • Bogusław Drewniak: Der deutsche Film 1938–1945. Ein Gesamtüberblick. Droste, Düsseldorf 1987, ISBN 3-7700-0731-X, S. 196.
  • Klaus Kreimeier: Die Ufa-Story. Geschichte eines Filmkonzerns. = Ufa. Hanser, München u. a. 1992, ISBN 3-446-15214-8.(邦訳:クラウス・クライマイアー『ウーファ物語―ある映画コンツェルンの歴史』平田達治、宮本春美、山本佳樹、原克飯田道子、須藤直子、中川慎二訳、鳥影社・ロゴス企画部、2005年。ISBN 978-4886298720
  • Frank Noack: Veit Harlan – „Des Teufels Regisseur“. Belville, München 2000, ISBN 3-923646-85-2.
  • Rolf Giesen, Manfred Hobsch: Hitlerjunge Quex, Jud Süß und Kolberg. Die Propagandafilme des Dritten Reiches. Dokumente und Materialien zum NS-Film. Schwarzkopf & Schwarzkopf, Berlin 2005, ISBN 3-89602-471-X.
  • Günter Brittinger: Ferdinand von Schill in der Zeit des Nationalsozialismus. In: Veit Veltzke (Hrsg.): Für die Freiheit – gegen Napoleon. Ferdinand von Schill, Preußen und die deutsche Nation. Böhlau, Köln u. a. 2009, ISBN 978-3-412-20340-5, S.305–339, bes. 309–322 (mit zahlreichen Abb.)

外部リンク編集

脚注編集

  1. ^ 注:独ソ戦では両国とも退却に際し、実際に焦土作戦を行った。
  2. ^ エルヴィン・ライザードイツ語版による引用: „Deutschland, erwache!“ Propaganda im Film des Dritten Reiches. Rowohlt Verlag, Reinbek bei Hamburg 1968, S. 104 f.
  3. ^ Filmhistoriker Gert Koshofer in der Dokumentation Münchhausen – Ein Mythos in Agfacolor, DVD Münchhausen. Transit Classics – Deluxe Edition.
  4. ^ www.dhm.de, [1]の記事でも、兵員数は5,000人とされている。
  5. ^ Filmarchiv Kay Weniger.
  6. ^ http://www.jenspeterkutz.de/IFK_2.jpg.
  7. ^ Drewniak, S. 196.
  8. ^ Beitrag von Gehard Schoenberner, S. 122 in: Friedemann Beyer (Hrsg.): Arbeitsmaterialien zum Nationalsozialistischen Propagandafilm: Kolberg, Zusammenstellung und Text Dr. Gerd Albrecht, Friedrich-Wilhelm-Murnau-Stiftung, Wiesbaden 2006 (Compactdisc).