ゴードン・ハスケルGordon Haskell1946年4月27日 - 2020年10月15日)は、イングランド出身のミュージシャンベーシストギタリスト作曲家作詞家

ゴードン・ハスケル
Gordon Haskell
ゴードン・ハスケル(2004年)
基本情報
出生名 Gordon Haskell Hionides
生誕 (1946-04-27) 1946年4月27日
出身地 イングランドの旗ドーセット州ヴァーウッド
死没 2020年10月16日(2020-10-16)(74歳)
ジャンル ロック
職業 歌手
作詞家
作曲家
ベーシスト
ギタリスト
担当楽器 ベースギター
活動期間 1965年 - 2020年
共同作業者 フルール・ド・リス
キング・クリムゾン
ジョー
公式サイト gordonhaskell.com

略歴 編集

ハスケルは、1946年にドーセット州ボーンマスの産院にて生まれた。1961年、学友のロバート・フリップからギターの手ほどきを受け、7月終わりにフリップ、ティノ・リチニオ[注釈 1]とザ・レイヴンズ (The Ravens)を結成してベース・ギターを担当[1]。ザ・レイヴンズは、9月にウィンボーンにあるウェスト・ムーア・ユース・クラブの教会で初めてのステージに立った[2]が、1962年8月に解散した。

1964年3月、ダグラス・ワードのトリオやホテル専属バンドでセミプロ活動を続けていたフリップと、ハスケル、リチニオが再結集し、ドラマー[注釈 2]とボーカリスト[注釈 3]を迎えて、ザ・リーグ・オブ・ジェントルメン(The League of Gentlemen)を結成。ビートルズロイ・オービソンフォー・シーズンズなど、主に当時のヒット曲を演奏した[3]。彼等は地方紙にドーセットの地元バンドとして紹介されたがレコード・デビューには至らず、1965年夏にはフリップが学業専念のために脱退。残りのメンバーは秋まで活動してから解散した[注釈 4][4] [5]

彼は次に、ザ・ダウランド・ブラザーズ[注釈 5]のツアーに参加した。その途中、観客からフルール・ド・リス [注釈 6]The Fleur de Lys)がベーシストを募集していると聞いて、1965年末に加入。彼はロンドンに出て、アニマルズが住んでいたリンゴ・スター所有の豪邸に1966年中頃から8ヶ月間下宿。アニマルズのチャス・チャンドラーが米国から連れて来たジミ・ヘンドリックスとも同居した[6][7]。1966年3月、フルール・ド・リスのセカンド・シングル「サークルズ[注釈 7][注釈 8]でレコード・デビュー。1967年からフルール・ド・リスの三代目マネージャー[注釈 9]に就いた人物がアトランティック・レコードの英国部門のヘッドだった事もあり、セッションやバック・バンド活動にも数多く参加して様々な歌手のレコードや作曲家のデモでもベースを弾いた。この時期初めて他の歌手[注釈 10]に「レイジー・ライフ」という楽曲を単独で提供[注釈 11]。この曲は南アフリカでシングル・チャートで最高2位を記録し、二つの州では1位に輝いた。1968年4月、フルール・ド・リスを脱退[8]。既にヒット曲を出していたザ・フラワー・ポット・メンキューピッズ・インスピレーションといったグループのツアーに参加。

この当時、書き貯めていた曲をマネージャーと売り込み、キューピッズ・インスピレーションのプロデューサーであったジミー・ダンカンの手によりソロ・アルバムを制作。1969年9月、ファースト・ソロ・アルバム『セイル・イン・マイ・ボート』とファースト・シングルを英CBSより発表[9]。またこの年、旧友のフリップが結成したキング・クリムゾンのリハーサルを度々見学に訪れていた。

1970年春、キング・クリムゾンのセカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ』に客演して、「ケイデンスとカスケイド」(Cadence And Cascade)でボーカルを担当[10]。フリップの熱心な誘いを受けキング・クリムゾンにベーシスト兼ボーカリストとして加入し、1970年夏、サード・アルバム『リザード』に参加した[11]。しかしアルバム制作終了後の秋に行なわれたライブ用リハーサルの初日にフリップと衝突して即座に脱退[12][13]。その後、レコード・プロデューサーのジョン・ミラー[注釈 12]の勧めで、英国訪問中だったアトランティック・レコードの会長のアーメット・アーティガンに面接して、その場で歌ってレコード契約を得た。

1971年夏、セカンド・アルバム『歳時記』を制作。解散したモーグル・スラッシュジョン・ウェットン(ベース・ギター)とビル・アトキンソン(ビル・ハリソン、ドラムス)、ハスケルと同じくドーセット州出身でかってダウランズでもプレイしていたアラン・バリー[注釈 13](ギター)らが参加した。ロンドンでの収録後、プロデューサーのアリフ・マーディンがニューヨークのスタジオで追加録音とマスタリングを行なったが、ハスケルは帯同しなかった。11月、ロンドンのレインボー・シアターでウィッシュボーン・アッシュマウンテンらと共演。その後スタックリッジ、オーディエンスと共にツアーに出た。アルバム発売から9ヵ月後にはソロ歌手を諦め、ティム・ハーディン、フルール・ド・リス時代の同僚だったギタリストのブリン・ハワース[14]等のバック・バンドでベーシストを勤めた。1974年、スタックリッジとセッションをするも正式加入には至らなかった[注釈 14]。ハワースのファースト・ソロ・アルバム『レット・ザ・デイズ・ゴー・バイ』に参加。1976年、ハワースのBBCラジオ出演の際のバック・バンドで加藤ヒロシ、ジム・ラッセルと知り合い、バンド「ジョー」を結成して、ディスコ音楽作品を制作し、翌1977年にはシングルを発表[注釈 15]。同年、山口百恵がロンドンで制作したアルバム『GOLDEN FLIGHT』にジョーのメンバーらと参加し、百恵のロンドン観光に自分の自動車を提供している[15]。この年の6月から一ヶ月、尺八奏者村岡実のアルバム制作のため初来日を果たしており、レコーディングの合間に加藤ヒロシの故郷の関西で唯一の日本公演を行った。この当時セッション仕事のない日にレストラン・バーで歌っていた際の仲間[注釈 16]の紹介で、クリフ・リチャード・バンドのツアーに12週間参加した[16][注釈 17]

1979年、RCAと2年間のソングライター契約を結び、1967年にハスケルが提供した歌「レイジー・ライフ」を唄ったビル・キンバー[注釈 18]によるプロデュースでサード・アルバムの制作に入るもテスト盤止まりで発売されず、そのセッションからシングル盤4枚が発売されたのみに終わった[注釈 19]

1984年以降はスペインや北欧など各地で酒場巡りの弾き語り歌手をするなどして過ごしていた。1989年、自身のレーベルWilderness Recordsを立ち上げ、翌1990年に11年ぶりのソロ・アルバム『ハンブルドン・ヒル』を発表。

2001年末、クリスマス・ソングとして発表した'How Wonderful You Are'が全英シングル・チャート2位のヒットとなり、翌2002年春に発表した通算9作目のアルバムHarry's Barも全英アルバム・チャート2位を記録した。2007年、ドーセットの自宅からギリシャのスコペロス島に妻ら家族と移住[17]。プロ活動50周年にあたる2015年の年頭に5年ぶりのシングル曲'I'm letting everybody know'を発表し[注釈 20]、年末から久しぶりの英国ツアーを行なった。2016年末、英国に住まいを戻し、活動を再開した。

2020年1月24日、10年ぶりのアルバムThe Cat Who's Got The Creamを発表。ツアー開始をアナウンスするもコロナ禍で中止となった。

2020年10月18日、15日にガン闘病の末に亡くなったことが報じられた[18]

ディスコグラフィ 編集

ソロ・アルバム 編集

  • 『セイル・イン・マイ・ボート』 - Sail In My Boat (1969年)
  • 『歳時記』 - It Is And It Isn't (1971年) ※ルクセンブルク・アルバムチャート最高8位。(日本が世界初CD化)
  • 『サード』 - Serve at Room Temperature (1979年) ※LPはテスト盤のみ、1997年CDにて正式発売。
  • 『ハンブルドン・ヒル』 - Hambledon Hill (1990年)
  • 『ドライヴ・ユー・クレイジー』 - It's Just a Plot to Drive You Crazy (1992年)
  • Voiceprint Radio Sessions (1994年) ※ミニアルバム
  • Butterfly in China (1996年)
  • 『オール・イン・シーム・オヴ・シングス』 - All In The Scheme Of Things (2000年9月11日)
  • Harry's Bar (2002年4月2日)
  • Shadows On The Wall (2002年10月14日)
  • Look Out (2003年)
  • The Lady Wants To Know (2004年10月4日)
  • Gordon Haskell w Szczecinie Live! (2008年) ※ポーランド盤のみ。
  • The Road To Harry's Bar, All Hits Live (2008年)
  • One Day Soon (2010年9月24日)
  • The Cat Who’s Got The Cream (2020年1月24日)

ソロ・シングル 編集

  • "Boat Trip / Time Only Knows"(1969年9月12日)
  • "Oo La Di Doo Da Day / Born To Be Together" (1970年2月13日) ※A面のみシングルヴァージョン別アレンジ
  • "Sitting By The Fire" (1972年) ※アメリカ盤のみ
  • "People Don't Care / Silhouettes" (1979年5月18日)
  • "I Need Your Love So Much / Living In The Attic" (1980年)
  • "Castles In The Sky / My Baby" (1980年)
  • "5-10-15 / Whisky" (1981年) ※A面のみアルバム未収録
  • "Hambledon Hill / Mystical Allusion" (1990年)
  • "How Wonderful You Are / A Little Help From You" (2001年)
  • "There Goes My Heart Again" (2002年) ※3曲入りマキシシングル
  • "The Music Played" (2003年) ※Gordon Haskell & Maarit名義。シングルはドイツ盤のみ。ジャケット変更されたフィンランド盤「Shadows On The Wall」にもこの曲は収録されている[注釈 21]
  • "The Lady Wants To Know / Tell Me All About It (Edit)" (2004年)
  • "Everybody Wants To Go To Heaven" (2006年) ※3曲入りマキシシングル、アルバム未収録
  • "Take My Breath Away" (2008年9月) ※アルバム未収録
  • "Forevermore" (2010年)
  • "I'm letting everybody know" (2015年1月)
  • "II'm Still Mad About You" (2019年9月)

キング・クリムゾン 編集

フルール・ド・リス 編集

  • Reflections (1997年) ※1965-1969年バンド関連シングル集
  • 『ユーヴ・ゴット・トゥ・アーン・イット』 - You've Got To Earn It (2013年) ※未発表曲を含む

主な他アーティスト参加作品 編集

  • William E: "Lazy Life" (1967年) ※初シングルA面提供楽曲、後にQuentin E Klopjaeger名義南ア再録音盤がヒット。
  • Rupert's People: "Reflections Of Charles Brown" (1967年) ※英シングルチャート最高20位。豪チャート最高13位。バンド名義は違うがフルール・ド・リスの演奏。
  • Sharon Tandy: "Stay With Me" (1967年) ※B面の「Hold On」をA面にしての英国シングル再発は1968年。西ドイツ等でヒット[注釈 22]
  • Donnie Elbert: Tribute To A King (1968年)
  • John Bromley: Sing (1969年) ※制作は1968年
  • Cupid's Inspiration: Yesterday Has Gone (1969年) ※同名シングルではなくアルバムのみ。
  • Bryn Haworth: Let The Days Go By (1974年)
  • Garth Hewitt: Love Song For The Earth (1976年)
  • イースト・サイド・シャッフル: 「ファンキー・アップ・ダウン」 (1976年) ※日本のみで発売されたディスコシングル。サックスでメル・コリンズが参加。
  • 山口百恵: 『GOLDEN FLIGHT』 (1977年)
  • Joe: "How Can I Resist" (1977年) ※シングル両面ともハスケル作品。サックスでメル・コリンズが参加。
  • Graffiti-House Band: The Golden Twist Party (1977年) ※Joeの変名バンドによるツイストカバー集。参加者は山口百恵『GOLDEN FLIGHT』とほぼ同じ。
  • 村岡実グループ with JOE: 『メモリーズ・オブ・チヨ』(1978)
  • トーヤ: 『オフェーリアズ・シャドウ』 - Ophelia's Shadow (1991年) ※1曲目イントロ部分のキーボードのみ[注釈 23]
  • Kisia Skrzynecka: Koa (2005年) ※1曲目と6曲目にデュエットしている。

映像作品 編集

  • The Gordon Haskell Story (2002年) ※ライブとインタビューDVD。
  • The Road To Harry's Bar (2005年) ※2005年のライブとプロモ映像DVD。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ リーダーでギターとボーカルを担当。2008年没。末期癌でも死の前月まで地元で演奏をしていた。フリップが、自分が主宰するDiscipline Global Mobileのウエッブサイトに掲載した日記によると、晩年まで元メンバーとの交流を絶やさなかったという。
  2. ^ スタンリー・レヴィ。1969年にリチニオ、アラン・バリーとジ・アクトレスというバンドで唯一のシングルを出している。
  3. ^ レグ・マシューズ:ボーンマス地方紙イヴニング・エコーにおいて1965年には年間最優秀ボーカリストに選ばれた。ステージでの芸名はトニー・マシューズ。後にトニー・ヘッドと交代した。
  4. ^ 当時、The League of Gentlemenというバンドがシングルを2枚発表したが、このバンドはハスケルやフリップとは無関係で、のちに名前をLeagueに変えてさらにシングルを1枚発表した。
  5. ^ 後にフリップとジャイルス・ジャイルス・アンド・フリップを結成したマイケル・ジャイルズピーター・ジャイルズの兄弟が、セミプロ時代の1961年秋から1963年秋までバック・バンドで演奏していた。
  6. ^ 日本盤CDフルール・ド・リス『ユーヴ・ゴット・トゥ・アーン・イット』、バンド表記名に準拠
  7. ^ フルール・ド・リスが1965年に出したデビュー・シングルのプロデューサーはジミー・ペイジであったが、ハスケルが参加したセカンド・シングルのプロデューサーはグリン・ジョンズとトニー・キャルダーであった。ハスケルも「当時ペイジには会ったことがない」と述べている。デビュー・シングルもセカンド・シングルも、ローリング・ストーンズの当時のマネージャーだったアンドリュー・ルーグ・オールダムが1965年に設立したイミディエイト・レコードから発表された。ジョンズもキャルダーもローリング・ストーンズの関係者でジョンズはエンジニア、キャルダーはマネージャーであった。
  8. ^ 原曲はザ・フーが1966年3月に発表した「恋のピンチ・ヒッター」のシングルのB面収録曲。2013年に発売された編集CDのThe Fleur De Lys – You've Got To Earn Itで、キース・ガスターは、この曲のリード・ギターを弾いているのはPhil Sawyerによるとしている。
  9. ^ フランク・フェンター。ロイス・フェンター・プロダクション所属女性歌手シャロン・タンディのマネージャーでもあった。
  10. ^ ウィリアムEというビル・キンバーの変名。南アフリカではビリー・フォレスト、クエンティンEクロップイエガー名義でも活躍。南アフリカでは渡英前のシャロン・タンディともレコーディングしていた。
  11. ^ 共作曲の提供ではこの1ヶ月前、Rupert's People、シャロン・タンディがそれぞれ出したシングルB面に収められた「Hold On」がある(1967年7月)。
  12. ^ 当時ジョン・ウェットンに仕事先の世話をしていたプロデューサーでジョージ・マーティンの弟子に当たる人物、ロッド・エドワーズ、ロジャー・ハンドと三人体制のTRIUMVIRATEプロダクションという制作チームで多くのレコードをプロデュースした。ハスケル自伝より。
  13. ^ このセッションの後にフィールズへ参加した。
  14. ^ セカンド・アルバム『歳時記』の楽曲'Worm'が彼らの4thアルバム『エクストラヴァガンザ(幻想狂詩曲)』で'No One's More Important Than the Earthworm'と改題されてカバーされた。
  15. ^ キング・クリムゾン時代の同僚だったサクソフォーン奏者のメル・コリンズも同シングルに参加している。翌1978年にもジョー名義でプロレスラー藤波辰巳のテーマ曲「ドラゴン・スープレックス」がシングルで出ているがハスケルは不参加。コリンズは参加している。
  16. ^ 一緒に組んで歌っていたPete SillsとMike Allisonの自作曲が採用されクリフ・リチャードに歌われた。
  17. ^ このツアー終盤には元フィールズのアラン・バリーも極短期間参加していた。
  18. ^ この年代RCAでプロデューサーになっていた。
  19. ^ 1997年にCDにて正式発表された。
  20. ^ 英国以外ではダウンロード販売のみ。
  21. ^ デュエット相手はフィンランド人女性歌手。オーストリア人歌手ウド・ユルゲンスの「Was ich dir sagen will」(夕映えのふたり)のカバー。日本ではペドロ&カプリシャスがカバーした「別れの朝」というタイトルでも有名。
  22. ^ ハスケルは67年から68年にかけて、シャロン・タンディの数多くののシングルで演奏やコーラスをしている。
  23. ^ 『ハンブルドン・ヒル』と同じボーンマスのCourhouseスタジオ、同じエンジニア、同じドラマーで制作されている。

出典 編集

  1. ^ Smith (2019), pp. 14–15.
  2. ^ ロバート・フリップ日記2003年7月2日より
  3. ^ 『UKプログレッシヴ・ロックの70年代』ゴードン・ハスケル・インタビュー(マーキー・インコーポレイティド、1996年6月)
  4. ^ 同名別バンドメンバー一覧
  5. ^ Smith (2019), pp. 15–16.
  6. ^ ゴードン・ハスケル自伝 the road to harry's bar
  7. ^ Smith (2019), p. 19.
  8. ^ CD:The Fleur De Lys – You've Got To Earn It、キース・ガスターによる10曲目解説文より。
  9. ^ Smith (2019), p. 95.
  10. ^ Smith (2019), p. 84.
  11. ^ Smith (2019), pp. 95–98.
  12. ^ 『クリムゾン・キングの宮殿 風に語りて』シド・スミス著(ストレンジ・デイズ、2007年7月)
  13. ^ Smith (2019), pp. 100–101.
  14. ^ 1973年オランダ・アムステルダム公演
  15. ^ プロデューサー川瀬泰雄氏ラジオ出演より
  16. ^ 1977年10月24日オランダ・ロッテルダム公演
  17. ^ 公式サイトより
  18. ^ Gordon Haskell RIP”. DGM. 2020年10月18日閲覧。

引用文献 編集

  • Smith, Sid (2019). In the Court of King Crimson: An Observation over Fifty Years. Panegyric. ISBN 978-1916153004 

参考文献 編集

  • 『キング・クリムゾン―至高の音宇宙を求めて』(新興楽譜出版社、1981年6月)
  • 『UKプログレッシヴ・ロックの70年代』(マーキー・インコーポレイティド、1996年6月)
  • 『the road to harry's bar』GORDON HASKELL著(MAINSTREAM PUBLISHING、2006年)
  • 『クリムゾン・キングの宮殿 風に語りて』シド・スミス著(ストレンジ・デイズ、2007年7月)
  • 『THE FLEUR DE LYS / CIRCLES』PAUL ANDERSON & DAMIAN JONES著(ACID JAZZ、2009年)

関連項目 編集

外部リンク 編集