サトゥ・マーレ
サトゥ・マーレまたはサトゥ・マレ(ルーマニア語:Satu Mare、発音/'sa.tu 'ma.re/; ハンガリー語: Szatmárnémeti, ドイツ語: Sathmar, イディッシュ語: סאטמאר (Satmar))は、ルーマニア、サトゥ・マーレ県の都市。
サトゥ・マーレ Satu Mare | |||
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位置 | |||
![]() サトゥ・マーレの位置 | |||
位置 | |||
座標 : 北緯47度47分24秒 東経22度53分24秒 / 北緯47.79000度 東経22.89000度 | |||
行政 | |||
国 | ![]() | ||
県 | サトゥ・マーレ県 | ||
市 | サトゥ・マーレ | ||
市長 | Iuliu Ilyés | ||
地理 | |||
面積 | |||
市域 | 150.3 km2 | ||
人口 | |||
人口 | (2007年現在) | ||
市域 | 113,688人 | ||
その他 | |||
等時帯 | 東ヨーロッパ時間 (UTC+2) | ||
夏時間 | 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3) | ||
公式ウェブサイト : http://www.satu-mare.ro/ |
現在ニューヨーク・エルサレム・ロンドンなどルーマニア国外に居住する、ハシディズム・ユダヤ教徒のサトマール派の発祥地である。
地理編集
ルーマニア北西部、ソメシュ川河岸にあり、ハンガリー国境から13 km, ウクライナ国境から27 kmしか離れていない。
人口編集
サトゥ・マーレの人口における民族分布は以下のとおりである。
歴史編集
石器時代より人が定住していた。10世紀初頭、ハンガリーの年代記にゾトマール (Zotmar) という名の要塞があったことが記載されている。年代記によると、3日間の戦いの後、要塞はハンガリーが落としたという。1006年、ハンガリー王妃ギーゼラの要請で、ドイツ人が要塞周辺に移住した。のち、さらなるドイツ移民が、ソメシュ川対岸にミンティウという定住地をつくった。
1543年以後、要塞はバートリ家の所有となり、要塞の南側の防御のため、ソメシュ川の流れが変えられ、要塞はソメシュ川にかかる3つの橋によって通りと結ばれる島の上に建つことになった。1562年にはオスマン帝国軍に要塞を包囲され、次にハプスブルク軍に包囲された。トランシルヴァニア軍は、砦を燃やし、放棄した。その後、イタリアの様式を採用して、5つの塔を持つ五角形の要塞が再建された。
1712年から1715年に、サトゥ・マーレと対岸のミンティウは徐々に合併された。1721年、神聖ローマ皇帝カール6世は統合を認め、同時に王立自由都市とされた。
18世紀には都市化が始まり、蒸気による製粉所、レンガ工場、木製品工場、材木工場など、種々の工場が作られていった。また、19世紀には商業道の交差点の立地であるため、鉄道で周辺の自治体と結ばれた。サトゥ・マーレ - カレイ線は1871年に造られた。そして、1872年にサトゥ・マーレ - シゲトゥ・マルマツィエイ線が続き、1894年にはバイア・マーレ、1900年以降にはアルドゥド、ビクサドに接続した。
1918年のルーマニアとトランシルヴァニアの統一により、サトゥ・マーレはオーストリア=ハンガリーの一部からルーマニアへ併合された。1940年に、第二次ウィーン裁定で、サトゥ・マーレを含む北トランシルヴァニア地域はハンガリーの所有になった。1944年10月に、都市はルーマニアに取り戻された。
経済編集
ハンガリー、ウクライナとの国境に近いため、流通と工業団地の位置に適している。サトゥ・マーレ工業団地は63 haの面積を持つ。サトゥ・マーレで工場を稼働させている会社は、エレクトロラックス、コンチネンタルなどがある。ドイツ、フランスの外資系小売業も市内でスーパーマーケットを展開している。
姉妹都市編集
関連項目編集
- サトゥ・マーレ市電(廃止)