サミュエル・ウェンライト

サミュエル・H・ウェンライト(Samuel H Wainright、1863年4月15日 - 1950年12月7日)は、アメリカ南メソジスト教会宣教師である。

サミュエル・H・ウェンライト
Samuel H Wainright
個人情報
出生 (1863-04-15) 1863年4月15日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国イリノイ州コロンバス
死去 (1950-12-07) 1950年12月7日(87歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国オークランド
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 医師宣教師神学校教授教文館主管
出身校 ミズーリ医学校
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生涯 編集

1857年イリノイ州コロンバス牧師の家庭に生まれる。セントルイス市ミズーリ医学校に行き医師になる。1888年偶然雑誌で大分中学校の英語教師募集の広告を見て、応募する。そして、1888年(明治21年)に大分中学校に入学する。大分中学に勤務しながら、大分南メソジスト講義所(現、日本基督教団大分教会)を開設する。大分中学時代の教え子に、釘宮辰生らがいる。

1890年(明治23年)に神戸に転居する。そこで、パルモア学院の院長に就任。

1890年から1896年にかけて関西学院神学部教授を務め[1]仏教神道文学などを研究する。後に、関西学院普通学部の部長になる。

1906年(明治39年)には米国に一時帰国する。

1912年(明治45年)に基督教文学委員会(基督教興文協会)の主幹になるために再来日する。1923年(大正12年)に関東大震災に被災した基督教興文協会の再建に取り組む。1925年基督教興文協会を教文館と合併させる。そして、教文館の主幹になる。

1933年(昭和8年)に米国に献金を募り、関係各機関と調整をして、教文館ビルを建設する。1938年(昭和13年)に在日宣教師を辞め米国に帰国する。

1950年(昭和25年)に本国アメリカのオークランドの自宅で死去する。

脚注 編集

  1. ^ 「ウェンライト」『日本経済新聞』昭和25年12月12日3面

参考文献 編集

関連項目 編集