サミュエル・ゴールドウィン

サミュエル・ゴールドウィンSamuel Goldwyn、本名: シュムエル・ゲルブフィッシュ、Schmuel Gelbfisz、1879年8月17日 - 1974年1月31日)は、アメリカ合衆国映画プロデューサー

サミュエル・ゴールドウィン
Samuel Goldwyn
Samuel Goldwyn
1919年
本名 Schmuel Gelbfisz
別名義 Samuel Goldfish
生年月日 (1879-08-17) 1879年8月17日
没年月日 (1974-01-31) 1974年1月31日(94歳没)
出生地 ポーランドの旗 ポーランド ワルシャワ
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
職業 映画プロデューサー
 
受賞
アカデミー賞
アービング・G・タルバーグ賞
1946年 映画界への貢献に対して
ジーン・ハーショルト友愛賞
1957年 映画界全体への功績に対して
ゴールデングローブ賞
セシル・B・デミル賞
1972年 生涯功労賞
その他の賞
テンプレートを表示

プロフィール 編集

ポーランドワルシャワポーランドユダヤ人の貧しい家庭に生まれる。親戚を頼ってイギリスに渡り、そこで名前を「Samuel Goldfish」に変える。1898年にアメリカに移住し、セールスの仕事に就き成功を収める。

1917年からプロデューサーとして活躍した。「メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)」の前身、「ゴールドウィン・ピクチャーズ」の創始者となり、姓を正式に「ゴールドウィン」に改めるが、MGM発足前に同社を追われており、MGMとは直接の関係はない。その後、「サミュエル・ゴールドウィン・プロダクションズ英語版」を設立し、第二次世界大戦前後の映画の黄金期において多くの映画の製作指揮を手がけた。1974年にカリフォルニア州ロサンゼルスで没した[1]

受賞歴 編集

アカデミー賞 編集

受賞
1947年 アービング・G・タルバーグ賞
1958年 ジーン・ハーショルト友愛賞
ノミネート
1939年 アービング・G・タルバーグ賞

ゴールデングローブ賞 編集

受賞
1973年 セシル・B・デミル賞

プライベート 編集

結婚歴は2回。2番目の夫人とは彼の死まで連れ添った。

手がけた作品 編集

作品の版権 編集

ユナイテッド・アーティスツRKOと提携して製作した作品の大部分は版権を引き取った後、息子が設立したサミュエル・ゴールドウィン・カンパニー英語版に版権を移した。現在、大部分の作品の版権をアメリカの地域ではワーナー・ブラザース[2]、アメリカ以外の地域ではパラマウント・ピクチャーズミラマックス)がそれぞれ保有する(ただし、『ハリケーン』(1937年)のみの版権をMGM傘下のユナイテッド・アーティスツが保有する。)[3]

家族 編集

息子にプロデューサーのサミュエル・ゴールドウィン・Jr。その息子(サミュエルからは孫)にプロデューサーのジョン・ゴールドウィン、俳優・映画監督のトニー・ゴールドウィン

伝記 編集

  • A.スコット・バーグ『虹を掴んだ男 サミュエル・ゴールドウィン』吉田利子訳 文芸春秋 1990
  • マック・セネット『<喜劇映画>を発明した男 帝王マック・セネット、自らを語る』石野たき子訳、新野敏也監訳 作品社 2014

脚注 編集

  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年8月11日閲覧。
  2. ^ Warner Brothers Acquires Rights to Films from the Samuel Goldwyn Library”. 2022年5月3日閲覧。
  3. ^ Miramax to Manage Films from Samuel Goldwyn's Library” (2012年4月2日). 2022年5月3日閲覧。

関連文献 編集

外部リンク 編集