メインメニューを開く

サルバドール・アジェンデ

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はアジェンデ第二姓(母方の)はゴスセンスです。

サルバドール・ギジェルモ・アジェンデ・ゴスセンス(Salvador Guillermo Allende Gossens、1908年6月26日 - 1973年9月11日)は、チリの政治家。1970年から1973年まで同国大統領であった。

サルバドール・アジェンデ
Salvador Allende
Salvador Allende Gossens-.jpg

任期 1970年11月3日1973年9月11日

出生 1908年6月26日
 チリバルパライソ
死去 (1973-09-11) 1973年9月11日(65歳没)
 チリサンティアゴ
政党 チリ社会党
配偶者 あり
署名 Salvador Allende signature.svg

生涯編集

生い立ち編集

1908年に、チリの港町バルパライソバスク系移民の子孫として生まれる。父方にはフリーメーソン、世俗教育支持の血が流れており、1891年の内戦では普通選挙と世俗教育と労働者階級の組織化推進を主張するバルマセダの側で戦った。一方の母方は敬虔なカトリックの家系で、1891年の内戦では反バルマセダの側についた[1]。こうした家庭内の対立がアジェンデの内戦嫌悪・武力嫌悪の要因になっていたとする説が有力である。そして転々と引っ越しを繰り返しながら様々な背景をもつ各地の子供たちと接した後、16歳のときに通常よりも早く学校を卒業した。このときすでにチリ社会の不平等を感じていたアジェンデは大学入学を一年遅らせ、陸軍騎兵連隊に正式に入隊した[1]。そして軍隊の中で様々な階級の者たちと直に接する経験を積んだ後、チリ国立大学医学部に入学した。

医師から政界へ編集

チリ国立大学医学部を卒業した後に医師になった。医学生時代は病院の遺体安置所と精神病院でアルバイトをする間にチリ社会の貧困に直に接した[1]。また、医学生時代には政治活動を始めており、言論の自由をテーマに演説を行った際に聴衆の大喝采を浴び学生のリーダー的存在になっていた[1]。博士論文では、精神病院で働いた経験をもとに精神衛生と犯罪をテーマに執筆したが、そこで彼が提案したことは、公的医療制度の創設や衣食住と教育の問題、国家の役割の拡充など、後に彼が議員として主張することと共通する点が多い[1]

外科医になったアジェンデは病院の遺体安置所の助手として遺体の洗浄と検視に従事し、そこでも貧困に接することになった[1]。そして1933年にチリ社会党結成に参加し、1935年にはフリーメーソンに入会した[1]。そして1937年に国会議員(下院)に選出された。当時のチリでは、社会保険加入率が13%、労働者の収入の87%が衣食住に消えるという有様だったため、アジェンデは国会で「病院に搬入される病人の中で、暖かさと住居だけを必要としている病人が多すぎる」として、政府の医療法案を徹底的に批判した[1]

1938年急進党を中心とする人民戦線政府が樹立されると、その翌1939年にアジェンデは保健大臣として入閣し、医療施設の建設を柱とするプロジェクトを推進した[1]。さらに、この時期からアジェンデは、チリの天然資源に対する主権を回復するための法案を提出していた[1]

1945年には上院議員に選出された[1]が、社会党の独善的体質を批判していたアジェンデは社会党指導部から締め出され、以後、二度と社会党の役職に就くことはなくなる[1]。そして1948年に親米政権が共産党を非合法化して共産党指導部を強制収容所へ送ると、アジェンデは国会の場で、「マルクス主義を信奉する革命家たる我々に明日にも適用されるだろう」、「今日の社会的組織の自由は見せかけにすぎない。実際に自由なのは、権力と生産手段を支配するごく少数の者だけである」として、当時の政権を徹底的に批判した[1]。また当時、チリの鉱物資源の価格は米国が決めており、チリは低価格で米国に売らざるをえない立場にあった(しかも米国以外には銅を売らないという取り決めにチリ政府は同意していた)ため、そうした状況も批判的に指摘した[1]。1951年には演説の中で「低開発が存在するのは帝国主義が存在するからです。そして、帝国主義が存在するのは低開発が存在するからです」と、反帝国主義の姿勢を明確に示した[1]

大統領選出馬編集

 
ラウル・カストロとともに(1959年)
 
アジェンデを支援する市民団体(1964年の選挙時)

アジェンデが初めて大統領選に出馬したのは、1952年のこと、社共連合の統一候補としてであった。だが当時は左派弾圧の記憶が生々しく残っていたこともあり、アジェンデは得票率5.6%で惨敗を喫した[1]

そして1956年、社会党と共産党の連合である「人民行動戦線」(FRAP)が結成されると、その統一候補として1958年1964年の大統領選に出馬した。

1958年の大統領選では28.8%の得票を得たが、ホルヘ・アレッサンドリ(独立右派)とわずか3万票、得票率で3ポイント足らずの差で当選を逃した。冷戦下、資本主義陣営の盟主を自認するアメリカ合衆国はアジェンデを脅威と見なし、1964年の大統領選に向け、アジェンデの対立候補(キリスト教民主党のエドゥアルド・フレイ)に大々的な秘密支援を提供するという謀略に着手した[2]。最終的に、1964年の選挙戦でフレイ陣営が費やした資金の半分以上を、ケネディ政権およびジョンソン政権下のCIAが負担するという結果になった[1]。一方のソビエト連邦は、キューバ危機以降は「ラテンアメリカは米国の所有物」との考えを非公式に受け入れていたため、チリの選挙には干渉しなかった。

1964年の選挙では、アジェンデは得票を39.9%まで伸ばしたものの、対立候補であり、チリを「進歩のための同盟」による開発計画のモデル国家とすることを目指していたエドゥアルド・フレイ・モンタルバが右派の国民党と中道のキリスト教民主党の一致した支援を受けたため、大差での敗北となった。だが、アジェンデの敗北の最大の要因は何と言ってもケネディ政権およびジョンソン政権による対チリ選挙干渉だった。フレイ陣営は、1964年の選挙戦で費やした資金の半分以上をCIAから受け取っていた。CIAはアジェンデを鬼として描くプロパガンダも大々的に展開した。チリを「進歩のための同盟」のモデル国家にしようと目論んだのもジョンソン政権である[1]。とりわけ、CIAが秘密裡に注入した資金援助が効いた。1958年の大統領選でフレイが獲得した票は20.7%、1961年の国会議員選挙でキリスト教民主党が獲得した票は15%、そして同年から莫大な秘密資金が米国からキリスト教民主党フレイ派に流入し始めると、1963年の地方選挙で同党はチリ最大の野党に躍進し、1964年の大統領選でフレイは57%という票を獲得するに至った[1]

とはいえ、チリ国内の反共主義勢力や、それを後押しするCIAによる執拗なプロパガンダにも拘らず、アジェンデは労働者の男性を中心に支持を広げていた。続く大統領選挙は1970年であったが、アジェンデ政権の成立を憂慮した各勢力は、最悪の場合軍事クーデターも辞さない構えで、チリ軍部と接触した。しかし、チリ陸軍司令官のレネ・シュナイダー英語版憲法に則った解決を主張した。

1970年の大統領選編集

1970年の大統領選挙(9月4日)では、国民党とキリスト教民主党がそれぞれ候補を擁立する中、アジェンデは従来の人民行動戦線から参加政党が拡大した人民連合の統一候補として出馬し、得票率が他の2候補を僅差で上回り首位となった。

憲法の規定に則り、首位のアジェンデと次点のホルヘ・アレッサンドリ(国民党)による決選投票(10月24日)が議会で行なわれることになった。米国のニクソン大統領は9月15日、この決選投票でのアジェンデ当選を「何としても」阻止するよう、キッシンジャー大統領補佐官とCIAに命じた[1]。手段は問わない、資金面の遠慮も不要とのことだった。この命令を受け、CIAは議員買収と軍事クーデターという2本立ての謀略に着手したが、議員買収は思惑通りに行かなかった[1]。一方の軍事クーデター計画の一環としてCIAはシュナイダーの排除を目論み、軍部の反シュナイダー派に機関銃と銃弾を譲渡、シュナイダーは10月22日に銃撃された(25日に死亡)。

大統領就任編集

自由選挙による社会主義政権編集

 
アジェンデ内閣(1970年)

しかし、この暗殺は完全に裏目に出ることとなった。シュナイダー暗殺に反発してキリスト教民主党がアジェンデ支持に回ったことにより、153対35の大差でアジェンデが大統領に選出され、世界史上初の自由選挙による社会主義政権が成立した。

就任後は、人民連合の綱領にしたがい、重要な産業の国営化と農地改革を進めた。外交面では広く世界に友好国を探し、キューバやソ連との友好も促進した。ただしそれはあくまでも対米依存から脱するためであり、共産圏と特別な協力関係を結ぶことは考えておらず、ソ連の側もチリと親密な関係を結ぶことは考えておらず、そのことを米国政府も認識していた[1]。同時期に隣国ペルーで「ペルー革命」を推進していたフアン・ベラスコ・アルバラード政権との友好関係も確立され、アジェンデはベラスコを同志として賞賛した[3]

ニクソン政権によるアジェンデ打倒の謀略編集

決選投票前にアジェンデ就任阻止を狙って各種工作を仕掛けた米国のニクソン政権は、アジェンデ就任後も彼の政権を打倒するための軍事クーデターを画策し続けた。チリの経済を混乱させ、チリ国民に絶望感を抱かせ、それを口実に軍が動くよう仕向けるという工作を推進した。まず最初に手がけたのが金融封鎖だった。米国の政府機関による対チリ融資を禁じ、米国の銀行および国際金融機関に対し、チリに融資を行わないよう圧力をかけた[1]。チリの輸出収入の80%を占めていた銅の輸出と生産を妨害する工作も行った[1]。さらに、金融封鎖に起因する物不足を口実に、「からなべ」デモなるものを富裕層の婦人連に実行させた(1971年12月)。これは、「すべての」チリ人女性がアジェンデに反対しているように見せかけることを狙った工作で、ファシスト組織の協力を得て実行された[1]。また、トラック所有者協会に資金提供し、トラック所有者たちに長期にわたるストライキを敢行させた(1972年10月と1973年7月)。このストライキはチリの流通を麻痺させ、チリ経済に大きな打撃を与えた。さらには、中間層から支持を得ていたチリ最大の政党であるキリスト教民主党に秘密資金を注入し、アジェンデ就任時にはアジェンデを支持していた同党をクーデター支持に転向させることに成功した。

成果を上げる経済攪乱工作編集

 
閣僚たちとアジェンデ(1971年)

こうした国外からの妨害工作は見事に成果を上げ、物不足とインフレを招いた。それに加えて、アジェンデ政権の経済的失政を指摘する声もある。当初、アジェンデ政権のペドロ・ブスコビッチ経済相の経済政策は政府支出の拡大、国民の所得引上げによって有効需要を生み出すことにあり、そのための手段としての賃金上昇政策と農地改革が採用された。人民連合の綱領でも謳われていたこの農地改革は驚異的なペースで進み、フレイ政権が6年間で収用したのと同等の農地面積が就任してから1年で収用された[4]。地主には30年国債という形で支払いが行われた[1]

さらに、それまでチリの銅産業を支配しており、チリの税制から、チリにとって極めて不利な資本流出を起こしていたアメリカ合衆国系のアナコンダ・カッパー・マイニング・カンパニーケネコット・カッパー・カンパニーなどの外資系の鉱山会社が国有化され、コデルコに統合され、チリの銅山は「ポンチョを着て、拍車をつけ」チリの下に戻った[5]。コデルコはその後のピノチェト時代にも民営化を逃れ、チリ政府の巨大な歳入源として存続した。ちなみに、この銅山の国有化はチリの国会で全会一致で可決されたものである。その国有化法は「公正なる補償」を原則としており、過去における過剰利益を補償額から差し引くことを可能としていた。過去の過剰利益を計算した結果、補償額よりも控除額の方が大きくなってしまい、原則は有償だったが実質的には無償という結果になった。これについてニクソン政権は「無償で接収した」と喧伝したが、チリの会計検査院は国有化法を支持し、補償は不要との決定を下した[1]

こうした政策に関連して、チリの外貨準備が1971年末に3000ドルにまで減少するなど急速に底をついたのは、チリ経済の実力に見合わない支出拡大のせいだったとする説がかつては聞かれた。とはいえ、軍事クーデターを引き起こすべくニクソン政権が実行した金融封鎖政策と国営銅産業に対する妨害工作、トラック所有者に実行させたストライキがチリ経済に深刻な影響を与えたのは事実である[6]。結果的に、民間投資は激減し、更なる資本流出が進む悪循環が生じた。

クリントン政権期に膨大な数の公的文書が機密解除された現在では、ニクソン政権による金融封鎖その他の経済攪乱工作さえなければアジェンデ政権の経済運営は順調に行っていた、とする説が有力である。

深刻化する経済混迷編集

 
ソビエト連邦キエフを訪問したアジェンデ(1972年)

米国のニクソン政権はキリスト教民主党右派(フレイ派)に対する資金提供を続けた。その結果同党は右派が牛耳るようになり、1971年末ころから同党は他の野党とともに人民連合政府を批判するようになった。さらに1972年6月には人民連合内部での路線対立が尖鋭化した。アジェンデはキリスト教民主党との妥協を図り、社会主義的な経済政策を追求するブスコビッチ経済相を更迭し、経済回復を重視する方針を打ち出した。しかし、経済の衰退に歯止めはかからず、チリ国内では悪性のインフレが進行し、物資が困窮し、社会は混乱した。すべてはニクソン政権が描いた筋書きどおりに進んだ。

同年9月にトラック所有者連盟のストライキが始まったが、このストは10月に入ると全国的な規模に拡大し、一ヶ月以上続くことになった。このような国内の混乱に対抗し、内戦の危機に備えてアジェンデは軍から立憲派の陸軍司令官カルロス・プラッツ将軍を入閣させた。トラック所有者のストは11月に終息したが、経済の衰退に歯止めがかからないことには変わらず、極右と極左の衝突、混乱は激しさを増すことになった。

こうした混乱の源泉は米国政府とその背後にある米国多国籍企業にあることをアジェンデは見抜いていた。彼は1972年12月、国連総会の場でチリの現状を訴え、多国籍企業の蛮行を糾弾した。とりわけ、長年にわたってチリの銅を搾取し続けた米国企業については次のように手厳しく言ってスタンディングオベーションを浴びた。「これらの企業はチリの銅を長年にわたって搾取してきました。過去42年間だけで40億ドル以上の利益をチリから持ち出しましたが、彼らの初期投資は3000万ドルにすぎません。これがチリにとって何を意味するのかを示す痛ましい例を挙げましょう。我が国には、生まれて8か月の間に最低限の量のタンパク質が与えられなかったがゆえに通常の人間らしい生活を送ることが生涯できないであろう子供たちが60万人います。40億ドルもあれば完全にチリを変えることができるでしょう。その額のごく一部だけでも、我が国のすべての子供たちのタンパク質を確保するに十分なのです」と[1](この主張の根拠については引用元を参照)。

クーデター編集

 
爆破されるモネダ宮殿
 
破損し血痕の付いたアジェンデの眼鏡

前節の経済的混乱は、労働者からは「反対派による陰謀」とされ、結果として労働者の団結を促進する結果となった、とする説もある。いずれにせよ、1973年3月の総選挙で人民連合は大統領選より更に得票率を伸ばした。こうした状況に直面したニクソン政権および「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれるシカゴ学派経済学者は、チリの民衆が社会主義に憧れていることを悟り、チリ社会を根底から作り変える必要があるとの決意を固めた。シカゴ・ボーイズたちはミルトン・フリードマンの教えを受け、チリを自由市場経済(今で言うネオリベ経済)の実験場にしようと目論んでいた[1]。つまり、徹底した弾圧によってチリ民衆を沈黙させるしかないとの決意を固めた。

チリ全土でストやデモが勃発する中、6月29日には陸軍の一部将校らが首都サンティアゴのモネダ宮殿(大統領官邸)を襲撃するが、プラッツ将軍の軍への統制による努力により、このクーデター未遂事件(タンキタソスペイン語版英語版)は失敗した。この事件に際して個々の職場を守るようアジェンデが労働者に呼び掛けると、500以上の工場が政府の直接統制に置かれた[7]。とはいえ生来の内戦嫌い・武装嫌いだったアジェンデ[1]が武器の使用を禁じたため、労働者と軍の間での内戦の危機は避けられた。

この未遂事件を受け、チリ軍部もCIAも、クーデタ-決行は時期尚早と判断した[1]。しかし、米国から潤沢な資金援助を受け続けていたキリスト教民主党は、クーデターという事態になれば軍は自分たちに権力の座を譲るだろうとの計算のもと[1]、8月22日、アジェンデ政権を違憲とする決議案を下院で採択した。これによりチリ軍部にとってのクーデターの正当性が確立し、それまでチリ軍部を支援し続けてきた米国政府[1]を喜ばせる行動に出る気運が上層部で盛り上がった。そうした空気を察した陸軍総司令官プラッツ将軍は内戦を避けるため[1]23日に辞任した。そしてプラッツが後任に推薦したのがアウグスト・ピノチェト将軍だった。この時点でピノチェトはすでに秘密裡にクーデター派と接触していた[1]が、プラッツもアジェンデも、ピノチェトは政府に忠実だと信じていた。ピノチェトも翌24日の就任式で政府に対する忠誠を誓った。

クーデターを煽るCIAの動きを察知していたアジェンデは、自らの政権の信任を問う国民投票に訴えようとした。彼は9月9日、ピノチェトに「近日中に国民投票の実施を発表するつもりだ」と伝えた[1]。これを聞いたピノチェトは同日、海軍と空軍のクーデター首謀者と相談し、決行の予定日を当初の14日から11日に早めた。翌10日、それを知らないアジェンデは閣僚会議の場で、発表の日を11日と決定した[1]。しかしアジェンデの声が国民の耳に届く前の11日早朝、陸海空三軍のトップとカラビネーロス(国家警察隊)のナンバー2が協力してクーデターを引き起こした。アジェンデはクーデター軍と大統領警備隊の間で銃弾が飛び交う中、国民に向けたラジオ演説を6度行なった後に死亡した(死因については後述)。ちなみに、その6度の演説の中で「武器をとれ」と呼びかけることは一度もなかった[1]。ピノチェトがクーデターの陰謀に加わっていることをアジェンデが悟るのは、この11日のクーデターの最中のことである[1]

ラテンアメリカでは現在でも「9・11」というと、2001年アメリカ同時多発テロ事件ではなく、1973年のチリ・クーデターを指す事も多い。先述のプラッツ将軍はクーデター直後の9月15日、アルゼンチンに亡命するが、翌年9月30日ブエノスアイレスでピノチェトの創設した秘密警察、DINA英語版の仕掛けた車爆弾により妻とともに暗殺された。

死後編集

 
アメリカのキッシンジャー国務長官を迎えるピノチェト(右端、1976年)
 
モネダ宮殿前のアジェンデの銅像

チリ・クーデターの後、首謀者の一人であったピノチェトが「最年長だから」との理由で軍事評議会の委員長に就任[1]。その後、自らが創設して自らに直属する秘密警察DINAを使ってライバルを遠ざけ、独裁体制を固めた。また、経済の知識のなかったピノチェトはフリードマン傘下の「シカゴ・ボーイズ」を経済顧問に迎え、それに盲従して「純粋な資本主義」、「自由市場経済政策」を推進した。その結果、中産階級は消滅し、ごく一部の富裕層と大多数の貧困層に二分される社会になった[1]。つまり、アジェンデとは正反対の考え方の経済政策が、恐怖政治によってチリ民衆に押し付けられる結果となった。それと併行して、アジェンデと同様の自主独立ナショナリズムがラテンアメリカに広がることを恐れた米国[1]は、ラテンアメリカ諸国に対する恐怖の見せしめとして、また、多国籍企業にとって都合のよい経済体制の国としてピノチェト独裁政権を支援し続けた。その17年に亘る軍事政権下で数千人(数万人という説もある)の反体制派の市民が投獄・処刑された。国外に避難した者は100人のうち2人と見積もられている[1]

経済面では、ピノチェトはシカゴ・ボーイズの助言に忠実に従ったものの全く好転する気配は見せず、1974年には375%というインフレを記録した[1]。もともと富裕層を富ませることを考えていた経済政策だっただけに、貧富の差が拡大するのも当然のことで、自由貿易主義と貧富の格差というチリ特有の状況は今日も引きずっている。なお、ピノチェト政権時代の国家や社会を構成する様々な指標の統計は、民政復帰後から2011年現在に至るまで、チリ政府のウェブサイトでも、国連やその他の国際機関のウェブサイトでも、確認不可能な統計資料として空白になっている(一般的に独裁政権下では国家や社会の統計は非公開であるか、公開されても民主主義国と比較して信用度が低い)。そのため、今日においても検証が困難となっている[8][9][10]

ピノチェト政権を経済面でも物資面でも軍事面でも支援し続けた米国政府は、1986年の残虐事件(火あぶり事件)をきっかけに対ピノチェト支援が米国内で議論の的になるまで、一貫してピノチェトを支援し続けた。また、ピノチェト軍事政権による人権侵害も、黙殺するだけでなくプロパガンダ工作によって隠そうとし続けた[1]

死因編集

アジェンデの死因について、クーデターを率いたピノチェトは当初「モネダ宮殿でキューバフィデル・カストロから贈られた自動小銃を使い自殺した」と発表した。しかし、その「フィデル・カストロから私のよき友サルバドール・アジェンデへ」という刻印が彫られた金板が取り付けられていたとされる銃も弾も見つかっていない上、軍は遺族に遺体を見せなかったため、長年「軍との交戦による戦死」もしくは「軍によってその場で殺害された」との説も根強く論じられた。

2011年5月23日、チリ司法当局は長年の論争に決着をつけるため調査を行い、アジェンデの遺体を墓所から発掘し、外国人も含む専門家チームによって鑑定を始めた[11]。 7月19日、チリ政府は「カストロから贈られた銃によって自らの頭を撃ち抜いたことが確認された」と発表し、娘のイサベル・アジェンデ上院議員もこの結果を受け入れることを表明した[12][13][14][15]

国内外の評価編集

チリ国内ではピノチェト同様、評価は未だに二分されている。親ピノチェト派、つまり親米の特権階級だった者、ファシスト組織のメンバー、ピノチェトのネオリベ政策から恩恵を得た多国籍企業関係者たちにとっては、左転回により国に混乱をもたらした(実際に混乱をもたらしたのは軍事クーデターを引き起こすことを狙ったCIAなので、この主張は見事にCIAのプロパガンダにはまった虚構なのだが)、あるいは平等社会を実現しようとした、あるいは銅をチリ国民のものにした(銅は今も多くの実業家が民営化したがる国営産業である)唾棄すべき存在である。一方で、前政権(フレイ政権)期に抑圧と貧困を押し付けられた一般チリ国民や、ピノチェトの圧政とネオリベ経済政策に苦しめられた圧倒的多数の一般チリ国民からは、今でも英雄視されている。2008年、チリ国民はアジェンデを歴史上最も偉大なチリ人に選んだ[1]。モネダ宮殿から一歩外に出たところにはアジェンデの像が建てられている。チリ国内では、ピノチェト軍政期の恐怖政治の記憶から、今も「反ピノチェト」「反ファシズム」「反自由市場経済」の声を上げることを控えているチリ人は多いと推察されている。

また、カラカスハバナパリボローニャマドリッドマナグアモンテビデオなど、中南米や欧州諸国の各地にアジェンデの名前を冠した通りや広場などが続々と建設されている事例は、チリ国外のスペイン語圏の左派勢力を中心に、死後もアジェンデが一定の評価を得ていることが推測される[16]

2017年大韓民国大統領選挙において共に民主党の有力候補とされていた李在明は、2016年に大統領選に向けた訴えの中で「反乱軍に機関銃を持って闘ったアジェンデの心情で政権交代を越え、国家権力の正常化を図るべきだ」「国と国民のために機関銃を持って命を捧げたアジェンデ大統領ぐらいの覚悟がなければ、韓国社会のその根深い悪習と不義を掘り起こすことができるのか」とアジェンデを引き合いに出した発言をした[17]

家族編集

脚注編集

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at 『アメリカのチリ・クーデター』. Amazon Services International. (2019). 
  2. ^ ウィリアム・ブルム「チリ 一九六四年~一九七三年 鎚と鎌が子供の額に焼き印される
  3. ^ 増田義郎/柳田利夫『ペルー 太平洋とアンデスの国 近代史と日系社会』中央公論新社 1999 p.210
  4. ^ 中川文雄/松下洋/遅野井茂雄『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 1985 p.222
  5. ^ エドゥアルド・ガレアーノ/大久保光夫訳『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』新評論、1986年 p.256
  6. ^ 中川文雄/松下洋/遅野井茂雄『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 1985 p.223
  7. ^ 中川文雄/松下洋/遅野井茂雄『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 1985 p.228
  8. ^ Instituto Nacional de Estadísticas Las Estadísticas de Chile 2011年7月31日閲覧
  9. ^ UN Statistics Division 2011年7月31日閲覧
  10. ^ OECD Statistics from A to Z 2011年7月31日閲覧
  11. ^ Chile's buried secrets”. LAT. www.latimes.com (2011年5月23日). 2011年7月21日閲覧。
  12. ^ Allende’s Death Was a Suicide, an Autopsy Concludes”. NYT. www.nytimes.com (2011年7月19日). 2011年7月21日閲覧。
  13. ^ Informe del Servicio Médico Legal confirma la tesis del suicidio de ex Presidente Allende”. www.latercera.com (2011年7月19日). 2011年7月21日閲覧。
  14. ^ “チリ・故アジェンデ大統領は「自殺」 クーデターで死亡”. asahi.com (朝日新聞社). (2011年7月20日). オリジナルの2011年7月22日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20110722021404/http://www.asahi.com/international/update/0720/TKY201107200454.html 2011年7月21日閲覧。 
  15. ^ “アジェンデ元大統領は自殺 遺体掘り起こし確認 頭撃ち抜いて チリ”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2011年7月20日). オリジナルの2011年8月28日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20110828133259/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110720/amr11072013380006-n1.htm 2011年7月21日閲覧。 
  16. ^ [1]
  17. ^ 이재명 “피노체트 반란군에 기관총 들고 싸우던 아옌데 대통령의 심정. 목숨 건 투쟁 준비”(イ・ジェミョン「ピノチェト反乱軍に機関銃持って戦ったアジェンデ大統領の心情。命をかけた闘争の準備」)”. ファクトテレビ. http://facttv.kr/facttvnews/+(2016年8月16日).+2018年11月17日閲覧。

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集

公職
先代:
エドゥアルド・フレイ (en
  チリ共和国大統領
第29代:1970 - 1973
次代:
アウグスト・ピノチェト
先代:
Miguel Etchebarne Rioll
  チリ共和国保健大臣
第4代:1939 - 1942
次代:
Eduardo Escudero Forrastal
議会
先代:
Enrique Oyarzún Mondaca
  チリ共和国上院議長
1966 - 1969
次代:
Tomás Pablo Elorza