シドニー (軽巡洋艦・2代)

シドニー
艦歴
発注 1931年
起工 1933年7月8日
進水 1934年9月22日
就役 1935年9月24日
その後 1941年11月19日に戦没
除籍 -
性能諸元
排水量 基準 6,980トン
全長 171.37 m
全幅 17.27 m
吃水 4.77 m
機関 パーソンズ式オール・ギヤード蒸気タービン、4軸 72,000 hp
速力 最大32.5ノット
乗員 570名
兵装 15.2 cm(50口径)連装砲 4基8門
10.2 cm(45口径)単装高角砲 4門
12.7mm 4連装機銃 3基
53.3 cm 4連装魚雷発射管 2基
搭載機 水上機 1機

シドニー (HMAS Sydney) は、オーストラリア海軍軽巡洋艦[注釈 1]パース級軽巡洋艦 (Perth class light cruser) の1隻で[2]イギリス海軍所属のフェートン (HMS Phaeton) として建造された[注釈 2][注釈 3]。艦名は、チャタム級軽巡洋艦 (Chatham class Light cruiser) のシドニーに続いて2代目[4]

第二次世界大戦中の1940年(昭和15年)6月、イタリア王国参戦して地中海戦線が形勢されると、イギリス地中海艦隊に所属して幾度かの海戦に参加した[注釈 4]。 1941年(昭和16年)11月19日オーストラリア大陸西部シャーク湾でドイツ海軍の仮装巡洋艦コルモラン (Kormoran) と交戦、相討ちとなって沈没した(シドニーの沈没[5]

第二次世界大戦の巡洋艦の中で唯一、仮装巡洋艦に沈められた軽巡洋艦である。

艦歴編集

戦間期編集

イギリス海軍が建造したリアンダー級軽巡洋艦 (Leander class Light Cruisers) は[6]、本艦を含む数隻がイギリス連邦の諸国に貸与されている[注釈 5]

本艦はイングランド東北部のスワン・ハンター社で建造。当初の艦名はフェートン (HMS Phaeton) であった[3]1933年(昭和8年)[注釈 6]7月8日、フェートンとして起工[8]1934年(昭和9年)9月22日に進水。

その頃、英連邦オーストラリア海軍の主力艦ケント級重巡洋艦2隻(オーストラリアキャンベラ)と軽巡アデレード (HMAS Adelaide) という状態だった[9]オーストラリア海軍の歴史)。 イギリスは建造中のフェートンをオーストラリア海軍に貸与する事となり、チャタム級軽巡洋艦シドニーにあやかって[注釈 7]シドニーと改名された[4]。艦齢に達したチャタム級軽巡(バーミンガム級軽巡)ブリスベン (HMAS Brisbane) の代艦であったという[4]

シドニーは、1935年(昭和10年)9月24日に竣工した[10][注釈 8]

シドニーが就役した頃、地中海では第二次エチオピア戦争が勃発し、不穏な空気が漂う[11]アビシニア危機)。ニュージーランド海軍の軽巡アキリーズ (HMNZS Achilles) と交代する形で[注釈 3]ジブラルタルに於ける本国艦隊 (The Home Fleet) 隷下の第2巡洋艦戦隊 (2nd Cruiser Squadron) にシドニーは編入された[注釈 9]。 つづいて地中海艦隊 (Mediterranean Fleet) に編入された[注釈 9]。1936年(昭和11年)3月には第1巡洋艦戦隊 (1st Cruiser Squadron) に編入され、オーストラリア海軍の重巡オーストラリア (HMAS Australia, D84) と行動を共にした。5月、第二次エチオピア戦争に決着がつき、7月中旬には経済制裁も解除された[注釈 10]。本艦と僚艦オーストラリア (HMAS Australia, D84) はオーストラリア大陸にむかい、8月初旬に到着した[注釈 11][注釈 12]

1937年(昭和12年)9月10日、2代目艦長としてJohn.William.Ashley.Waller大佐が着任した[注釈 13]

第二次世界大戦編集

1940年(昭和15年)4月19日、シドニーはオールバニの東で中東へ向かうUS2船団と合流し、4月28日にココス諸島近海でフランスの重巡洋艦シュフラン (Suffren) と交代するまで船団の護衛を行った。そして、次のUS3船団を護衛するためフリーマントルへ向かった。だが、5月1日にシドニーはセイロン島コロンボへ向かうよう命じられた。シンガポール経由で、8日コロンボに到着した。護衛としてUS3船団と合流するため5月12日にコロンボから出航したが、シドニーは地中海に派遣されることになり、18日コロンボへ戻った[15]。燃料補給後、19日に出航し、22日になりアデンに到着した[15]。翌日出港し、スエズ運河を通過して、26日アレクサンドリア到着した[16]。同地を拠点とする地中海艦隊の第7巡洋艦戦隊 (7th Cruiser Squadron) に編入された[16][注釈 14]

イタリア王国参戦直後の6月11日、シドニーを含む地中海艦隊はアレクサンドリアから出撃し、第7巡洋艦戦隊はターラント湾付近まで進出したものの敵とは遭遇せず、14日に艦隊はアレクサンドリアへ戻った[17]。次いでバルディアに対する艦砲射撃の実施が決定され、フランス戦艦ロレーヌ (Lorraine) 、英連邦軽巡3隻(シドニー、ネプチューン、オライオン)、駆逐艦4隻(デインティデコイヘイスティスチュアート)からなる砲撃部隊は6月20日にアレクサンドリアから出撃した[18]。砲撃は6月21日朝に実行され、イタリア側からイギリス砲撃部隊への反撃は無く、同日中にアレクサンドリアに帰投した[19]。この作戦時、シドニー搭載機が友軍機による誤射でひどく損傷したもののマルサ・マトルーフまでたどり着き、着陸時に機体は壊れたが乗員は無事であった[20]。これが、この作戦時唯一の損害であった[20]。翌日、イタリア王立空軍 (Regia Aeronautica) の航空機による爆撃があったが、損害は無かった[21]

続いて第7巡洋艦戦隊はMA3作戦に参加した。この作戦で第7巡洋艦戦隊の任務はマルタからエジプトへ向かう船団の援護であり、6月27日に第7巡洋艦戦隊はアレクサンドリアから出撃した[22]。6月28日、ザキントス島南西沖でイタリア王立海軍 (Regia Marina) の駆逐艦部隊(エスペロゼフィーロオストロ)を発見した[23]。第7巡洋艦戦隊は、イタリア駆逐艦エスペロ (Espero) を撃沈した[24]。戦闘後「シドニー」は敵兵47名を救助したが、アレクサンドリアへ向かう途中で3名が死亡した[25]。この戦闘で弾薬を多数消費したため、マルタからの船団の出航は延期された[26]

6月7日、シドニーの他、戦艦3隻(ウォースパイトマレーヤロイヤル・サブリン)、空母イーグル (HMS Eagle) などが、出航が延期されていたマルタからの船団の護衛(MA5作戦)のためアレキサンドリアから出撃した。7月9日、イタリア艦隊との間でカラブリア沖海戦が発生した。海戦後、艦隊は船団を護衛し、7月13日にアレクサンドリアに帰還した。

7月18日、シドニー(艦長ジョン・コリンズ大佐)は、クレタ島の北で対潜掃討に従事する連合軍駆逐艦4隻の支援とアテネ湾でのイタリア船攻撃を命じられて、イギリス駆逐艦ハヴォック (HMS Havock, H43) を伴ってアレクサンドリアから出撃した[27]。7月19日、連合軍駆逐艦4隻がイタリア王立海軍の軽巡2隻と遭遇した。「シドニー」と「ハヴォック」も合流して砲撃戦に加わる。シドニーの砲撃によりイタリア軽巡バルトロメオ・コレオーニ (Bartolomeo Colleoni) は航行不能となった[28]。コレオーニの始末を駆逐艦に任せたシドニーは、麾下駆逐艦2隻とともにイタリア軽巡ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ (Giovanni delle Bande Nere) を追跡したが、距離が開いたことなどから追跡を打ち切った[29]。この海戦ではシドニーも1発被弾している[28]。7月20日、アレクサンドリアに帰投[30]

7月26日、シドニーはバルディア砲撃の際に失われた搭載機の代わりとなる機体を搭載した[31]。7月27日、連合軍軽巡2隻(シドニー、ネプチューン)はアレクサンドリアを出撃する[31]。同日中にイギリス戦艦3隻(ウォースパイト、マレーヤ、ロイヤル・サブリン)などと合流した。この出撃の目的はエーゲ海からエジプトへ向かうAS2船団の援護であった。同日、地中海艦隊はイタリア空軍の爆撃を受け、至近弾により搭載したばかりのシドニー搭載機が使用不能となってしまった[32]。7月28日、軽巡2隻(シドニー、ネプチューン)は艦隊から別れて北へ向かい、アテネ湾入り口で、ドデカネス諸島へガソリンを運んでいたギリシャのタンカー「Ermioni」を沈めた。2隻は7月30日にアレクサンドリアに帰投した[33]

8月、ボンバ湾とバルディアに対する攻撃がおこなわれ、シドニーはその支援に当たった。この作戦では、シドニーは8月23日にアレクサンドリアから出撃し、24日に帰投した。続いて地中海ではハッツ作戦が行われた。これは戦艦ヴァリアント (HMS Valiant) と空母イラストリアス (HMS Illustrious, R87) などを、ジブラルタル経由で地中海を横断させるというもので、同時に船団護衛なども行われた。シドニーは8月30日に地中海艦隊主力艦などと共にアレクサンドリアから出撃した。9月2日、地中海艦隊は増援部隊とマルタ南西沖で合流した。帰路、9月4日に軽巡シドニー、オライオン、駆逐艦デコイ、アイレックスカルパソス島を砲撃した。9月5日、アレクサンドリア帰投。9月24日から26日までキプロス沖で哨戒をおこなった。

9月28日、マルタ島へ送る兵員を乗せた英軽巡洋艦2隻がアレクサンドリアを出航し、その護衛のためシドニーを含む地中海艦隊主力部隊が出撃した(MB5作戦)。9月30日にグロスターとリヴァプールは無事にマルタに到着した。帰投途中の10月2日にシドニーとオライオンはスタンパリア島を砲撃し、10月3日にアレクサンドリアに到着した。10月8日、マルタへの補給船団を護衛するため地中海艦隊は再び出撃した(MB6作戦)。10月11日に船団が無事にマルタに到着した。10月12日、軽巡洋艦エイジャックス (HMS Ajax) がイタリア王立海軍の駆逐艦や水雷艇と交戦し、シドニーも逃走するイタリア艦を追跡したが捕捉出来なかった(パッセロ岬沖海戦)。10月25日から28日までの間も、シドニーを含む艦隊はエーゲ海からの船団の護衛などを行った。

10月28日のイタリア軍のギリシャ侵攻により[34]、クレタ島スダ湾に拠点を作るための船団が10月29日にエジプトからクレタ島へ向かった。そして、その護衛のためにシドニーも含む艦隊が出撃した。11月2日、艦隊はアレクサンドリアに戻った。11月5日、兵士や弾薬などを乗せたシドニーとエイジャックスはポート・サイドを出航した。11月6日、スダ湾に到着。11月7日にスダ湾を離れて地中海艦隊と合流し、マルタへの船団の護衛に従事した。船団は11月9日にマルタに到着した。

11月11日、地中海艦隊は西から来た増援部隊とマルタ南方で合流した。同日、シドニー以下のX部隊はオトラント海峡へ向かう[注釈 15]。また、空母イラストリアスがタラント港に向かった(タラント空襲[35]。11月12日、X部隊はオトラント海峡アルバニアへ向かっていたイタリア船団を発見、攻撃する。この船団は輸送船4隻からなり、水雷艇ファブリッチィイタリア語版と仮装巡洋艦ラム3世英語版イタリア語版が護衛していた。輸送船4隻が沈没し、ファブリッツィ (Nicola Fabrizi) も大破した(オトラント海峡海戦)。同日、X部隊は地中海艦隊主隊と合流し、アレクサンドリアに帰投した。その後、マルタで修理をおこなう[注釈 16]

コルモランとの戦闘と喪失編集

 
1941年頃のシドニー。

1941年(昭和16年)1月11日、シドニーはアレクサンドリアを出発し、オーストラリアへの帰途についた。2月5日、シドニーはフリーマントルに戻り、その後はインド洋や東南アジア方面で船団護衛に従事する。枢軸国海軍はオーストラリア周辺海域でも活動し、前年12月上旬には太平洋ナウルに仮装巡洋艦2隻(オリオンコメート)が出現して艦砲射撃をおこなっている(ナウルに対するドイツの攻撃)。このような通商破壊からシーレーンを守る必要もあった(オーストラリア周辺における枢軸国海軍の行動)。 5月、シドニーは新艦長のジョセフ・バーネット英語版大佐を迎えた。11月19日[5]、シドニーはオーストラリア大陸西部シャーク湾沖約170浬のインド洋で、オランダ船に偽装していたドイツ海軍 (Kriegsmarine) の仮装巡洋艦通商破壊艦コルモラン (Hilfskreuzer Kormoran) を発見した。

以下はコルモランのテオドール・デートメルス英語版ドイツ語版艦長以下の証言による戦闘概況である(シドニーの沈没)。コルモランはパースの港口に機雷敷設に向かう途上であったが、シドニーからの誰何に対し時間を稼ぎながら、有利に攻撃を開始する機会をうかがっていた。コルモランからはシドニー艦上で偵察機の射出準備をしている様子が窺われたが、射出は行われなかった。シドニーが1~2kmの間隔を置いてコルモランの真横に並び、秘密の船舶コードを示すよう信号したとき、コルモランはオランダ商船旗を下ろしてドイツの戦闘旗を掲げ、同時に15cm砲や発射管を隠していたフラップを開き、対空砲座をせり上げ、戦端を開いた。その時シドニーの各砲はコルモランを指向していたが、総員配置の命令は出されていなかったらしく非番らしい乗員が甲板にたむろしていた。

攻撃開始後すぐに、コルモランの対空砲の砲弾がシドニーの艦橋発射管周辺に炸裂し、また射撃指揮装置を破壊した。またコルモランの魚雷がシドニーの前部A・B両砲塔の間に命中しどちらも動かなくなった。コルモランの15cm砲はシドニーの各部に命中して火災が拡がり、やがて全火砲が沈黙した。最後にシドニーは魚雷を発射したがかわされ、衝突を試みたがこれもかわされ、激しい炎と煙を上げながらコルモランの視界外に去った。被弾炎上したコルモランも沈没し、ボート救命筏などに退避した乗員の一部は自力でオーストラリアの西海岸に到着、ほぼ同時にシドニーの捜索が開始された。捜索に向かった連合軍側はドイツ艦の乗員を救助したのみであり、シドニーは破損した救命筏一艘だけを残し、バーネット艦長を含め645人の全乗員と共に姿を消した。コルモランでは397人中317人が、病院船ケンタウロス (AHS Centaur) や他国の船舶に救助されるか、自力で海岸に到着して捕虜となった。

シドニーの手がかりは、捜索活動中のオーストラリア海軍曳船ヒーロー (HMAS Heros) が発見した無人の救命艇、そして1942年(昭和17年)2月6日にクリスマス島に漂着した身元不明の遺体があった[注釈 17]。 シドニーと全乗員の喪失はオーストラリア海軍史上最大の悲劇であり、オーストラリアのほとんどの町から乗員が出ていたため、同国社会に大反響をもたらした。戦闘の模様を語るのがドイツ人の捕虜のみであり、なぜシドニーが不審船に用心を怠って先制攻撃で致命傷を受けるほど接近したかなどはドイツ人捕虜の説明では納得し難かった。オーストラリア社会では「真珠湾攻撃を目前に控えた日本海軍の潜水艦が同盟国の仮装巡洋艦を掩護し、魚雷でシドニーを沈めた。」とか[36]、「ドイツ仮装巡洋艦が何か国際法に悖る手段を用い口封じにシドニーの生存者を皆殺しにした。」など、様々な説が広まった。 ヒーローが回収した本艦の救命艇は、オーストラリア戦争記念館に展示されている。

2021年(令和3年)11月19日、クリスマス島に漂着した遺体が本艦乗組員トーマス・ウェルズビー・クラーク (Thomas Welsby Clark) であったことが公表された[37][38]

残骸の発見編集

2008年(平成20年)3月15日、コルモランの残骸が発見された(シドニーとコルモランの捜索)。オーストラリア西岸スティープポイントから112カイリ(207 km) 西、水深2,560メートルの地点である。そして3月17日にはシドニーの残骸が発見された。スティープポイントから約100カイリ(190 km) 西、水深2,470メートルの地点で、コルモランの残骸とは12.2カイリ (22.6 km) の距離であった。

出典編集

注釈編集

  1. ^ 二等巡洋艦 “アンフイオン Amphion[1] 全要目{排水量7,040噸 速力32.5節 備砲 15.5糎砲8門 10糎高角砲4門 魚雷發射管(53糎)8門 起工1933年6月 竣工1936年6月 建造所ポーツマス海軍工廠} これが新時代の英國7,000噸級輕巡の勇姿である。前檣は極端にかたまつて殆ど箱型である。この型がどうやら英國新輕巡の通有タイプになりさうであるが、國によつて夫々違つてゐるのも興深い。尤も艦型よりも實力こそ問題であるが、近代的射撃装置の完備した輕巡15糎砲の齋射は怖るべきもので、仰角また自由自在である。長さ161.5米、幅17.3米、平均吃水4.62米、軸馬力72,000馬力。“アポロ Apollo “シドニー Sidney(これは濠洲海軍へ渡された)の姉妹艦がある。
  2. ^ 先代のフェートンは、アリシューザ級軽巡洋艦フェートン (HMS Phaeton) であった。
  3. ^ a b 三 自治領海軍(イ)濠洲海軍[3](略)巡洋艦シドニーは最初、英帝國政府一九三六年度建艦計畫の下にフエートンの艦名を以て起工され、後に濠洲政府に受繼がれて來たが、一九三五年九月に竣工し、十月一日には士官以下乗組員はJ.U.P.フィッツゲラルド大佐統率の下に、ロンドン市長によつて市會議事堂に迎へられ、同市關係者から午餐を受けた。之より先き一九三五年十一月一日 英海軍省は、濠洲政府がシドニーを英聯合王國の使用に供すべき申出でのあつたことを發表した。此の申出は承認されて、シドニーは一時的にヂブラルターに於ける内國艦隊第二巡洋戰隊のアチレスと交代した。(以下略)
  4. ^ エスペロ船団の戦いスパダ岬沖海戦カラブリア沖海戦オトラント海峡海戦など。
  5. ^ ネームシップリアンダー (HMS Leander) と2番艦アキリーズ (HMS Achilles) はニュージーランド海軍に、改良型のパース級3隻(アンフィオン〈改名後パース〉、フェートン〈改名後シドニー〉、アポロ〈改名後ホバート〉)はオーストラリア海軍に引き渡された[2]
  6. ^ (二)巡洋艦建造[7] 一九三五年度中に五箇年分の建艦計畫に依る巡洋艦若干が建造されたが、之が造艦事業遅滞のよき表示である。一九三一年度の三隻、即ちアジャックスアレシューサは、一九三三年迄は箸手されなかつたものであるが昨年に至つて漸く完成した。併し其の姉妹艦のアムフィオンは、昨年末迄には完成しなかつた。/之と同様に、一九三二年度の三隻、即ちシドニー(濠洲海軍所属)及びガラチアは三三年に箸手したが昨年末完成し、姉妹艦アポロは未完成として殘つた。(以下略)
  7. ^ シドニーは第一次世界大戦で、ドイツ帝国海軍巡洋艦エムデン (SMS Emden) をココス諸島海戦で撃沈した戦績を持つ[4]
  8. ^ シドニー初代艦長はイギリス海軍のJohn .Uniacke.Penrose.Fitzgerald大佐であった[3]。転属および昇進後の1940年(昭和15年)12月11日、HX-92船団の指揮官として輸送船ロトルア (Rotorua) に乗船中、U-96ハインリヒ・レーマン=ヴィレンブロック艦長)の雷撃でロトルアが沈没し、その際に戦死した。
  9. ^ a b (略)自治領海軍の艦船は、當該政府の合意の下に、此度近東及び地中海に於ける彼の艦隊集中に應じて其の一分が参加せしめられた。/濠洲軍艦オーストラリヤは、伊「エ」紛爭前から既に第一巡洋戰隊として就役してゐた。而して濠洲方面に於ける其の任務はサッセックスが赴いて代行した。併し後に至り、同艦も同地を去って、同じくオーストラリヤと同じ戰隊に編入せられることゝなつた。又同じ濠洲政府の軍艦で、シドニーはブリスベーンと共に完成と同時に就役したのであるが、同艦のみは濠洲に行かないで、直にジブラルターに於て第二巡洋艦戰に編入され、後にアレキサンドリヤに於て地中海艦隊に加はつた[12]。(以下略)
  10. ^ 三、艦隊の行動[13](中略)アビシニヤ戰爭は伊太利軍が五月五日(一九三六年)にエチオピヤの首都アヂスアベバを陥落したことを以て終結と考へることも出來るが、併し實際は、七月十五日に對伊經濟制裁が解かれ、地中海方面の緊張が緩和されて地中海に於ける艦隊の集結を不必要とするに至つた時を以て、事變終結と見るのが適當であらう。/ 内國艦隊は其の月を以て地中海から本國に歸還し、臨時に第二巡洋戰隊に編入されてゐた濠洲の新造軍艦シドニーも亦間もなく濠洲海軍に復歸した。(以下略)
  11. ^ 第三節 自治領海軍[14] 一、濠洲(中略)濠洲海軍の巡洋艦オーストラリヤ及びシドニーは八月二日にフリーマントルに歸箸した。是等の艦は例の地中海問題中、夫れ〱゛第一、第二巡洋艦戰隊に編入されて任務に服してゐたものである。(以下略)
  12. ^ 8月2日、シドニー帰着とも。
  13. ^ 1939年(昭和14年)11月16日、ウォーラー大佐は重巡ロンドン (HMS London, 69) 艦長に転じ、後任のシドニー艦長はジョン・コリンズ大佐となった。
  14. ^ 軽巡洋艦オライオン (HMS Orion, 85) 、ネプチューン (HMS Neptune, 20) 、グロスター (HMS Gloucester, C62) 、リヴァプール (HMS Liverpool, C11) が所属していた。
  15. ^ 軽巡洋艦3隻(オライオン、エイジャックス、シドニー)、駆逐艦2隻(ヌビアンモホーク)。
  16. ^ 12月、本艦の代艦として姉妹艦パース (HMAS Perth, D29) が地中海に派遣された。
  17. ^ 1942年(昭和17年)3月7日、南雲機動部隊の別働隊がクリスマス島に艦砲射撃をおこない、3月下旬には第四水雷戦隊による占領作戦が実施された。そのため連合国側は充分な調査ができなかった。

脚注編集

  1. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 86(原本154-155頁)二等巡洋艦アンフイオン
  2. ^ a b イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 40a-42コラム(1)英連邦諸国の巡洋艦/■オーストラリア海軍
  3. ^ a b c ブラッセー海軍年鑑 1936, p. 30原本26頁
  4. ^ a b c d #第2258号、濠洲新巡洋艦 pp.3-4(濠洲新巡洋艦建設ニ關スル件)
  5. ^ a b イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 105仮装巡洋艦/■ドイツの仮装巡洋艦
  6. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 18–19(イギリス海軍)リアンダー級軽巡洋艦/イギリスが第一次大戦後に初めて建造した軽巡洋艦
  7. ^ ブラッセー海軍年鑑 1936, p. 21原本8頁
  8. ^ #第287号、英国軍艦3隻 p.5〔 H.M.S. PHAETON.
  9. ^ #欧2普通第200号 p.2
  10. ^ #第370号、シドニー竣工 p.3〔 H.M.A.S. SYENEY (late H.M.S. PHAETPN) 〕
  11. ^ ブラッセー海軍年鑑 1936, pp. 51–52原本69-70頁
  12. ^ ブラッセー海軍年鑑 1936, p. 15(逼迫せる英國の國防、17頁)
  13. ^ ブラッセー海軍年鑑 1937, pp. 14–15原本3-4頁
  14. ^ ブラッセー海軍年鑑 1937, p. 25原本24頁
  15. ^ a b Royal Australian Navy, 1939–1942, p.134
  16. ^ a b Royal Australian Navy, 1939–1942, p.135
  17. ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, pp.156-157
  18. ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, pp.159-160
  19. ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, pp.160,162
  20. ^ a b Royal Australian Navy, 1939–1942, p.160
  21. ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, pp.162
  22. ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, pp.163-164
  23. ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, pp.164
  24. ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, pp.164-165
  25. ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, p.165
  26. ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, p.166
  27. ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, pp.184-185
  28. ^ a b Struggle for the Middle Sea, p.47
  29. ^ Struggle for the Middle Sea, p.48
  30. ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, p.195
  31. ^ a b Royal Australian Navy, 1939–1942, p.187
  32. ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, pp.197-198
  33. ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, p.198
  34. ^ ビーヴァ―、第二次世界大戦(上) 2015, p. 304.
  35. ^ ビーヴァ―、第二次世界大戦(上) 2015, p. 305.
  36. ^ ビーヴァ―、第二次世界大戦(上) 2015, p. 529.
  37. ^ Unknown HMAS Sydney II sailor named after 80 years”. Australian Government, Department of Defence (2021年11月19日). 2022年1月1日閲覧。
  38. ^ Barlass, Tim (2021年11月19日). “Unknown sailor from HMAS Sydney was engaged to be married, family says”. Sydney Morning Herald. https://www.smh.com.au/national/named-after-80-years-the-unknown-sailor-from-hmas-sydney-20211118-p59a8o.html 2021年1月1日閲覧。 

参考文献編集

  • アントニー・ビーヴァー「第16章 真珠湾」 『第二次世界大戦 The Second World War 1939 ― 45 上』平賀秀明 訳、白水社、2015年6月。ISBN 978-4-560-08435-9 
  • 本吉隆(著)、田村紀雄、吉原幹也(図版)「イギリスの巡洋艦」 『第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド』イカロス出版株式会社、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0627-3 
  • G. HerMon Gill, Australia in the War of 1939–1945. Series 2 – Navy Volume I – Royal Australian Navy, 1939–1942, 1957
  • Vincent P. O'Hara, Struggle for the Middle Sea, Naval Institute Press, 2009, ISBN 978-1-59114-648-3
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『公文備考 D巻6 外事 昭和7(防衛省防衛研究所)欧2普通合第275号 7.11.7 濠洲海軍に関する件』。Ref.C05022025300。 
    • 『公文備考 D巻14止 外事 昭和8(防衛省防衛研究所)欧2普通第200号 8.6.16 濠洲艦隊の新編成に関する件』。Ref.C05022815000。 
    • 『公文備考 昭和9年 D 外事 巻11(防衛省防衛研究所)第2258号 9.6.14 濠洲新巡洋艦建造に関する件』。Ref.C05023486100。 
    • 『公文備考 昭和12年 D 外事 巻2(防衛省防衛研究所)第287号 8.9.2 英国軍艦3隻起工に関し英国政府より細目事項通知越の件』。Ref.C05110656600。 
    • 『公文備考 昭和12年 D 外事 巻2(防衛省防衛研究所)第370号 10.11.25 英国巡洋艦シドニー竣工に関し細目事項通知の件』。Ref.C05110661500。 

関連項目編集

外部リンク編集