シマンカスの戦い (スペイン語: Batalla de Simancas) は、939年7月19日に始まった、ラミロ2世率いるレオン王国軍とアブド・アッラフマーン3世率いる後ウマイヤ朝軍がシマンカスの城壁外で衝突した戦い。イスラム側からはアッ=カンダクの戦い英語: Battle of al-Khandaq)と呼ばれ、またこれがスペイン語になまりアルハンデガの戦い英語: Battle of Alhandega)と呼ばれることもある。

シマンカスの戦い
レコンキスタ
939年7月19日から
場所シマンカススペイン
結果 レオン王国の勝利
衝突した勢力
レオン王国 後ウマイヤ朝
指揮官
ラミロ2世
フェルナン・ゴンサレス
ガルシア・サンチェス1世
アブド・アッラフマーン3世

概要 編集

この戦闘は、ドウロ川地域をめぐる両国の対立に決着をつけるものだった。

934年、後ウマイヤ朝カリフのアブド・アッラフマーン3世が北方遠征を開始した。彼はアンダルシア人のサラゴサの支配者アブー・ヤフヤーの助けも借り、国中から戦士を集め大軍を組織した。これに対しレオン王ラミロ2世は、自身の手勢、フェルナン・ゴンサレス率いるカスティーリャ軍、ガルシア・サンチェス1世率いるナバラ軍の連合軍を結成して迎え撃った。

現地にいた人物によるアラブの年代記によれば、戦闘の最初の日には日食が起きた。

シマンカス近くに軍が着いたその時、すさまじい日食が起きて地上が闇に覆われ、我らと不信心者どもは共に恐怖に満たされた。それまでの人生で、そのようなことは見たことが無かったからである。二日の間、両軍ともに全く動きを見せなかった。[1]

戦闘は数日間におよび、最終的にキリスト教連合軍が勝利し後ウマイヤ朝軍を蹂躙した。ウエスカワリーであるフートゥン・イブン・ムハンマドは自らの部隊を戦闘に参加させなかったので、カラタユー付近でサラマ・イブン・アフマド・イブン・サラマに捕らえられ、コルドバのアルカサルの前でにされた[2]

記録に残っている日食は、現代の計算から事実であることが分かっている。ただしシマンカスは皆既帯から僅かに外に出ており、最大96.8%の日食だった[3]

脚注 編集

参考文献 編集

  • de la Granja, Fernando (1967) (スペイン語). La Marca Superior en la Obra de al-'Udrí, Estudios de la Edad Media de la Corona de Aragón. vol. 8 (1967), pp. 457–545. 
  • Martínez Díez, Gonzalo (2005) (スペイン語). El Condado de Castilla (711-1038): la historia frente a la leyenda. 2 volumes. Valladolid. ISBN 84-9718-275-8