メインメニューを開く

シュガー・レイ・ロビンソンSugar Ray Robinson1921年5月3日 - 1989年4月12日)は、アメリカ合衆国男性プロボクサー。本名はウォーカー・スミス・ジュニア(Walker Smith Jr.)。ミシガン州デトロイト出身。元世界ミドル級および世界ウェルター級チャンピオン。

シュガー・レイ・ロビンソン
Sugar Ray Robinson 1966.jpg
基本情報
本名 ウォーカー・スミス・ジュニア
(Walker Smith Jr.)
通称 オールタイム・パウンド・フォー・パウンド
拳聖
階級 ミドル級
身長 180cm
リーチ 184cm
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
誕生日 (1921-05-03) 1921年5月3日
出身地 ミシガン州デトロイト
死没日 (1989-04-12) 1989年4月12日(67歳没)
プロボクシング戦績
総試合数 200
勝ち 175
KO勝ち 109
敗け 19
引き分け 6
テンプレートを表示

多くの評論家やファンが、全階級を通じて史上最高のボクサーと認める「オールタイム・パウンド・フォー・パウンド」。日本のボクシング批評においては「拳聖」と称される。

1940年代半ばにおいて、すでに現代のボクシング技術と比しても遜色のない、リズミカルなフットワークやジャブ、左フックのダブル・トリプルコンビネーションなどを当然のように駆使した技術的先進性。モハメド・アリシュガー・レイ・レナードの先駆けともいえる華やかなボクシングスタイルとスター性。そして同時代を生きた強豪とことごとくグローブを交え、そのほとんどを打ち破り、歴史に残る数々の名勝負、芸術的ノックアウトシーンを実現した圧倒的実力。いずれをとっても史上屈指の万能な存在であり、前述のアリやレナードをはじめ、後世の名選手達に多大な影響を与えた。

ミドル級において成し遂げた同一階級での世界王座5度獲得は、階級や統括団体が増加した21世紀のボクシング界においても並ぶ者がない大記録である。

目次

来歴編集

1921年5月3日、米国ミシガン州デトロイトの貧しい農家の息子に生まれた。ロビンソンが11歳の頃に17歳のジョー・ルイスが同じブロックに住んでいたことがあった、しかし12歳の時に両親が離婚したため、母、姉と共にニューヨークのハーレム、ヘルズ・キッチンに移住した。13歳の時に、警察署のジムでボクシングを本格的に始めるが、当初はバスケットボールなどと並行して競技を楽しんでいた。しかし15歳の時に高校を中退しボクシングに専念するようになった。16歳の時に結婚、息子が誕生するが、19歳で離婚している。1943年にダンサーの女性と2度目の結婚、1949年に息子が生まれるが、1960年に離婚している。1965年に3度目の結婚。

フリーメイソンのメンバーでもあった[1]

シュガー・レイ・ロビンソン誕生編集

15歳の時に、アマの試合の出場資格申請の際、まず全米体育協会会員証を取得する必要があると知るが、18歳の年齢制限があったため、年上の友人レイ・ロビンソンの全米体育協会会員証を借りて試合に出場した。その後、観戦していた記者の「なんとスウィート(素晴らしい、華麗な、というほどの意味)なボクサーだ」と感嘆する声に、トレーナーのジョージ・ゲインフォードが「シュガーのようにスウィートだよ」と答えたという。 かくして誕生した「シュガー・レイ・ロビンソン」は、その後アマチュアボクシングの世界で快進撃を開始。1939年にフェザー級、1940年にはライト級でゴールデン・グローブを獲得。アマ戦績は85戦85勝、69KO勝ち。そのうち初回KOは40を数えたという。

プロデビュー〜ウェルター級時代編集

ロビンソンはプロデビューした頃、世界ヘビー級チャンピオンとなった“褐色の爆撃機”ジョー・ルイスのトレーニング・キャンプに参加していた時期がある。ルイスを育てた名伯楽ジャック・ブラックバーンは毎日、夕刻になるとロビンソンをキャンプ場近くの湖に連れ出し、ボートを漕がせては釣りに興じた。不平を漏らす若きロビンソンに、ルイスは「本当に釣りがしたけりゃ大西洋にでも行くさ。あれは君の腕を鍛えるためだ。ボート漕ぎは腕力をつけるのに一番だからな」と知らせたという。それ以降ロビンソンは進んでボート漕ぎに励み、腕力強化に努めた。
  • 1941年7月21日、後の世界ライト級チャンピオン、サミー・アンゴットに10回判定勝ち。
    • 9月25日、後の世界ウェルター級チャンピオンで、当時42勝無敗2分のマーティ・サーボに10回判定勝ち。
    • 10月31日、元世界ウェルター級チャンピオンで「反則王」と言われたラフ・ファイター、フリッツィー・ジビックに10回判定勝ち。
  • 1942年1月16日、ジビックとの再戦で10回TKO勝ち。
    • 5月28日、マーティ・サーボとの再戦に10回判定勝ち。
    • 7月31日、世界ライト級王座に就いていたサミー・アンゴットとノンタイトル戦で2度目の対戦、10回判定勝ち。
    • 10月2日、宿敵ジェイク・ラモッタと最初の対戦、10回判定勝ち。
この年、年間14勝9KO無敗の戦績、ジビック、サーボ、アンゴット、ラモッタを破った内容を評価され、リングマガジン ファイター・オブ・ザ・イヤーに選出された。デビュー3年目の選手としては異例の選出だが、ロビンソンの快進撃がいかに目覚ましかったかの証左であろう。
  • 1943年2月6日、デトロイトのオリンピア・スタジアムでジェイク・ラモッタと2度目の対戦。10回判定負けでプロ初黒星を喫した。デビュー以来の連勝は40でストップした。この試合のラモッタはロビンソンより16ポンド(7.3kg)も体重が重かった。
    • 2月26日、わずか三週間後、ラモッタと3度目の対戦。10回判定勝ち。
    • 2月27日、アメリカ陸軍に入隊。軍隊では再びウォーカー・スミスと呼ばれるようになる。この時、基地を回りジョー・ルイスとエキシビジョンマッチを行ったが、黒人兵が差別から観戦を許可されず、ロビンソンが抗議をする事もあった。
    • 8月2日、三階級同時制覇のヘンリー・アームストロングに10回判定勝ち。
  • 1944年3月29日、ヨーロッパ派遣のため配置されていたハミルトン駐屯地から、突然ロビンソンが姿を消し、4月1日に道ばたで発見され病院に運ばれる事件が起きる。4月5日に目を覚ましたロビンソンは駐屯地の兵舎の階段から足を踏み外したこと以外、5日間の記憶を完全に失っていると話した。このことで精神遅滞と診断されたロビンソンは6月3日に名誉除隊扱いとなるが、不可解な事件に兵役逃れの演技と書く新聞もあった。
  • 1945年1月16日、トミー・ベルに10回判定勝ち。ベルとは後に世界タイトルマッチで再戦することとなる。
    • 2月23日、ジェイク・ラモッタと4度目の対戦、10回判定勝ち。
    • 5月14日、ホセ・バソラと10回引き分け。バソラとはミドル級転向後に再度対戦する。
    • 9月26日、ジェイク・ラモッタと5度目の対戦、12回判定勝ち。
  • 1946年12月20日、マーティ・サーボが返上して空位となった世界ウェルター級王座決定戦で、トミー・ベルに15回判定勝ち、新チャンピオンとなった。
ロビンソンはデビューからジェイク・ラモッタに初黒星を喫するまで、後の世界王者アンゴット、サーボ、ラモッタ、元王者ジビックを破るなど40連勝。またラモッタへの雪辱を重ね、元三冠王アームストロング戦にも勝利するなど、再び破竹の快進撃を続けた(結局この連勝は英国でのターピン戦まで90に伸びる)が、世界挑戦まで5年、実に75戦73勝(49KO)1敗1分の戦績を要した。当時の王者サーボが2度敗れたロビンソンとの対戦を回避したこと、当時ボクシング業界最大勢力だったIBC(インターナショナル・ボクシング・クラブ)との専属契約を忌避し、自由契約選手の立場を取り続けたこと、そしてなにより当時ボクシング業界を牛耳っていたマフィアと協力するのを拒否したことが、その理由にあげられる。しかしロビンソンはその華麗なファイトスタイルによる人気と、戦績通りの圧倒的実力によってこれらのハンディを乗り越え、スーパースターの座に駆け上がった。この時期のロビンソンの強さはまさに圧倒的で、同時代の中量級における世界的選手ほぼ全員と対戦し、勝利した。数少ない例外としては、フランスの英雄マルセル・セルダン、「ジレット・ボクシング」の人気者チャック・デイビー(後年キッド・ギャビランに挑みKO負け)、無冠の帝王と呼ばれたチャーリー・バーリー[2]、鋼鉄の男トニー・ゼールがいる。
  • 1947年6月24日、ジミー・ドイルに8回TKO勝ち、初防衛に成功。試合後ドイルが死亡するリング禍が起こった。12月19日、チャック・テイラーに6回TKO勝ち、2度目の防衛。
  • 1948年9月23日、後の世界ウェルター級チャンピオン、「キューバの鷹」ことキッド・ギャビランにノンタイトル10回戦で判定勝ち。後に名王者となるギャビランの健闘が評価された熱戦。両者は翌年、タイトルを賭けて再戦する。6月28日、バーナード・ドクセンに15回判定勝ち、3度目の防衛。
  • 1949年7月11日、キッド・ギャビランとの再戦に15回判定勝ち、4度目の防衛。
  • 1950年8月9日、チャーリー・フサリに15回判定勝ち、5度目の防衛。

ミドル級時代〜伝説の欧州遠征、ラモッタとの最後の死闘編集

  • 1950年6月5日、世界ウェルター級王座を保持したまま、ペンシルベニア州認定世界ミドル級王座決定戦に出場。ロバート・ビレメインに15回判定勝ち、王座獲得。
    • 8月25日、5年前に引き分けたホセ・バソラに1回KO勝ちをおさめ初防衛。
    • 10月26日、後の世界ミドル級チャンピオン、カール・ボボ・オルソンと最初の対戦。12回KO勝ちで2度目の防衛。
1950年 - 51年、ラモッタとの6度目の対戦と前後して、ロビンソンは欧州各国を遠征した。
  • 1950年11月27日、フランス・パリでジーン・ストックに2回TKO勝ち。
    • 12月9日、ベルギー・ブリュッセルでルーク・ヴァン・ダムに4回TKO勝ち。
    • 12月16日、スイスのジェネバで、ジーン・バルザックに10回判定勝ち。
    • 12月22日、フランス・パリでロバート・ビレメインと再戦、9回TKO勝ち。
    • 12月25日、ドイツ・フランクフルトでハンス・シュトレツに5回TKO勝ち。
  • 1951年2月14日、シカゴにて、宿敵ジェイク・ラモッタが保持するNBA(全米ボクシング協会=後のWBA)認定の世界ミドル級王座に挑戦。13回TKO勝ちで王座獲得。自らが保持するペンシルベニア州認定王座との統一を果たし、二階級制覇を達成した。ロビンソン対ラモッタ、実に6度目にして最後の対戦は、映画「レイジング・ブル」にも描かれたとおりの壮絶な死闘となり、試合の日時と場所から、1929年に起こったギャングの抗争事件になぞらえて「聖バレンタインデーの虐殺」と呼ばれた。
    • 6月10日、ベルギー・アントウェルペンでヤン・デ・ブリンに8回TKO勝ち。
    • 6月26日、ドイツ・ベルリンにて、後の欧州ライトヘビー級チャンピオン、ゲルハルト・ヘクトと対戦、2回に反則のキドニー・ブローでKOしたため一度は失格負けの判定が下されるが、後にノーコンテストに変更された。

三階級制覇失敗〜引退へ編集

  • 1951年7月10日、英国ロンドンで、欧州ミドル級チャンピオンのランディ・ターピンと対戦、15回判定負けで世界ミドル級王座を失う。欧州各国で無敵の強さを見せつけていたロビンソンを破り、王座を英国にもたらしたターピンは、英国の国家的ヒーローとなる。
    • 9月12日、ニューヨークのポロ・グラウンズに6万大観衆を集めて行われたダイレクトリマッチで、ランディ・ターピンに10回TKO勝ち、世界ミドル級王座奪回。同王座2度目の獲得。
この年、1942年以来2度目のリングマガジン ファイター・オブ・ザ・イヤーに選出された。ラモッタ戦の死闘、ターピンからの王座奪回と、ロビンソンの劇的なキャリアがひとつのピークを迎えた一年であった。
  • 1952年3月13日、カール・ボボ・オルソンと2度目の対戦に15回判定勝ち、同王座防衛に成功。
    • 4月16日、映画「傷だらけの栄光」で有名な、元世界ミドル級チャンピオンのロッキー・グラジアノに3回KO勝ち、2度目の防衛成功。この試合後、ロビンソンは三階級制覇を目指し、ミドル級王座を返上すると表明。
    • 6月25日、世界ライトヘビー級チャンピオンのジョーイ・マキシムに挑戦、13回TKO負けで王座奪取ならず。ヤンキー・スタジアムで行われたこの一戦、ロビンソンは体格のハンデをものともせず、優勢に試合を進めたが、高温(39度)の気象のため徐々に体力を消耗。10回に高温に耐え切れなくなったレフェリーが交代するハプニングが発生。13回終了後、ロビンソンは熱中症のためコーナーから立ち上がれなかった。ロビンソンはこの試合後、引退を表明した。

引退後は、歌手やタップダンサーとしての活動、及びショービジネス業を始めるが、あまり上手くいかず、1954年には復帰へ向けたトレーニングを開始する。ロビンソンは自伝でこの時のことを、ダンサーになるためのトレーニングはボクシングで行ったどんなトレーニングよりも厳しかったと述べている。

復活〜伝説の王者へ編集

  • 1955年1月5日、ジョー・リンドンを6回KOで下し再起。33歳のロビンソン、約2年半ぶりの試合だった。
    • 1月19日、ラルフ・タイガー・ジョーンズに10回判定負け。再起2戦目にして、プロ4度目の敗北を喫した。この敗戦をきっかけに、ロビンソン限界説も一部で語られるが、ジョーンズ戦以降4連勝で世界挑戦へ前進する。
    • 7月22日、カール・ボボ・オルソンの世界王座に挑んだ(判定負け)経験のあるロッキー・カステラーニに10回判定勝ちするが、6回にはダウンを喫するなど大苦戦。2-1でロビンソンを勝者とする判定が発表されると、サンフランシスコのカウ・パレスには歓声と抗議の声が交錯した。
    • 12月9日、過去に2度対戦(2勝)したカール・ボボ・オルソンの保持する世界ミドル級王座に挑戦。不利の予想を覆す2回KO勝ちで、34歳にして通算3度目の王座獲得を果たした。ロビンソン引退後、ようやく世界の頂点に立ったオルソンは、再起後のロビンソンの不調もあって、有利を予想されたが、復活にかけるロビンソンの鬼気迫る猛攻の前に、ひとたまりもなく倒された。「ロビンソンと同時代でなければ、名王者として君臨したであろう」という仮定で語られる名選手は数あれど、その悲運を象徴する存在が、このオルソンと言える。
  • 1956年5月16日、シカゴ・カブスのホームスタジアム、リグレー・フィールドでカール・ボボ・オルソンとダイレクトリマッチで4度目の対戦。4回KO勝ちで世界ミドル級王座防衛。オルソンは、またもロビンソンの軍門に下る。
  • 1957年1月2日、ジーン・フルマーに15回0-3の判定負け、世界ミドル級王座を失った。
    • 5月1日、ジーン・フルマーとのダイレクト・リマッチに5回KO勝ち。通算4度目の世界ミドル級王座を獲得。5回に王者フルマーをキャンバスに沈めた、完璧な左フックの一撃は、ボクシング史上最も有名なKOパンチのひとつである。
    • 9月23日、元世界ウェルター級チャンピオンのカーメン・バシリオに15回1-2の判定負け、世界ミドル級王座を失う。この一戦は、リングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。ちなみにロビンソンは1年の間に2度、世界ミドル級王座から転落したことになる。これも珍しい記録ではある。
  • 1958年3月25日、ダイレクトリマッチでカーメン・バシリオに15回2-1の判定勝ち、世界ミドル級王座奪回、実に通算5度目の王座獲得を成し遂げた。なお、この一戦は前年の初戦と同じく、リングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。

王座転落〜黄昏の時代「一杯のコーヒー」発言編集

  • 1959年8月、防衛戦を行わないことを理由に、NBAから世界ミドル級王座を剥奪され、ロビンソンはニューヨーク州認定の世界ミドル級王座のみを保持することとなった。空位の世界ミドル級王座には、8月29日に行われた王座決定戦で、カーメン・バシリオを14回KOで下したジーン・フルマーが就いた。
  • 1960年1月22日、ポール・ペンダーに15回1-2の判定負け、ニューヨーク州認定世界ミドル級王座を失う。
    • 6月10日、ポール・ペンダーとの再戦、またも15回1-2の判定負け。ニューヨーク州認定世界ミドル級王座奪回ならず。これまで数々の強敵に雪辱を果たしたり、返り討ちにしてきたロビンソンだが、実にプロ152戦目にして、生涯初の「返り討ち」に遭った。
    • 12月3日、ジーン・フルマーの持つNBA認定世界ミドル級王座挑戦、15回引き分け。通算6度目の王座奪取に失敗した。
  • 1961年3月4日、ジーン・フルマーにダイレクトリマッチで再挑戦、15回0-3の判定負け、またも王座奪取に失敗。ロビンソン対フルマーの対戦成績は、フルマーの4戦2勝1敗1分に終わる。そしてこの一戦が、ロビンソン生涯最後の世界タイトルマッチとなった。
フルマーとの4度目の対戦以降、ロビンソンは40歳を超えてなお、リングに上がり続けた。全盛期の派手な散財、事業投資の失敗などが祟り、リングに上がるしか稼ぐ方法がなかったという。さすがにその実力も衰え、往年の彼なら簡単に倒していたような相手に敗れることもしばしばであった。しかし彼は、もう引退すべきだという評論家の声に対し「彼らは私に一杯のコーヒーも奢ってくれたことはない。私は自分の生活のために闘うのだ。彼らの思い出のためにでなく」と反論した。過去の栄光の記憶を至上とする傍観者と、現実の生活のために闘う名ボクサー、という典型的な構図を象徴するセリフである。
 
1965年、マディソン・スクエア・ガーデンで行われた引退セレモニーにて

ラストファイト〜引退セレモニー編集

1965年11月10日、世界ミドル級1位のジョーイ・アーチャーと対戦。この時点で44勝1敗の成績を持つアーチャーだったが、これまでのキャリアで1度しかダウンを奪ったことが無いほどパンチ力の無い選手であった、しかしロビンソンは7回に右クロスを浴びてダウンを喫してしまい、10回判定負け。これがロビンソンのラスト・ファイトとなった。なお、アーチャーはこの後、エミール・グリフィスの世界ミドル級王座に連続挑戦するが連敗を喫し、無冠のままリングを去った。

1965年12月10日、数々の名勝負を残したニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、ロビンソンは引退式を行った。純白のガウンで登場し、四方に礼をするロビンソン。その眼前に、かつての宿敵たちが姿を現す。カール・ボボ・オルソンジーン・フルマーカーメン・バシリオランディ・ターピン。史上最高のボクサーにふさわしい、引退セレモニーであった。

引退後編集

ロビンソンは自伝に、引退時の1965年までに既に稼いだお金を使い果たして破産しており、マンハッタンの小さな自宅アパートには、引退セレモニーで受け取った大き目のトロフィーを支えられる強度を持つ家具さえなかったことで、トロフィーを床に置かざるを得なかったと記している。

1967年、国際ボクシング名誉の殿堂博物館の殿堂入りを果たす。

晩年は糖尿病とパンチのダメージからアルツハイマー病を発症。

67歳で死亡、イングルウッドの共同墓地に埋葬された。

脚注編集

  1. ^ well known masons”. 2014年7月27日閲覧。
  2. ^ 同じく無冠の帝王として知られたサム・ラングフォードと双璧をなすほどの強豪。アーチー・ムーアに判定勝ち


関連項目編集

外部リンク編集

前王者
ジェイク・ラモッタ
世界ミドル級王者

1951年2月14日 - 1951年7月10日

次王者
ランディ・ターピン
前王者
ランディ・ターピン
世界ミドル級王者

1951年9月12日 - 1952年12月(返上)

空位
次タイトル獲得者
カール・ボボ・オルソン
前王者
カール・ボボ・オルソン
世界ミドル級王者

1955年12月9日 - 1957年1月2日

次王者
ジーン・フルマー
前王者
ジーン・フルマー
世界ミドル級王者

1957年5月1日 - 1957年9月23日

次王者
カーメン・バシリオ
前王者
カーメン・バシリオ
世界ミドル級王者

1958年3月25日 - 1959年8月(剥奪)

空位
次タイトル獲得者
ジーン・フルマー