シレムンŠiremün、? - 1252年?)は、モンゴル帝国の皇族。第2代モンゴル皇帝(カアンオゴデイの三男のクチュの子。『集史』などのペルシア語表記では شيرامون Shīrāmūn、『元史』などでの漢字表記は失烈門、昔列門太子。シラムンとも。

概要

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父のクチュはオゴデイから後継者として期待されていたが、1236年2月に南宋攻略の途上で陣没した[1]。このためシレムンがクチュの後を継ぎ、オゴデイより後継者に任ぜられていた[2]が、1241年にオゴデイが死去すると、若年で後ろ盾もなかったシレムンには力がなかったため、伯父のグユクが第3代を継いだ。

しかしグユクの治世が短命に終わると、第4代カアンを決定するクリルタイでトルイ家の当主モンケとシレムンが位を争うことになった。グユクの皇后だったオグルガイミシュが遣わした使者はかつてシレムンがオゴデイより後継者に任ぜられたことを持ち出し、シレムンこそが次代のカアンとなるべきであると主張した。これに対し、トルイ家のモゲは「オゴデイ・カアンの命に誰が逆らおうか?しかし以前のクリルタイで[太宗が後継者に定めたシレムンではなく]グユクをカアンに立てたのはドレゲネらであって、すなわち最初にオゴデイ・カアンの命に逆らったのは汝ら[オゴデイ家の人物]である。今になってどうして[シレムン以外の者を立てることを]咎められるというのか?」と反駁し、オゴデイ家側の人物はこれに全く反論できず結果としてモンケが第4代を継いだ[3]

しかし、モンケの即位に不満を抱いたシレムンは、グユクの長男のホージャ・オグルやオグルガイミシュらと共謀してモンケの暗殺を謀ったが、機先を制されてモンケに捕らえられた。しかもシレムンの後見人だった人物がモンケに寝返って計画の全てを自供したため、モンケの報復によりオグルガイミシュらは死刑となる。シレムンはモンケの弟のクビライと仲が良かったため、クビライの助命嘆願により一時的に華北に追放されたが、やがて禍根を恐れたモンケが侍臣のヤラワチの進言を受けたことにより、毛布に包まれて河に投げ込まれる方法で処刑された。

子孫

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ペルシア語系図資料『五族譜』、『元史』宗室世系表、諸王表などによると、シレムンにはブラドチ( پولادچى Būlādchī 孛羅赤大王)という息子がひとりおり、さらにクビライによって至元27年にブラドチの息子のカダイ( قادای Qādāī 哈歹)は靖遠王に封じられている。また、カダイの弟のアルグイ( الغوی Ālghūī 阿魯灰)も襄寧王に封じられており、カダイの息子のイェスブゲン?(也速不干)も襄寧王に封じられている。

『元史』ではブラドチはシレムンの息子として記されているが、『集史』オゴデイ・カアン紀諸子表ではブラドチはシレムンの弟と述べている。『五族譜』はクチュにはシレムン、ブラドチ、ソセの三人の息子がいたと書かれていて、シレムンの息子以外にももうひとりブラドチというシレムンの弟がいるという、両論併記の立場をとっている[4]

クチュ王家

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脚注

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  1. ^ 『元史』巻2太宗本紀「八年丙申……冬十月……皇子曲出薨」
  2. ^ 『元史』巻2定宗本紀「太宗嘗有旨以皇孫失烈門為嗣」
  3. ^ 『元史』巻3憲宗本紀「歳戊申、定宗崩、朝廷久未立君、中外洶洶、咸属意於帝、而覬覦者衆、議未決……。時定宗皇后海迷失所遣使者八剌在坐、曰『昔太宗命以皇孫失烈門為嗣、諸王百官皆与聞之。今失烈門故在、而議欲他属、將置之何地耶』。木哥曰『太宗有命、誰敢違之。然前議立定宗、由皇后脱列忽乃与汝輩為之、是則違太宗之命者、汝等也。今尚誰咎耶』。八剌語塞」
  4. ^ 松田1996,36-37頁

参考文献

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  • C.M.ドーソン著、佐口透訳注 『モンゴル帝国史 2』(東洋文庫 128)、平凡社、1968年12月
  • 松田孝一「オゴデイ諸子ウルスの系譜と継承」 『ペルシア語古写本史料精査によるモンゴル帝国の諸王家に関する総合的研究』 平成7年度科学研究費補助金(総合研究A)研究成果報告書(研究課題番号 05301045)平成8年3月
  • 村岡倫「オゴデイ=ウルスの分立」『東洋史苑』39号、1992年
  • 新元史』巻111列伝8
  • 蒙兀児史記』巻37列伝19