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ジェラルド・ゴルドーGerard Gordeau男性1959年3月30日 - )は、オランダ出身の空手家キックボクサー総合格闘家プロレスラー。ドージョー・カマクラ主宰。

ジェラルド・ゴルドー
基本情報
本名 ジェラルド・ゴルドー
(Gerard Gordeau)
通称 喧嘩屋
国籍 オランダの旗 オランダ
生年月日 (1959-03-30) 1959年3月30日(60歳)
出身地 デン・ハーグ
所属 ドージョー・カマクラ
身長 198cm
体重 100kg
バックボーン 極真空手サバット
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来歴編集

6人きょうだいの上から2番目として生まれる。兄、弟、妹が3人というきょうだい構成。自身が11歳の頃に父を喪い、当時のオランダが典型的な低福祉であったため、12歳の頃から道路工事などの肉体労働を行った。兄は頭が良かったので高校に進学したが、自分は学校にロクに通っていなかった。少年時代は恐喝も行ったが、ゴルドーにとって恐喝は妹達が食べていくためのやむを得ない行為でもあった[1]

16歳の頃、ゴルドーはインドネシア人の友達のところに足しげく通い、その母親に毎日のように食事を提供してもらっていた。そのインドネシア人の友達は毎日午前10時になるとどこかへ出かけていなくなるが、どこに行くかゴルドーが聞いても友達は教えてくれなかった。そこで友達をこっそり尾行したら、体育館でインドネシア人が50人程度集まって空手の練習をしていた。その様子を覗いていたら道場の先生から見学を勧められ、それがきっかけで恵まれた体格を生かし、空手を始める。空手を始めたばかりの頃、黒帯であったが2年間のブランクがあって白帯から空手を再開していた日本人の少年と組み手を行うと、体が細くて眼鏡をかけていて弱そうだと侮っていたゴルドーはハイキック1発でKOされてしまった。目を覚ました後にもう1度挑戦したらまたKOされたため、1年後には自分が倒してやると誓った。その土曜日の稽古だけでは飽き足らず他の道場でも稽古を行い、週3回の稽古で強くなったゴルドーは1年後に実際にかつて自分を倒した日本人の少年をKOしてやった[1]

極真会館主催の世界大会で来日を果たした後、日本のK-1リングス等で活躍。一時USA大山空手の傘下に入っていたが、現在はオランダでドージョー・カマクラという道場を持ち後進を指導している。また、サバットフランスキックボクシング)の試合にも出場した経歴があり、プロレスラーとしても試合をこなしている。

1988年8月13日、第2次UWF前田日明と異種格闘技戦で対戦。試合開始直後から打撃で前田を圧倒するも、右ハイキックをキャッチされ裏アキレス腱固めで敗北。ただし、この試合は事前に結末の決まった試合(フィックスト・マッチ)でリハーサル通りの結果だった[2]。この試合についてゴルドーは「マエダには言いたいことがある。『俺はゴルドーをやっつけた。俺はゴルドーよりも強い』とマエダが言うのはおかしいじゃないか。ビジネスでやったフィックスト・マッチだった、と正直に言うべきだ」と言っている[2]。なお、この試合の際のゴルドーは、ボクシンググローブとキックパンツというキックボクサー風の姿だった。

レスリングやボクシングも30歳くらいの頃に始め、初心者の時に自分をボコボコにした相手には決まって猛練習の末にリベンジした。ボクシングを始めた頃はアメリカのゴールデングローブのチャンピオンにもなったことがある選手が、眼鏡にサンダル、マウスピースもハメずに自分とスパーリングを行ったが、それでも触れることすらできず、逆に頭がカリフラワーのように腫れあがるほど殴られた。自身は大山倍達が掲げていたコンプリートな武道としての空手に憧れており、金、政治、権力闘争などが絡んでマイルドなものになってしまった極真空手では飽き足らないと思い、様々な格闘技を身に付けて総合的な強さを身に付けなければダメだと考えていた[1]

リングスに参戦し、1992年1月25日に佐竹雅昭と対戦した時は、2R終盤にブレイクからの試合再開の際、勘違いをしたのかコーナーに戻ってしまうが、その直後の佐竹の攻撃に怒り、顔面パンチ(当時のリングスは素手のため、顔面へのパンチ攻撃は反則だった)やサミングなどの反則行為を行い、後ろを向いた佐竹にさらに追撃を加え反則負け。

1993年9月4日、K-1 ILLUSIONでアダム・ワットと対戦。2R2分7秒、右バックブローでKO負け。

1993年10月3日、KARATE WORLD CUP '93(正道会館主催)に出場。反則が多く、1回戦で後川聡之に判定負け。

1993年11月12日、当時は異色の新興格闘技団体だったUFC 1に参戦する。当時ゴルドーはサバットのヨーロッパチャンピオンであり、見栄えするサバットのビデオだけ送られたUFC関係者はゴルドーをキックだけの選手だと勘違いしていた。当時はインターネットウィキペディアも存在しないため、このような勘違いは無理からぬことであったが、サバットのルール上つま先でチョンと蹴るだけの選手だろうと勘違いして与やすしと考えた関係者は当初大本命のホイス・グレイシーと1回戦を組んだが、後にリングスに参戦していた有名な選手であることをしると関係者はホイスと反対のブロックにエントリーされるようにトーナメントを組み直した[1]

UFC 1のトーナメント1回戦ではテイラ・トゥリ(元幕下力士・高見州)と対戦。トゥリの突進をリング際でいなすと、バランスを崩し転んだトゥリの顔面へ躊躇なくサッカーボールキックを叩き込み、戦意喪失し座り込んだところを素手で顔面を殴るというKO勝利を収める[3]。試合後の検査でトゥリは顔面骨折が判明、ゴルドーの足の甲には折れたトゥリの歯が突き刺さっていたという。その後ゴルドーは決勝に進出、ホイス・グレイシーと対戦。しかしこの試合中、ゴルドーはチョークスリーパーを狙うホイスの腕に噛みつくという蛮行に出る。ホイスはこの行為に激怒し、レフェリーストップ後もゴルドーを絞め続けた。

ほぼノールールであったUFC 1は当のゴルドーすらも危険だから開催するべきでなかったと否定的に語るほどであったが、規定に無かったレフェリーストップをレフィリーの裁定で行ったことに関しては「正しい」と評価している。ゴルドーはこの大会で決勝まで進出して6万ドルのファイトマネーを獲得したが、危険な割に安いファイトマネーだけしか支払われなかった自分を尻目にペイ・パー・ビューで荒稼ぎしたUFCに腹が立ち、UFC 2のオファーは断った。主催者のアート・デイビーは初期UFCについての本を発売したがゴルドーには最初献本すらせず、ゴルドーがせがんだらようやく1冊くれたという。ただし、デイビーとの関係は悪くないといい、UFC 2へのオファーを断った後も、バウンサー時代からの旧知の中であったフレッド・ハマカーをデイビーに選手として紹介し、他にもレムコ・パトゥールも紹介した。そんなゴルドーは極真の技術と魂を持ってUFC 1を戦い、UFCを宣伝した自分に全く触れないUFCに対して「UFCの歴史を軽んじている」「日本人はモンゴル出身横綱が続々登場してからも、初の外国出身横綱のは覚えているだろう?」と不満を持っている[1]

1995年4月20日、「VALE TUDO JAPAN OPEN 1995」では、レフェリーの制止を無視して中井祐樹に故意のサミングを繰り返した。中井は右目を失明し、総合格闘家として活動することは不可能になった(現在は柔術家として活躍)。この試合で、ゴルドー自身も格闘家としての選手生命を絶たれたともいえる。後に2019年にゴルドーは、膠着を解いてきちんと試合させるようにレフェリーに要求したが、それでも密着したままであったので膠着を止めさせるためにサミングを行ったと真相を話した。サミングを受けても諦めずに戦い抜いた中井をゴルドーは「本物のサムライ」と後に称賛している[1]

プロレスのリングにおいては、空手を武器にUWF新日本プロレスUFOZERO-ONEを主戦場にしていた。アントニオ猪木の引退カウントダウン(1995年)の相手を務めたことでも有名。ファイトスタイルがこれらの団体に受けが良いからか、特に猪木、橋本真也からの評価は高かった。

現在はプロレスラーとして来日するケースが多いが、格闘技の試合は全くない。2005年9月11日、BIG MOUTH LOUD 旗揚げ戦でエンセン井上と対戦。サミングを仕掛けるなど喧嘩ファイトを繰り広げたが、2分56秒腕ひしぎ十字固めで一本負け。

2010年4月11日には久々に来日し、ZERO1靖国神社大会に参戦。弟子の崔領二とのタッグで澤宗紀組と対戦し勝利した。

人物編集

  • デン・ハーグとアムステルダムで合計8年間バウンサー(用心棒)を行っていた者としての習性か、喧嘩ファイトが身上であり、自身も「時には人を殺しても平気なくらいに凶暴になれる」と豪語したことがある[4]。どの団体に参戦した際も反則が多く、初期のUFCのようなほぼ制約が無い団体であっても最低限のルールも守らないため、選手としての評価は極めて低い。しかし総合格闘技黎明期においてローキックで足を殺し、パンチでKOを狙うといった後のストライカーの原型ともいえる完成度の高い試合運びをしていた。
  • 1990年代初頭に背中から肩にかけて刺青を入れた。西洋風のタトゥーではなく、日本ヤクザの入れる紋々をビッシリと入れている。
  • 兄のニコ・ゴルドーも格闘技の選手だったことがあり、ケンドー・ナガサキと格闘技ルールで対戦したことがある。
  • 食べ物ではドジョウが苦手。過去にUWF参戦のため来日した時に前田にドジョウ鍋の店に連れて行かれ、生きたドジョウをそのまま鍋に入れる様子を見て「これは人類の食べ物ではない」と思ったという[5]
  • 元々日本趣味の嗜好があり、自宅には日本風の鎧を飾っているほか、上記の刺青も日本趣味が昂じてのもの。ドージョー・カマクラの入口に振袖姿の日本女性の等身大ポスターを貼っていたこともあるという[5]
    • 日本文化との出会いは18歳の頃。通っていた空手道場にインドネシア人のコーチが来て日本の話を色々としたので、空手家として強くなって実際に日本に行きたいと思ったのがそもそものきっかけであるという[1]
  • 1999年1月4日、新日軍対UFO軍の争いとして、ゴルドーはUFO軍として参戦した。リング上でお互いが乱闘になるが、新日軍はゴルドーを恐れて殴りかからず、代わりに村上一成が新日軍の大人数に一方的に殴られるという珍事が発生した(詳細は村上のリンク先を参照)。ちなみにこの乱闘の原因も、花道を歩く新日の若手をゴルドーがいきなり殴ったからである。当時放映されたテレビの映像で、クレームをつける若手に対してゴルドーが真っ先に殴りかかる姿が確認できる。
  • 酒は飲まない。あまり酒癖が良くないのか、「酔うとわけが分からなくなるから」という理由で自重しているという。
  • 地元では車両強盗が非常に多いため、愛車の助手席に護身用としてバットを置いている。ゴルドーの弁では「日本製のバットが一番いい」とのこと。
  • 粗暴な振る舞いが多く、ゴルドーを嫌う格闘技関係者は多いが、極真空手の世界選手権で戦った増田章の道場を表敬訪問するなど、試合場外では意外に紳士的な一面も持っている。
  • 格闘技には人間としての生き様が関わっているという信念を持ち、ゴルドーも格闘技の指導者として格闘家に人間性を重視する面がある。コナー・マクレガーに関しては2019年のインタビューで「才能は素晴らしいが傲慢で人間としてはダメ」と評している[1]
  • プロレスラーのスペル・デルフィンの旧リングネーム「モンキーマジック・ワキタ」の名付け親である。デルフィンの動きを見たゴルドーが「おまえ(デルフィン)は孫悟空(モンキーマジック)みたいな動きをするな」と賞賛したことから名付けられた。
  • PRIDE GRANDPRIX 2000 開幕戦藤田和之vsハンス・ナイマンで藤田のセコンドを務めた。新日本プロレスを退団した藤田が師匠であるアントニオ猪木の肝入りによりPRIDEへの電撃参戦が決定し、ナイマン戦が決定するや猪木が直々にゴルドーにセコンド依頼をしたという。ナイマンのセコンドにはディック・フライがいたが、藤田陣営とナイマン陣営との間で「同じオランダ人なのに日本人の味方をしやがって!」と試合の前後に舌戦があったという。
  • ゴルドーは若い頃、空手を食べていくための手段としては全く考えておらず、そもそも当時の空手家は大山倍達、ルック・ホランダー、松井章奎を除けば金など貰えなかったという[1]
  • アムステルダムは英語の通用度も高いし親切な人も多いため、アムステルダム=危険というのは偏見であると、2019年のインタビューでは話していた[1]

他の格闘家との関係編集

  • ゴルドーはホランダーや松井が極真を「水で薄めた」と批判しており、オリンピックのようなポイントシステムを採用しているのはもはや極真ではない、空手をやってみたいと思わせるのは良いことだがそれは「オリンピック空手」であって「極真」と呼んでほしくないと感想を述べた。松井に関しては「お金儲けは悪いことではないけど、自分たちのルーツを忘れて今の極真を極真と名乗るのは間違っている」と述べている。ゴルドー自体金儲けを武道の精神に優先することには嫌悪を持っている。その一方、中村誠の道場は一番極真空手の精神を体現していると評価している[1]
  • 中井祐樹に対しては当初謝罪をしていなかった。そればかりか『格闘技通信』のインタビューでも「それは彼にとって気の毒なことだった」と言った上で「同じ場面が来たら私はまた同じことをやる」と徹底した悪党ぶりを見せつけた[6]。ただ、2019年の時点ではすでに和解しており、ゴルドーは謝罪の際に中井に何も文句を言われなかったとのこと。ゴルドーはそんな中井を「強い魂、ココロを持っている」と称えた[1]
  • アーネスト・ホーストに関しては「K-1ではチャンピオンだが極真の大会には出ない」と他流試合、異種格闘技を積極的に行う極真空手の選手との違いを指摘した。レミー・ボンヤスキーに関しては「口ばっかりだ(笑)」と酷評している。その点、セミー・シュルトは「極真ではないが空手家だからK-1にもPRIDEにも出ることができた」と話している。
  • 真撃ではハンス・ナイマンシュートになったことがある。場を盛り上げようとしたナイマンに試合前に年寄り呼ばわりされたのが原因であるといい、自分が言っている年寄りがどういうものであるかを体で分からせてやろうと思った。そんなナイマンをゴルドーは「リアルファイトもやるいいヤツ」と評していた[1]
  • 小川直也に関しては「クソッタレ、マザーファッカーだ!」と侮蔑している。1999年1月4日の東京ドームで行われた橋本真也vs小川直也戦で試合後に小川がボコボコにした相手である橋本に対して偉そうにしたため、礼儀を重んじるゴルドーにとっては我慢ならなかったという。もし自分がその試合で小川のセコンドを務めていなかったら、自分が小川を殺していたとまで2019年の談話で怒りを露わにしていた[1]
    • 2019年の時点で小川は不倫問題で世間を賑わせているが、ゴルドーは「アイツはそういう人の道を外れたことでしか注目を集められないんだよ!」と非難しており、さらに「あいつは今お人形遊びでもしているのか?何もしていないだろう」「ああいうふざけた態度を取ったから亡くなった橋本さんよりも生きている小川の方が忘れ去られてしまったんだ」と厳しい言葉を投げかけた[1]

戦績編集

総合格闘技 戦績
4 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
3 3 0 0 0 0 0
3 0 2 0 1
勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
× 中井祐樹 4R 2:41 ヒールホールド VALE TUDO JAPAN OPEN 1995
【1回戦】
1995年4月20日
× ホイス・グレイシー 1R 1:44 チョークスリーパー UFC 1: The Beginning
【決勝】
1993年11月12日
ケビン・ローズイヤー 1R 0:59 TKO(タオル投入) UFC 1: The Beginning
【準決勝】
1993年11月12日
テイラ・トゥリ 1R 0:26 TKO(顔面蹴り) UFC 1: The Beginning
【1回戦】
1993年11月12日
× 佐竹雅昭 2R 2:13 反則 リングス 回天 1992年1月25日
長井満也 4R 0:34 TKO リングス 炎上 1991年12月7日

獲得タイトル編集

  • UFC 1トーナメント準優勝

脚注編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 東邦出版『KAMINOGE』vol.85 pp.104-121
  2. ^ a b 柳澤健『1984年のUWF』pp.293-299
  3. ^ 当時のUFCはグローブの着用が義務付けられておらず、グラウンド状態の相手への蹴りも禁止されていなかった。
  4. ^ 大沼考次・著者『最強の格闘技は何か』1996年、14頁。
  5. ^ a b 別冊宝島243『プロレスを変えた野郎ども』(宝島社、1996年)pp.148 - 149
  6. ^ 平直行『平直行の格闘技のおもちゃ箱』(2006年、福昌堂)pp.300. ISBN 4892247979

関連項目編集

外部リンク編集