ジェームズ・スミス=スタンリー

ストレンジ卿ジェームズ・スミス=スタンリー英語: James Smith-Stanley, Lord Strange PC、出生名ジェームズ・スタンリーJames Stanley)、1717年1月7日1771年6月1日)は、グレートブリテン王国の政治家。ランカスター公領大臣を務めた(在任:1761年 – 1771年)[1]。「ストレンジ卿」の儀礼称号を使用したが、実際にはストレンジ男爵の継承権を有さず、僭称だった[1][2]

1749年頃の肖像画。

生涯編集

第5代準男爵サー・エドワード・スタンリー(後の第11代ダービー伯爵)とエリザベス・ヘスキス(Elizabeth Hesketh、1694年8月29日 – 1776年2月24日、ロバート・ヘスキスの娘)の息子として、1717年1月7日に生まれ、29日にプレストンで洗礼を受けた[1]。1729年にウェストミンスター・スクールに入学、1735年にライデン大学に進学したのち、1737年頃にグランドツアーに出た[3][2]

ダービー伯爵家はランカシャー選挙区英語版で1議席を支配するほどの影響力を有したものの、1736年に10代伯爵ジェームズ・スタンリーが死去すると、それまでの議員だった5代準男爵サー・エドワード・スタンリーが爵位を継承して11代伯爵になった[4]。これにより補欠選挙が行われたが、11代伯爵の長男にあたるストレンジ卿が未成年だったため、ダービー伯爵家は候補者を出せず、議席をトーリー党ピーター・ボールド英語版に奪われた[4]。そして、1741年イギリス総選挙ではストレンジ卿が成人していたため出馬し、無投票で庶民院議員に当選した[4]。以降1771年に死去するまで同選挙区で再選を繰り返した[3]

議会では無所属として行動したが、ホレス・ウォルポールは1749年に「全般的にはトーリー党側で投票している」と記述している[3]。1744年のフランスによるイギリス侵攻計画英語版1745年ジャコバイト蜂起ではハノーヴァー朝を支持したが、部隊招集に向けた募金を「チャールズ1世の暴挙に例えて」反対した[3]。以降もヘンリー・ペラムの首相期には野党の立場を維持したが、1751年に政府が主張した土地税率据え置きに賛成した[3]

1757年初に行われたジョン・ビングの軍法会議に関する弁論ではビング側に立ち、軍法会議の裁判官を批判した[2]。同年4月と6月の2度にわたり、ヘンリー・フォックスが組閣を試みたとき、ストレンジ卿はフォックスの組閣が失敗すると見抜いて、自身がかねてより望んでいたランカスター公領大臣への就任を辞退した[2]。同年から1771年までランカシャー統監英語版を務めた[1]

1761年12月に大ピット派議員ジョージ・クック英語版が提出した動議に賛成したことで国王ジョージ3世が(北部担当国務大臣第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートへの手紙で)不快感を示したが、翌年5月までにストレンジ卿のランカスター公領大臣就任が議論されるようになり、11月に第9代キノール伯爵トマス・ヘイ英語版がランカスター公領大臣から辞任するとストレンジ卿は12月にその後任に任命され[2]、同12月15日に枢密顧問官に任命された[1]。しかし、大臣としての賃金1,200ポンドの受け取りを拒否し、宮廷から距離を置いたほか、与党側に立つことをせず無所属議員を貫き通し、ジョン・ウィルクスの誹謗文書事件では首相ジョージ・グレンヴィルと同じくウィルクスを批判したものの、批判の内容は異なったという[2]

第1次ロッキンガム侯爵内閣期(1765年 – 1766年)には1765年印紙法の廃止に反対票を投じ、チャタム伯爵内閣期(1766年 – 1768年)では与党側に立ったとされ、グラフトン公爵内閣期(1768年 – 1770年)ではウィルクスの庶民院議員就任に強硬に反対し、ノース内閣期(1770年 – 1782年)ではロンドン市長ブラス・クロスビー英語版による議事録出版問題をめぐりクロスビーのロンドン塔投獄を支持したとされる[2]

1771年6月1日にバースで卒中を起こして死去、オームズカーク英語版で埋葬された[1]。父に先だって死去しており、爵位を継承することはなかった[1]。遺言状では「ストレンジ子爵」の儀礼称号を使用した[1]

家族編集

1747年3月17日、ルーシー・スミス(Lucy Smith、1759年2月5日没、ヒュー・スミスの娘)と結婚、同時に「スミス」を姓に加えた[1]。2人は2男3女をもうけた[5]

  • エドワード(1752年 – 1834年) - 第12代ダービー伯爵
  • トマス英語版(1753年 – 1779年) - 庶民院議員、生涯未婚
  • エリザベス(1796年4月13日没) - 1778年7月28日、第3代準男爵サー・トマス・ホートンと結婚、子供あり
  • ルーシー(1833年没) - 1772年4月25日、ジェフリー・ホーンビー(Geoffrey Hornby、1750年 – 1812年7月31日、エドマンド・ホーンビーの息子)と結婚、子供あり

出典編集

  1. ^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1916). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Dacre to Dysart) (英語). 4 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 216–218.
  2. ^ a b c d e f g Namier, Sir Lewis (1964). "SMITH STANLEY, James, Lord Strange (1717-1771).". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年8月2日閲覧
  3. ^ a b c d e Cruickshanks, Eveline (1970). "STANLEY (afterwards SMITH STANLEY), James, Lord Strange (1717-71).". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年8月2日閲覧
  4. ^ a b c Cruickshanks, Eveline (1970). "Lancashire". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年8月2日閲覧
  5. ^ "Derby, Earl of (E, 1485)". Cracroft's Peerage (英語). 5 February 2007. 2020年8月2日閲覧

外部リンク編集

グレートブリテン議会英語版
先代:
ピーター・ボールド英語版
リチャード・シャトルワース英語版
庶民院議員(ランカシャー選挙区英語版選出)
1741年 – 1771年
同職:リチャード・シャトルワース英語版 1741年 – 1749年
ピーター・ボールド英語版 1750年 – 1761年
ジェームズ・シャトルワース英語版 1761年 – 1768年
アーチボルド・ハミルトン卿 1768年 – 1771年
次代:
セフトン伯爵
アーチボルド・ハミルトン卿
公職
先代:
キノール伯爵英語版
ランカスター公領大臣
1762年 – 1771年
次代:
クラレンドン伯爵
名誉職
先代:
ダービー伯爵
ランカシャー統監英語版
1757年 – 1771年
次代:
ダービー伯爵