ジッドゥ・クリシュナムルティ

ジッドゥ・クリシュナムルティ、1920年代の写真

ジッドゥ[* 1]・クリシュナムルティ英語:Jiddu Krishnamurti [Kṛṣṇamūrti], 1895年5月12日 - 1986年2月17日)は、インド生まれの宗教的哲人、教育者、神秘家[1]、ヨーギー[1]

人は組織、信条、教義、聖職者、儀式によって真理に到達することはできず、ただ自己認識によってのみ真理を見出すことができると説いた[2]。すべての物事が時間的にも空間的にも互いの条件付けによって成り立つという彼の考えは、仏教縁起説と同様であり、我執を問題とし、あるがままの観察による我執からの解放を目指すという点でも、仏教と基本的なスタンスは共通している[2]。インドだけでなく、欧米でも幅広い支持を得た[2]

目次

生涯編集

少年期編集

クリシュナムルティは1895年5月12日、南インドのマドラス(現在のチェンナイ)近郊に位置するマダナパルという小さな町でバラモンの家系に生まれた。父はナラニア、母はサンジーヴァンマである。第8子であったため、慣習に従い8番目の神、クリシュナ神からその名をもらい、「クリシュナムールティ」と名づけられた[* 2][要出典]出生時の占星術では、多くの困難に出会うが偉大な教師になると判じられたという。ナラニアは大英帝国統治下の税務に関する公務員で、多忙であり、母が子供たちの世話を主に担った。母は信心深く優しい人物で、霊媒であったと考えられており、ヴィジョンを見、人間のオーラを見ることができ、亡くなったクリシュナムルティの姉をしばしば見たと言われる。クリシュナムルティは母の素質を受け継ぎ、彼自身も姉を見たとされる。11人の兄弟がいたが、生き延びたのは6名で、クリシュナムルティ自身がのちに言及しているのは弟のニトヤナンダだけである。バラモンの伝統的な家庭で、礼拝堂にはインドの神々と共に神智学協会アニー・ベサントの写真が飾られ、母にベサントや輪廻についての話を聞き、またインドの聖典を読んでもらった。クリシュナムルティは父の仕事の関係で何度も転校して育った。ニトヤナンダは非常に聡明だったが、クリシュナムルティはそうではなく、しかも病気で1年遅れていたので、学校は楽しいものではなく、勉強に興味を持てなかった。そのため教師には知的に遅れていると思われていた。しかし機械には強い興味を持っていたという。父ナラニアは1881年に神智学協会に入り、公務員退職後は神智学協会に再就職し、アディヤールの本部のそばに住んだ。母サンジーヴァンマは彼が10歳だった1905年に死去したが、彼という人物に母の影響は大きかった。[1]

神智学協会に引き取られる編集

 
クリシュナムルティとレッドビーター

父親は神智学協会で事務職をしており、家は貧しかった。14歳の頃、神智学協会の幹部チャールズ・W・レッドビーター[* 3]がクリシュナムルティを見出した。レッドビーターが霊視で薄汚れた少年だったクルシュナムルティの神々しいオーラに気づいたとされ、彼の中にはキリストと同じ霊が宿っていると考え、父の同意を得てクリシュナムルティと弟のニトヤナンダを同協会に引き取った。ヨーロッパの神智学協会に連れて行かれ、クリシュナムルティはロード・マイトレーヤ弥勒菩薩)と呼ばれる世界教師(救世主)の「乗り物[* 4]」(器)となるべく、レッドビーターのもとで英才教育を受けた。この訓練と教育は、インド的なものを排しイギリス紳士を目指すというもので、言葉は英語のみで、母語だったテルグ語ヴェーダの言葉も忘れていった。1909年にクリシュナムルティは神智学協会の会長であったアニー・ベサントと会い、彼女はクリシュナムルティとニトヤナンダの後見人になった。クリシュナムルティとベサントは、この時代には母子のような親しい関係を築いている。クリシュナムルティと遊ぶ少年たちが選ばれ、彼が集会に現れると全員起立し最敬礼するなど、組織的に特別に扱われていた。レッドビータ―に発見されて5か月後の1910年に神智学協会の心霊的な体験である「第一秘伝」を受けたとされ、クルシュナムルティのアストラル体は体を離れ、神智学の霊的指導者・マハトマに会ったとされる。[1]毎晩レッドビーターとアストラル体をヒマラヤ山中に飛ばし、マハトマのクートフーミから指導を受けたという。[4][5]

ヨーロッパ遊学時代編集

 
ニトヤナンダ、ベサント、クリシュナムルティ(1911年、ロンドン)

1911年にベサントはクリシュナムルティとニトヤナンダを連れて渡英した。ベサントがクリシュナムルティを世界教師の器に選んだことには批判も多かったが、彼女の確信は揺らがなかった。ベサントは、16歳のクリシュナムルティを長とする東方の星教団を設立したが、ドイツ神智学協会のルドルフ・シュタイナーなど、反発して協会を離れる人もいた。1912年にベサントはオックスフォード大学入学準備のためにふたたび兄弟を連れて渡英し、クリシュナムルティはイタリアでレッドビータから「第二秘伝」を受けた。ベサントはインドに戻り、二人は1922年までヨーロッパで過ごした。学校でいじめにあったため、家庭教師のもとで学び、1914年に第一次世界大戦がはじまった。インド人部隊が大英帝国のもとで戦っていたが、イギリス人のインド人への偏見は強く、疎外感にさいなまれながら寂しい生活を送った。受験勉強を続けたが、どこにも合格せず、戦後はパリで勉強を続けた。ヨーロッパでは神智学の霊的マスターたちとの交流もなく、神智学への興味も失っていった。[1]

神秘体験編集

 
左から近代神智学の祖ヘレナ・P・ブラヴァツキー、神智学協会4代目会長C・ジナラージャダーサ英語版、2代目会長ベサント、レッドビーター、クリシュナムルティ、初代会長ヘンリー・スティール・オルコット

1921年にインドに戻り、家族や友人に再会し、霊的マスターたちとの交流も再開した。1922年にアメリカのカリフォルニアのオジャイに移り、家族が神智学協会に関わっていた19歳のロザリンド・ウィリアムズと出会った。ロザリンドは結核を患っていたニトヤナンダの看護を頼まれ、親しく過ごした。クリシュナムルティはここで瞑想修行を行い、1922年に重要な神秘体験・宗教体験が始まった。[2]すべてのものが自分であるという体験、ブッダやマイトレーヤ、クートフーミを見る体験をし、この前後には激痛を伴う肉体的な現象があり、のちに「ザ・プロセス」と呼ばれた。発作のような一種の錯乱状態[* 5]が収まると「生の泉の源泉」に触れ、深い慈愛に包まれる心地があったという[7]。ロザリンドはザ・プロセスに立ち会い、その様子を書き残している。クリシュナムルティは幾度も亡き母の姿を見、ロザリンドに母のイメージを重ねて、彼女に母にするように話しかけることもあった。ニトヤナンダがベサントに送った手紙の内容からは、ブッダやマイトレーヤの幻を除けば、この体験はクンダリニーの覚醒の古典的な表現であるという見解もある。[1]3年で一応治まったが、その後も断続的に続いた[7][2]

弟の死と思想形成編集

ニトヤナンダの健康は回復せず、クリシュナムルティは苦楽を共にし、深い絆で結ばれた弟の回復を霊的マスターたち(のヴィジョン)に願い、良くなると言われたと感じ、安堵した。しかし、弟は1925年に27歳で死去した。小林一正は、クリシュナムルティは悲しみの中で現実に直面し、立ち直った時には彼の思想は変わっていたと述べている。[1]

1925~29年に、彼の教えはメシアを待望する信者たちの考えに異を唱えるようなものになり[8]、1927年中頃には現在知られるクリシュナムルティの思想が形作られた[2]。弟の死以降、マスターたちを実体ある存在として語ることはなくなり、神智学協会の権威も、教義も、秘教的な方法も認めず、自由を求め、自由について語るようになっていた。[1]この時期に達した境地を、彼自身は「解放」「融合」と表現している[2]。「解放」の結果として「融合」がもたらされ、条件付けからの解放、伝統の否定が説かれるようになった[2]。仏教学者の玉城康四郎によると、彼の根本立場は「ありのままを経験し、経験したままを観察する、それによって、本能的かつ自然的に分断されている人間の根本見解を全体の世界に復帰せしめようすることである。それがすなわち、全ての過去に死してただ現在のみに生きることであり、真の創造である」というものであった[7]。すべての物事が時間的にも空間的にも互いの条件付けによって成り立つと説いた彼の思想は、仏教の縁起説と同様であり、我執を問題とし、あるがままの観察による我執からの解放を説き、伝統を否定するという点でも仏教とスタンスを同じくしている[2]

東方の星教団解散・神智学協会からの離脱編集

クリシュナムルティは崇拝者に囲まれたが、その状態を喜んでいなかった。彼は「真理は権威者を必要とするものではなく、まして集団に属するものではありえない」と考えていた。1929年8月2日34歳で、3,000人あまりの団員がいた東方の星教団を解散した。この解散にあたり、クリシュナムルティは「宗教組織や組織的な活動によって真理に到達することは不可能である。自分は追随者は望まない。永遠を見つめ、真に生き、何の束縛も受けない自由な人間がいてくれれば充分である」という旨の宣言を行っている。この折の、「真理はそこへ至る道のない土地である(Truth is pathless land)」というフレーズがよく知られている。

独立した霊的指導者としての活動編集

東方の星教団を解散したクリシュナムルティは、神智学協会を離れ、個人としてインドやイギリスアメリカスイスを拠点として世界各地を回り、公開講話、各界著名人との討論会などを行った。講演は大きな反響を呼び、彼は以前にも増す名声を轟かせた。もともと宗教的指導者であった人物が宗教の組織を真っ向から否定し、宗教から、そして神からも自由であれと言うのはインパクトが大きかった。[要出典]独立後の生活は、以前からの信奉者たちの厚意で賄われており、彼のために基金が作られ年金が支払われた[9]

学問の各分野は人工的に領域が設定されているが、実際はつながり合った全体であるという立場から、科学との関係を深め、ニュー・サイエンスの騎手デヴィッド・ボームと対話を重ねた[7]

彼を実務面で大いに支えたD・ラージャゴパルと、その妻ロザリンド・ラージャゴパル英語版(旧姓 ロザリンド・ウィリアムズ)[* 6]、二人の娘ラーダと家族のように暮らした。多忙なラージャゴパルに代わりラーダに父のように親しく接し、37歳の頃からロザリンドと不倫関係にあった。クリシュナムルティはインド、イギリス、アメリカで、彼の哲学を実践する学校を作る事業に関わった[8]。ロザリンド、アニー・ベサントオルダス・ハクスリーと共に、カリフォルニアにHappy Valley Schoolという私立学校を設立する事業にも加わっていた(1946年設立、のちベサント・ヒル・スクール英語版に改名)。

クリシュナムルティが若く美しい未亡人ナンディーニ・メータと出会い、ふたりが愛人関係にあると考えたロザリンドは、それまでの不倫関係を夫に打ち明けた。3人は外部にこの事を隠していたが、彼らの人間関係、仕事上の関係は破綻していった。[* 7][10][6]ラージャゴパル夫妻は離婚し、クリシュナムルティは、ラージャゴパルが取り仕切っていたクリシュナムルティ著作協会(KWINC)と決裂、資産や著作権の帰属をめぐり訴訟となった[9]

神智学協会から独立して以後、56年間に渡って執筆、講話を続けた。組織と権威を否定したが、多くの人々を惹きつけ、「絶対的自由を達成した超人的宗教家」と考えられることもあるなど、ある意味で権威となり、組織を作り、支持者たちの支えによって独立した霊的指導者として生きた[8][11]。1968年に仕事の管理体制を整え、クリシュナムルティ財団が作られた[8]。財団は彼の死後も著作の管理などを行い、思想の普及を目指している[8]

晩年と最期編集

ニューヨーク財界の娘だったメアリー・ジンバリストは、映画プロデューサーの夫が亡くなり未亡人になった後、クリシュナムルティと誰よりも親しく接し行動を共にした[7]。1970年、75歳のクリシュナムルティはジンバリストに向かって、他の場所より多く語ったインドでさえ、自分の話を聞いて変化した人はおらず、人々は自分の教えを十分に活用していないし、真剣になっていないと述べていた[7]

クリシュナムルティは、死の恐怖は観察する主体と観察される死が分裂しているためで、そのような死の恐怖は「観念」でしかないと語っていた。その一方、玉城康四郎は、70代・80代のクリシュナムルティの友人や自身がの危険にあるときの発言は、世俗的であり、死へのこだわり方は常人と変わらず、人に説いていた死の見解とは大きく異なっている、と指摘している。[7]

クリシュナムルティの最期については、メアリー・ルティエンス[* 8]の伝記『クリシュナムルティ・開かれた扉』によると、1985年の暮れより発熱、体重減少などの体調不良が続き、なかなか原因が判明しなかった。翌1986年1月23日の精密検査の結果、末期の膵臓癌が発見され、死期が迫っていることが明らかになった[* 9]。クリシュナムルティ学校や出版の死後の体制等、死ぬまでに整理しておくべき問題に対処し、1986年2月17日にカリフォルニアで死去した。

作品編集

en:Jiddu Krishnamurti bibliographyおよびen:List of works about Jiddu Krishnamurtiも参照

著作の主な日本語訳編集

  • 大師のみ足のもとに/道の光 (神智学叢書) 』(At the Feet of the Master) 田中恵美子訳 竜王文庫、(1998)(日本語版に同時収録された「道の光」の著者はメイベル・コリンズ)
  • 『自我の終焉―絶対自由への道』 根木宏、山口圭三郎訳 篠崎書林
  • 『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より〈1-4〉』  大野純一訳 春秋社
  • 『クリシュナムルティの神秘体験』 おおえまさのり監訳 中田周作訳 めるくまーる
  • 『クリシュナムルティの日記』 宮内勝典訳 めるくまーる
  • 『最後の日記』 高橋重敏訳 平河出版社
  • 『自己の変容』 松本恵一訳 めるくまーる
  • 『英知の教育』 大野純一訳 春秋社
  • 『自由とは何か』大野純一訳 春秋社
  • 『瞑想と自然』 大野純一訳 春秋社
  • 『学びと英知の始まり』 大野純一訳 春秋社
  • 『生の全変容』 大野純一訳 春秋社
  • 『未来の生』 大野純一訳 春秋社
  • 『クリシュナムルティの瞑想録―自由への飛翔 (mind books)』 大野純一訳 平河出版社、第十六版 (2000)、ISBN 978-4892030468
  • 『生の全体性』 大野純一、聖真一郎、共訳 平河出版社
  • 『真理の種子』 大野純一訳 めるくまーる
  • 『人類の未来』 渡辺充訳 JCA出版
  • 『瞑想』 中川吉晴訳 UNIO
  • 『恐怖なしに生きる』 有為エンジェル訳 平河出版社
  • 『あなたは世界だ』 竹渕智子訳 UNIO
  • 『子供たちとの対話 - 考えてごらん』 藤仲孝司訳 平河出版社、(1992)、ISBN 978-4892031991
  • 『ザーネンのクリシュナムルティ』 ギーブル恭子訳 平河出版社
  • 『私は何も信じない―クリシュナムルティ対談集』 大野純一訳 コスモスライブラリー
  • 『花のように生きる - 生の完全性』 横山信英訳 UNIO
  • 『知恵のめざめ - 悲しみが花開いて終わるとき』 小早川詔訳 UNIO
  • 『智恵からの創造―条件付けの教育を超えて(クリシュナムルティ著述集 第8巻 1953-1955)』 藤仲孝司訳 UNIO
  • 『明日が変わるとき―クリシュナムルティ最後の講話』 小早川詔、藤仲孝司訳 UNIO
  • 『時間の終焉―J.クリシュナムルティ&デヴィッド・ボーム対話集』 渡辺充訳 コスモスライブラリー、(2011)、ISBN 978-4434153952
  • 『しなやかに生きるために―若い女性への手紙』 大野純一訳 コスモスライブラリー(ナンディーニ・メータへの手紙)
  • 『生と出会う―社会から退却せずに、あなたの道を見つけるための教え』 大野龍一訳 コスモスライブラリー
  • 『アートとしての教育―クリシュナムルティ書簡集』 小林真行訳 コスモスライブラリー
  • 『四季の瞑想―クリシュナムルティの一日一話』 大野純一監修 こまいひさよ訳 コスモスライブラリー
  • 『静かな精神の祝福―クリシュナムルティの連続講話 』 大野純一訳 コスモスライブラリー
  • 『伝統と革命―J・クリシュナムルティとの対話』 大野純一訳 コスモスライブラリー
  • 『愛について、孤独について』 中川正生訳 広池学園出版部
  • 『静けさの発見―二元性の葛藤を越えて (クリシュナムルティ著述集)』 横山信英、藤仲 孝司、内藤晃訳 UNIO
  • 『ブッダとクリシュナムルティ-人間は変われるか?』 正田大観、吉田利子、大野純一訳 コスモスライブラリー
  • 『スタンフォードの人生観が変わる特別講義 あなたのなかに、全世界がある』 中川吉晴PHP研究所、(2013)、ISBN 978-4569810256

DVDブック編集

  • 『神話と伝統を超えて〈1〉DVDで見るクリシュナムルティの教え』白川霞監修 大野純一訳 彩雲出版
  • 『神話と伝統を超えて〈2〉DVDで見るクリシュナムルティの教え』白川霞監修 大野純一訳 彩雲出版
  • 『真の革命―クリシュナムルティの講話と対話』 柳川晃緒、大野純一訳 コスモスライブラリー
  • 『英和対訳 変化への挑戦―クリシュナムルティの生涯と教え』柳川晃緒訳、大野純一監訳 コスモスライブラリー

関連項目編集

註釈編集

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  1. ^ 実際の発音は「ジドゥー」がより近い。
  2. ^ クリシュナ神は第8子。「ムールティ (mūrti)」にはサンスクリットで形体、権化、姿、人体、立像などの意味がある[3]
  3. ^ 日本では「リードビーター」と表記されていることが多い。
  4. ^ 近代神智学では、霊的指導者マハトマの秘密結社グレート・ホワイト・ブラザーフッドがあり、ナザレのイエスに啓示を与えたマハトマのマイトレーヤ(イエス・キリスト)が、世界教師として弟子の体を使って人間の世界に現れ、人々を導くと考えていた。クリシュナムルティは世界教師が降臨するための乗り物になることが期待されていた。
  5. ^ ラーダ・ラージャゴパルは、「サ・プロセス」は一種のてんかん発作のようなものだったのではないかと述べている。[6]
  6. ^ ロザリンドは結婚前、クリシュナムルティの弟ニトヤナンダを愛していた。
  7. ^ この件は、ラージャゴパル夫妻の娘で、子供時代家族としてクリシュナムルティと共に暮らしたラーダによって、Lives in the Shadow with J. Krishnamurti として出版されたことで明らかになった。これを裏付けるクリシュナムルティからロザリンドへの手紙なども残されている。[6]
  8. ^ 母エミリーと共にクリシュナムルティの熱烈な支持者で、母娘2代にわたって彼に仕え、伝記を書いた。[7]
  9. ^ これは、本人の予感していた死期よりも、かなり早いものであったらしいことが同書に記されている。

出典編集

  1. ^ a b c d e f g h 小林 1988.
  2. ^ a b c d e f g h i 平井 2003.
  3. ^ 荻原雲来編纂、辻直四郎協力、鈴木学術財団編 『漢訳対照 梵和大辞典 新訂版』 山喜房佛書林、2012年、1054頁。
  4. ^ Krishnamurti and the World Teacher Project:Some Theosophical PerceptionsGovert Schüller
  5. ^ 氷川雅彦『神智学をめぐる人々: The Secret of Theosophy』 光祥社、2014年
  6. ^ a b c 大野龍一 クリシュナムルティと二重人格 祝子川通信
  7. ^ a b c d e f g h 玉置 1987.
  8. ^ a b c d e Tingay 2009.
  9. ^ a b 高橋ヒロヤス 物質的問題(material question)について J.クリシュナムルティの場合 MUGA特集号 第3巻
  10. ^ Radha Rajagopal Sloss Lives in the Shadow with J. Krishnamurti 1991
  11. ^ 大野龍一 クリシュナムルティの説く「革命」 祝子川通信

参考文献編集

  • Kevin Tingay 『現代世界宗教事典—現代の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ』 クリストファー・パートリッジ英語版 編、井上順孝 監訳、井上順孝・井上まどか・冨澤かな・宮坂清 訳、悠書館2009年、272-274頁。
  • 平井節代「クリシュナムルティの生涯と思想 : 仏教との比較の観点から」、『龍谷大学大学院文学研究科紀要』第25巻、龍谷大学、2003年12月10日、 193-196頁、 NAID 110001000521
  • 小林一正「J・クリシュナムルティの人間形成 : 思想形成に到る背景の一考察」、『駒澤大学佛教学部論集』第19巻、駒澤大学、1988年10月、 332-342頁、 NAID 120005491318
  • 玉城康四郎「ジッドゥ・クリシュナムルティの根本問題」、『印度學佛教學研究』第35巻、JAPANESE ASSOCIATION OF INDIAN AND BUDDHIST STUDIES、1987年、 502-511頁、 NAID 130003830677
  • メアリー・ルティエンス 『クリシュナムルティ 目覚めの時代』 高橋重敏訳 めるくまーる
  • メアリー・ルティエンス 『クリシュナムルティ 実践の時代』 高橋重敏訳 めるくまーる
  • メアリー・ルティエンス 『クリシュナムルティ 開かれた扉』 高橋重敏訳 めるくまーる
  • メアリー・ルティエンス 『クリシュナムルティの生と死』 大野純一訳 コスモス・ライブラリー
  • マイケル・クローネン 『キッチン日記―J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』 高橋重敏訳 めるくまーる
  • イーブリン・ブロー 『回想のクリシュナムルティ〈第1部〉最初の一歩…』 大野純一訳 コスモス・ライブラリー
  • イーブリン・ブロー 『回想のクリシュナムルティ〈第2部〉最後の一歩…』 大野純一訳 コスモス・ライブラリー
  • G. ナラヤン 『知られざるクリシュナムルティ』 玉井辰也訳 高岡光監修 太陽出版
  • アリエル・サナト 『クリシュナムルティとは誰だったのか‐その内面のミステリー』大野純一訳 コスモス・ライブラリー
  • アン・バン・クロフト 『20世紀の神秘思想家たち』 吉福伸逸訳 平河出版社
  • ローラ・ハクスレー 『この永遠の瞬間―夫オルダス・ハクスレーの思い出 』 大野龍一訳 コスモス・ライブラリー

外部リンク編集