ジム・ギリアム
アメリカ合衆国の野球選手 (1928-1978)
ジェームズ・ウィリアム・ギリアム(James William Gilliam, 1928年10月17日 - 1978年10月8日)は、アメリカ合衆国・テネシー州ナッシュビル出身の元プロ野球選手(内野手)。右投両打。
![]() 日米野球1956出場時 | |
基本情報 | |
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国籍 |
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出身地 | テネシー州ナッシュビル |
生年月日 | 1928年10月17日 |
没年月日 | 1978年10月8日(49歳没) |
身長 体重 |
5' 11" =約180.3 cm 175 lb =約79.4 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投両打 |
ポジション | 二塁手、三塁手 |
プロ入り | 1951年 ブルックリン・ドジャースと契約 |
初出場 | 1953年4月14日 |
最終出場 | 1966年9月30日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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経歴編集
ニグロリーグのボルチモア・エリートジャイアンツを経て1951年にブルックリン・ドジャースと契約。1953年にメジャーデビューすると、17三塁打(ナショナルリーグ1位)、新人記録の100四球が評価されて新人王を受賞した。
1950年代から1960年代にかけてリードオフマンまたは二番を務め、抜群の選球眼で5度90四球を選び、盗塁も3回リーグ2位となった。少ない得点を守り抜く当時の「ドジャースの戦法」において、その機動力は重要な要素だった[1]。現役最末期になって2回引退を宣言しながら、チーム事情もあって2回とも引退を撤回しており、最終的には1966年に現役引退[2]。
1965年から兼任コーチを務め、前述の通り1966年に現役を引退、その後は専任でコーチとして現場に立ち、長くチームを支えていたが、1978年のリーグ優勝決定翌日の10月8日に脳出血のため急死した。ドジャースはそれまでの功績を評価し、2日後のワールドシリーズ第1戦にギリアムが現役・コーチ時代まで一貫して着けていた背番号『19』を永久欠番に指定した[3]。なお、ドジャースの永久欠番選手は基本的にアメリカ野球殿堂選出者だが、ギリアムのみ、唯一の殿堂未選出選手である。
詳細情報編集
獲得タイトル・表彰・記録編集
- MiLB
- インターナショナルリーグ最優秀選手賞:1回(1952年)
- MLB
- 新人王(1953年)
- MLBオールスターゲーム選出:2回(1956年、1959年)
背番号編集
- 19 (1953年 - 1978年)
脚注編集
- ^ 「永久欠番名鑑」『大リーグ永久欠番物語』 ベースボール・マガジン社 78頁
- ^ 出野哲也 『改訂新版 メジャー・リーグ人名事典』言視社、2013年、141頁頁。ISBN 978-4-905369-67-7。
- ^ 「球団別永久欠番物語 第1回 ロサンゼルス・ドジャース」『月刊メジャー・リーグ』 2000年5月号 ベースボール・マガジン社 81頁