ジャック・ブルース
ジョン・サイモン・アッシャー・ブルース(John Symon Asher Bruce、1943年5月14日 - 2014年10月25日)は、スコットランド生まれのミュージシャン。ロックバンド、クリームではリード・ボーカル、ベース、ハーモニカ、チェロ、ピアノなどを担当した。アンプを大音量で鳴らし、常にベースソロのような状態で弾くベースプレイは同世代及び後のベーシスト達にまでも多大な影響を与え、ロック界を代表するベーシストの一人と見なされる。
ジャック・ブルース Jack Bruce | |
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基本情報 | |
出生名 | John Symon Asher Bruce |
生誕 | 1943年5月14日 |
出身地 |
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死没 |
2014年10月25日(71歳没)![]() |
ジャンル |
ブルースロック ハードロック ジャズロック フリージャズ |
職業 | ミュージシャン |
担当楽器 | ボーカル、ベース、コントラバス、チェロ、ギター、ピアノ、ハーモニカ、キーボード |
活動期間 | 1962年 - 2014年 |
共同作業者 |
クリーム ブルース・インコーポレーテッド グラハム・ボンド・オーガニゼイション ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ マンフレッド・マン ウェスト、ブルース&レイング リンゴ・スター&ヒズ・オールスター・バンド BBM BLT ロケット88 フランク・ザッパ カーラ・ブレイ マイケル・マントラー |
公式サイト |
www |
ローリング・ストーン誌が選んだ「史上最高のベーシスト50選」で第6位に選ばれている[1]。
来歴編集
生い立ちからクリーム以前編集
ブルースはスコットランドのラナークシャー郡ビショップブリッグスにて、音楽好きな労働階級一家の次男として生まれる。
4歳の時、左翼運動家だった両親が活動の規制を受けない暮らし向きの良い新天地を求めてカナダ行きを決行し一家で移り住むが、幼い彼の他は期待に反して心労が絶えず、ついには当時の赤狩りが決定打となって2年ほどで帰国。ブルース家はそれまで以上の困窮に陥ってしまう。
度重なる引っ越しのため友人がおらず、カナダ訛りの英語で同級生にからかわれ孤独な生活を送りながらも、母や兄と同じく聖歌隊に所属していた彼は、6歳頃母親に促され、地元スコットランドの歌のコンクールに出場して、吐き気を催すほど緊張しながらも何度か賞をもらったこともあった。
当時イギリスで旋風を巻き起こしていたロックンロールにはとりたてて興味をそそられなかった彼は、ラジオから流れるバッハやシューベルトなどのクラシック音楽を愛聴しながら、ジャズピアノを弾く父と兄の影響もあり、10歳にはピアノで即興、作曲をするなど早くも才能を発揮するようになる。
11歳頃、自在にハーモニカを操る彼を見た学校教師に見出され、母親の勧めもあって、音楽教育に熱心なベラハウストン・アカデミーに進む。当初コントラバスを専攻する予定が、コントラバス教師が体が小さいと苦言を呈したため、やむをえずチェロを選んだ。また、この頃、弦楽四重奏曲を書いたが音楽教師には不評だったという。
向上心に燃えた彼は、ベラハウストンに通いながら奨学金を得て王立スコットランド音楽演劇アカデミーで作曲を学ぶようになるものの、次第にモダン・ジャズ・カルテットやセロニアス・モンクなどのモダン・ジャズに傾倒するようになっていた彼は形式ばった指導内容に反発を覚え、アカデミーと対立し17歳でドロップアウト。在学中には既にダンスホールでダブルベースを弾いて稼いでいた。
間もなく地元やその近辺でミュージシャンとしての活動を本格化させた彼は、一時イタリアの米軍基地で働いた後、1962年18歳の時ロンドンに降り立つ。当時在籍していたトラッド・ジャズ・バンドに飽き飽きしていたジャックは、通りかかったクラブのバンドに無理言って飛び込み参加を要請して見事難曲を弾きこなし、皆を驚嘆させる。そのバンドのメンバーには、後のグレアム・ボンド・オーガニゼーションで活動を共にするディック・ヘクストール=スミスとジンジャー・ベイカーがいた。
1962年にピアニストのマイク・テイラー、ジンジャー・ベイカー、グレアム・ボンドらとドン・レンデルのジャズ・グループに参加する傍ら、アレクシス・コーナーのブルース・インコーポレイテッドにも参加。1963年になるとR&B系のホンク・サックスを主題とするグレアム・ボンドのコンボ、グレアム・ボンド・オルガニゼーションで頭角を現す。グループにはジンジャー・ベイカー、ディック・ヘクストール=スミスや一時期ジョン・マクラフリンらが加わっていた。4ビート・ジャズとブルースをミックスしたサウンドはモッズにも影響を与え、ブルースのブルース・ハープによる演奏等で注目を浴びる。しかし若さ故、演奏スタイルのエゴからブルースとベイカーがお互いの楽器を破壊するなどしたあげくに関係が悪化し、グループを離れることとなる。
後にビージーズで大成功を収めるロバート・スティッグウッドのマネージメントでソロ活動を開始し、1965年ブルースはエレクトリックベースに持ち替えてジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズに参加する。後に共にクリームを結成することになるエリック・クラプトンとはこの時期に出逢った。1966年、マンフレッド・マンに約3ヶ月在籍し同年夏のシングル「プリティ・フラミンゴ」が全英No.1ヒットしている頃、ポール・ジョーンズの後任リード・ボーカルであるロンドン育ちのオランダ人、ミカエル・デ・アボ(英語読みはマイケル・ダボ、マイク・ダボ)、そしてベース担当となるクラウス・フォアマンに後を任せ、エリック・クラプトンとのコラボレーションによるパワーハウスを経てクリームへと活動を移して行く。
クリーム時代編集
1966年、ベイカーとブルースの持つジャズの即興性とピート・ブラウンとの曲と詩によるビートニク、そしてエリック・クラプトンのもつ情熱的なブルース・フィーリングとをミックスしたグループ、クリームを結成することとなった。お互いの敵意にも関わらず、ブルースとベイカーはバンドのため共に活動を行ったが、そこにクラプトンも加わってのエゴの衝突が繰り返される。パワー・トリオの走りとして活動を続けたクリームであったが、結局1968年末に解散する。一時はクラプトンのことを悪く言っていた彼であるが、後に「あの頃は彼の才能がとても羨ましかっただけなんだ」と述懐している。しかし、我が強かったベイカーとの関係は結局改善せず、それ以後も対立したままであった(後述するBBMが程無く解散した原因でもある)。
クリーム以降、1960-1970年代編集
1967年にマイク・テイラー・トリオのアルバム『トリオ』にアップライト・ベースで参加。1968年8月にはジョン・マクラフリン、ディック・ヘクストール=スミス、ジョン・ハイズマンと共にアルバム『シングス・ウィー・ライク』を録音するが、このアルバムは1970年までリリースされなかった[2]。
クリーム解散後の1969年にピート・ブラウンと共にファースト・アルバム『ソングス・フォー・ア・テイラー』をリリース。同年ラリー・コリエル、ミッチ・ミッチェル、マイク・マンデルによるメンバーでライブ活動を再開する。派手なプロモートは別にしてもバンドを解散して1970年にはジョン・マクラフリンの在籍するアメリカのトニー・ウィリアムスのバンド、ライフタイムに参加してアメリカ国内でのツアー、レコーディングを行い年内にスタジオ・アルバム『ターン・イット・オーバー』を作り出している。
ブルースの発する言葉に戯曲性を見いだしたカーラ・ブレイは自己の作品『エスカレーター・オーヴァー・ザ・ヒル』で詩人ポール・ヘインズの詠み手としてブルースを起用して評判を呼び、ブルースも1971年には再びラリー・コリエルとのライブなどを行いテクニカルな演奏を総括する。
ソロ・キャリア2作目『ハーモニー・ロウ』は、ブラウンの詩とブルースの曲が見事にマッチしたアルバムだった。イギリス国内ツアーではニュークリアスのクリス・スペディング、ジョン・マーシャルにアート・サーマン、グレアム・ボンドの二管を加えた「Jack Bruce & Friends」を編成し精力的なライブ活動を行うが、クリームを期待する聴衆とアルバム・セールスの不振とボンドの体調不良のためにグループは1972年に解散においこまれる。
かわってアメリカのロック・バンドマウンテンのレスリー・ウエスト、コーキー・レイングとのトリオ、ウエスト・ブルース・レイングを編成することになるが、結局波に乗れずグループは1973年半ばに頓挫した。
1975年にローリング・ストーンズを脱退したミック・テイラーとともに、カーラ・ブレイ、ブルース・ギャリー、ロニー・リーヒーによるザ・ジャック・ブルース・バンドを結成し活動を再開するがスタジオ作品は残していない。1977年にも新たなグループを結成しヒューイ・バーンズ、トニー・ハイマス、サイモン・フィリップスの「The Jack Bruce Band」名義によるアルバム『ハウズ・トリックス』を発表している。
グループを解散したこの頃にドラッグからの本格的リハビリテーションを行い、復帰した1979年にはジョン・マクラフリンのツアーに参加しビリー・コブハムと組むようになる。
1980年代編集
1980年には、コブハムと共にモーズ・アリソンのモントルー・ジャズ・フェスティヴァルのライブをバック・アップ、またアメリカでビリー・コブハム、クレム・クレムソン、デヴィッド・サンシャスらと共にジャック・ブルース & フレンズとして新たな活動を行う。
ギターとキーボードの楽器と唄うことのできるデヴィッド・サンシャスとは1980年代の活動に不可欠な人物であり、クレムソンが抜けてもブルースのピアノにギターで対応する様になるよりミニマムになりつつも世界観は構築され、ニューヨークの活動で知り合ったアメリカン・クラーベのキップ・ハンラハンとの共同作品を1980年代初頭から始める。これによって、作詞の部分でブラウンと異なるパートを作り出すことになる。
ミュージシャンとしては、セッション・ベーシストとしても様々なギターリストのレコーディングに参加する様になり、ロビン・トロワーやトレヴァー・ラビン、ゲイリー・ムーア、バーニー・マースデンなどの作品に参加する。日本のギタリストでは、1987年に鈴木賢司のロンドン行きの壮行コンサートを収録した『イナズマ・スーパー・セッション』などがある。
また、歌人としてマイケル・マントラーは自己の作品の朗読にブルースを起用してアルバムを制作し、サイケデリック・ロックを指標としたPファンク系のミュージシャンはブルースと交流をもち、後にバーニー・ウォーレルとはデュオ作品を作るパートナーともなる。
1990年代編集
1993年1月、クリームの一員としてロックの殿堂入りを果たし、授賞式では1968年以来となるクリームの再結成ライブが行われた[3]。
ドイツのインディペンデント・レーベルCMPと契約を機に11月、自身の誕生日を祝うキャリアを総括したコンサートをドイツ・ケルンで開き、翌1994年にはジンジャー・ベイカー、ゲイリー・ムーアとのBBM (Baker-Bruce-Moore)としてのアルバムを発表した。
2000年代編集
2001年、サルサ等のラテン・ミュージックをミックスした「Jack Bruce and the Cuicoland Express」を編成。キップ・ハンラハンとの共作をロビー・アミーン、エル・ネグロ・オラシオ、バーニー・ウォーレル、ヴァーノン・リードで演奏する。このグループでは2002年、福岡、大阪のブルーノートにて公演を行っている。2003年、Polydor/RSO時代の作品をリマスタリングで再発、当時発表されなかった1978年のアルバム『ジェット・セット・ジュエル』と1975年のマンチェスター公演を録音したCDをリリース。同年、肝臓癌の緊急移植手術が行われ、一命を取り留めた[2]。しかしこの影響でChar、サイモン・カーク、ジャック・ブルースで企画されていた武道館公演はキャンセルされた。
2005年5月、クリーム再結成コンサートをロンドン・ロイヤル・アルバート・ホールで行い、同年10月クリームによるニューヨーク、マディソン・スクエア・ガーデン・コンサートをおこなった。
2007年、王立スコットランド音楽演劇アカデミー内に生徒が演奏できるジャック・ブルース・ゾーンが開設された。
2008年12月、トニー・ウィリアムスのライフタイムのトリビュート企画でヴァーノン・リード、ジョン・メデスキ(MMW)、シンディ・ブラックマンのカルテットで来日した。
死去編集
2014年10月25日死去[4]。サフォークの自宅で家族に見守られ息を引き取った[4][5]。死因について英国メディアは肝臓の病気を患っていたと伝えている[6]。エリック・クラプトンは自身のフェイスブックで「偉大な音楽家であり作曲家だった。私に多大なインスピレーションをもたらした」とコメントを発表した[7]。
ディスコグラフィ編集
アルバム編集
- 『ソングス・フォー・ア・テイラー』 - Songs for a Tailor (1969年)
- 『シングス・ウィー・ライク』 - Things We Like (1970年)
- 『ハーモニー・ロウ』 - Harmony Row (1971年)
- 『アウト・オブ・ザ・ストーム』 - Out of the Storm (1974年、Polydor/RSO)
- 『ハウズ・トリックス』 - How's Tricks (1977年)
- 『アイヴ・オールウェイズ・ウォンテッド・トゥ・ドゥ・ディス』 - I've Always Wanted to Do This (1980年)
- Automatic (1987年)
- 『ウィルパワー』 - Willpower (1989年、Polydor)
- 『クエスチョン・オブ・タイム』 - A Question of Time (1989年、Epic / ソニー)
- 『サムシン・エルス』 - SomethinEls (1993年、CMP)
- 『シティーズ・オブ・ザ・ハート〜ライヴ1993』 - Cities of the Heart (1994年、CMP)
- 『モンクジャック』 - Monkjack (1995年、CMP)
- BBC Live in Concert (1995年、Strange Fruit)
- The Jack Bruce Collector's Edition (1996年、CMP)
- Live on the Old Grey Whistle Test (1998年、Strange Fruit)
- 『シャドウズ・イン・ジ・エアー』 - Shadows in the Air (2001年、ユニヴァーサル・ビクター / Sanctuary)
- 『モア・ジャック・ザン・ゴッド』 - More Jack Than God (2003年、ユニヴァーサル・ビクター / Sanctuary)
- 『ライヴ'75』 - Live 75 (2003年) ※1975年録音
- 『ジェット・セット・ジュエル』 - Jet Set Jewel (2003年) ※1978年録音
- HR Big Band Featuring Jack Bruce (2007年、hrMedia)
- Spirit - Live at the BBC1971-1978 (2008年、Polydor)
- Can You Follow? (2008年、Cherry Red/Esoteric Recordings)
- 『シルヴァー・レイルズ』 - Silver Rails (2014年、Esoteric Recordings)
出典・脚注編集
- ^ “The 50 Greatest Bassists of All Time” (英語). rollingstone.com (2020年7月1日). 2021年12月27日閲覧。
- ^ a b “Jack Bruce obituary”. The Guardian. Guardian News and Media (2014年10月26日). 2016年2月11日閲覧。
- ^ Pareles, Jon (1993年1月14日). “Playing in Reunion, Cream Is the Finale Of Rock Ceremonies”. New York Times. 2016年2月11日閲覧。
- ^ a b “Press Information”. Jack Bruce.com 2014年11月25日閲覧。
- ^ “Cream bassist Jack Bruce dies, aged 71”. BBC News (2014年10月25日). 2014年11月25日閲覧。
- ^ “Former Cream frontman Jack Bruce dies aged 71”. Reuters (2014年10月25日). 2014年11月25日閲覧。
- ^ “Cream bassist Jack Bruce dies”. CNN (2014年10月26日). 2014年11月25日閲覧。