ジャワ沖海戦(ジャワおきかいせん)は、第二次世界大戦太平洋戦線において、1942年昭和17年)2月4日に東南アジアで生起した日本海軍航空隊と連合軍ABDA艦隊との間の海戦[1]基地航空部隊一式陸攻九六陸攻が連合国軍巡洋艦部隊を攻撃して大戦果を報告したが[2]、実際は軽微な被害であった[3]

ジャワ沖海戦
USS Marblehead
戦争第二次世界大戦/太平洋戦争
年月日1942年2月4日5日
場所バリ海
結果:日本の勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 オランダの旗 オランダ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
塚原二四三中将 カレル・ドールマン少将
戦力
陸上攻撃機60 重巡洋艦1
軽巡洋艦3
駆逐艦7
損害
陸攻1 軽巡1中破
重巡洋艦1小破、軽巡1小破
南方作戦

本記事では、2月4日から5日にかけて日本軍基地航空隊がシンガポール増援輸送船団を攻撃して軍隊輸送船エンプレス・オブ・エイジア (RMS Empress of Asia) を撃沈した海空戦の顛末、2月15日ガスパル海峡で生起した日本海軍(基地航空部隊、馬来部隊)とABDA艦隊の戦闘についても記述する[4]。2月15日の海戦では、パレンバン攻略部隊撃滅をめざすABDA艦隊を、日本海軍の基地航空部隊と空母龍驤艦上機が攻撃した[5]。ABDA艦隊の被害は軽微だったが、輸送船団攻撃を断念して撤退した[6]

背景編集

太平洋戦争大東亜戦争)開戦後、日本軍の極東方面における南方作戦は、マレー半島を南下してシンガポールスマトラ島攻略を目指す馬来作戦[7]フィリピン攻略(比島作戦[8]および蘭印攻略を目指す蘭印作戦に大別される[9][10]。 日本海軍において、馬来作戦を担当していたのは小沢治三郎中将(旗艦鳥海)が率いる南遣艦隊[注釈 1]、比島作戦および蘭印作戦の担当が高橋伊望中将(旗艦足柄)が率いる第三艦隊であった[12][注釈 2]

連合国側はABDA司令部を結成して日本軍に対抗しようとした[14][15]。ABDA司令部(1942年1月15日より司令官アーチボルド・ウェーヴェル大将)の担当範囲は広大でかつ指揮系統は複雑であり、しかも各国政府の思惑に左右されて有効な戦略を打ち出せなかった[16]。当初、ABDA海軍部隊 (ABDAFLOAT) を率いていたのはアメリカ合衆国アジア艦隊司令長官のハート提督であった[17][18]

1942年(昭和17年)1月下旬から2月初旬にかけて、大英帝国の極東における最大拠点シンガポール追い詰められる[19]連合国オランダ領東インドを防衛する見込みは薄くなる[20]。だがオランダ軍は諦めていなかった[20]

ジャワ沖海戦編集

1942年(昭和17年)2月1日、連合国軍はボルネオ島バリクパパンに日本軍大輸送船団が集結中との情報を入手した[21]2月3日、連合国艦隊はマドゥラ島バンダ泊地に集結する[22]。この時、日本海軍の第十一航空艦隊(基地航空部隊)は蘭印作戦にともない[23]ジャワ島に対する航空作戦を開始していた[24][3]

2月4日午前0時30分、オランダ海軍のカレル・ドールマン少将率いる連合国艦隊(ABDA攻撃部隊)は、バリクパパンに再集結中と思われる日本軍を攻撃するため[25]、バンダ泊地から出撃した[26]。前月下旬のバリクパパン沖海戦の再現を狙ったのである[15]。 この出撃でドールマン少将(旗艦デ・ロイテル)の指揮下にあった艦艇はアメリカ海軍オランダ海軍から抽出されており[25]アメリカ海軍の重巡洋艦ヒューストン (USS Houston, CA-30) と軽巡マーブルヘッド (USS Marblehead, CL-12) 、オランダ海軍の軽巡洋艦デ・ロイテル (Hr.Ms. De Ruyter) と軽巡トロンプ (Hr. Ms. Tromp) 、米海軍の駆逐艦スチュワート (USS Stewart, DD-224) 、ジョン・D・エドワーズ (USS John D. Edwards, DD-216) 、バーカー (USS Barker, DD-213) 、バルマー (USS Bulmer, AG-86) 、蘭海軍の駆逐艦ファン・ゲント (HNLMS Van Ghent) 、ピート・ハイン (Hr.Ms. Piet Hein) 、バンケルト (Hr.Ms. Banckert) [注釈 3]という編成であった[27]

2月3日東ジャワ州マランを攻撃した日本軍航空部隊は、その帰路マドゥラ島パメカサン湾に戦艦2隻(帰投後、ジャバ型に訂正)[注釈 4]、甲巡1隻、乙巡2隻、駆逐艦9隻が停泊しているのを報告した[29]。これを受けて航空部隊指揮官塚原二四三海軍中将(第十一航空艦隊司令長官)は翌日の攻撃を決めた[30]

2月4日、索敵機はバリ島の北をマカッサル海峡に向け航行中の連合軍艦隊を発見する[31]スラウェシ島ケンダリーより発進していた鹿屋海軍航空隊一式陸上攻撃機27機、高雄海軍航空隊の一式陸攻9機、第一航空隊九六式陸上攻撃機24機が攻撃に向かった[32]。ABDA攻撃部隊は、制空権のない艦隊の悲哀を味わうことになる[33]

鹿屋空と高雄空はカンゲアン島の南30海里で連合国艦隊を発見し、爆撃を行なった[34]。この攻撃でマーブルヘッドに250kg爆弾2発が命中、4発が至近弾となり、火災が発生し舵は取り舵一杯で動かなくなる[26]。人的被害は戦死15名、負傷34名であった[26]。マーブルヘッドは対空砲火により高雄空の陸攻1機を撃墜した[35]。マーブルヘッドの損傷は大きく、本格的修理を余儀なくされた[36]

続いて一空がセバジャン南方10海里付近で連合国艦隊を発見し、爆撃した[35]。この攻撃ではヒューストンに250kg爆弾1発が命中して後部砲塔が破壊され50名ほどの死者を出した他[26]、至近弾でデ・ロイテルの対空射撃指揮装置が破壊された[37]。この攻撃でヒューストンの後部砲塔は使用不能になった[38]。 上記の他、蘭軽巡トロンプもこの海戦で至近弾により軽微な損害を受けている[39]

2月5日、鹿屋空の陸攻23機と高雄空の陸攻8機がケンダリーより発進する[40][41]。索敵機は連合軍艦隊を発見していたものの日本軍攻撃隊に情報が届かず、攻撃隊はバリ島の飛行場を攻撃した[42]。また、一空の陸攻23機もケンダリーから発進し、スンバワ島南方10海里でマーブルヘッド型軽巡1隻、輸送船1隻を発見して攻撃したが命中弾はなかった[43]。連合軍側の記録によれば、この日スンバワ島沖で駆逐艦ポール・ジョーンズ (USS Paul Jones, AG–120) とオランダ船Tidoreが爆撃を受け、オランダ商船が座礁して失われた[44]。翌6日も日本側は陸攻53機による索敵攻撃を行ったが、連合軍艦隊を発見できずに終わった[43]

2月8日、連合国艦隊はジャワ島南部のチラチャップに帰投した[45]

日本軍は戦果を過剰に見積もった[46][2][注釈 5]。 巡洋艦2隻撃沈、巡洋艦2隻撃破[1][48]連合艦隊に伝達された戦果は、デロイテル型1番艦を撃沈確実、ジャバ型2番艦轟沈、ジャバ型3番艦中破、米重巡2隻撃破、米艦マーブルヘッドのみ無事という内容だったという[49]。のちに写真判定により、デ・ロイテル型は、ヒューストン型重巡であることがわかった[50]

BM.12船団編集

連合国軍は窮地においこまれたシンガポールを救うために、軍隊輸送船を活用して増援部隊を送り込んでいた[注釈 6]ボンベイマレーヤの頭文字から“BM船団”と呼称されていた。2月3日、BM.12船団はとDM.2船団はイギリス海軍の重巡エクセター (HMS Exeter, 68) と軽巡ダナエー (HMS Danae, D44) および英連邦諸国の小型艦艇、オランダ海軍の軽巡ジャワ (Hr. Ms. Java) に護衛されてスンダ海峡を通過した。 ジャワ島バタヴィア行きのDM.2船団と別れたBM.12船団(輸送船4隻乃至5隻)は北上してシンガポールを目指す。連合軍輸送船団の動きは、日本側に察知されていた[注釈 7]2月4日バンカ島スマトラ島の間のバンカ海峡英語版で日本軍の陸上攻撃機に襲われる。攻撃部隊は、ボルネオ島西部クチンから飛来した元山海軍航空隊の陸攻9機と美幌海軍航空隊の陸攻6機であった[53]。 日本海軍基地航空隊は「重巡1隻、軽巡1隻、駆逐艦4隻、商船5隻」を発見し[注釈 8]、2万トン級商船2隻、護衛艦艇1隻撃沈を報告したが、BM.12船団に目立った被害はなかった[注釈 9]

2月5日、BM.12船団はシンガポール到着寸前に日本陸軍航空隊に襲撃され、輸送船2隻(フェリックス・ルーセル、エンプレス・オブ・エイジア)が直撃弾を受けて炎上、エンプレス・オブ・エイジア (RMS Empress of Asia) は炎上して沈没した。乗船中の陸軍兵の大半は護衛の護衛艦ヤラ (HMAS Yarra, U77) や、シンガポール港から救援にかけつけた小型艇に救助された。日本側記録では、第3飛行集団第3飛行団の一部がシンガポール南方海上の敵艦船を攻撃し、1万トン級艦船1隻撃沈、6,000トン級艦船1隻炎上航行不能、3,000トン級艦船3隻に命中弾を与えたと報じている[56]。 エンプレス・オブ・エイジアの他に目立った被害はなく、BM.12船団はシンガポールへの増援輸送に成功した。2月15日[4]、シンガポールは陥落した[57][58]

ガスパル海峡の海空戦編集

ジャワ沖海戦後も日本軍の進撃は止まらなかった[59]2月8日-9日シンガポールとスラウェシ島マカッサル[60]2月10日-11日にボルネオ島南カリマンタン州バンジャルマシンに上陸し、攻略作戦を順調にすすめた[61]。ABDA艦隊はチラチャップに避退したばかりだったので、ボルネオ島やスラウェシ島に対する日本軍の攻勢に対処できなかった[62]

2月12日、ABDA海上部隊を指揮していたアメリカ海軍軍人のハート提督が本国に戻り、オランダ海軍軍人のコンラッド・ヘルフリック英語版オランダ語版中将が残存部隊を指揮することになった[33][注釈 10]。寄せ集めの多国籍艦隊を、引き続きカレル・ドールマン少将が海上指揮官として率いる[33][63]

2月13日、ジャワ島のバタビアにドールマン少将が率いるABDA打撃部隊が集結する[64]。その兵力は、オランダ海軍の軽巡洋艦3隻(デ・ロイテルジャワトロンプ)、イギリス海軍の重巡洋艦エクセター (HMS Exeter, 68) 、オーストラリア海軍の軽巡洋艦ホバート (HMAS Hobart) 、アメリカ海軍の駆逐艦6隻(ブルマ―パーカーホイップルアルデンエドワーズエドサル)、オランダ海軍の駆逐艦4隻(バンケルトファンゲントコルテノール英語版ヴァンネス英語版)であった[65]。ドールマン少将は日本軍の西方部隊(馬来部隊)に対する警戒を余儀なくされており、目下の懸念はスマトラ島パレンバンに対する日本軍の攻勢であった[38]

2月14日早朝、ABDA艦隊はバンカ島にむけてバタビアを出撃したが、途中で駆逐艦ファンゲントオランダ語版が座礁沈没、乗組員収容のため駆逐艦バンケルト (Hr.Ms. Banckert) が残留した[66]。 日本側では[67]日本陸軍挺進連隊パレンバン空挺作戦を実施しようとしており[68]、掩護をかねて馬来部隊(指揮官小沢治三郎海軍中将/第一南遣艦隊司令長官)をシンガポール東方海面に配置した[69]。 馬来部隊は[70]、重巡鳥海(小沢長官旗艦)と第七戦隊(司令官栗田健男少将)の重巡4隻(熊野鈴谷三隈最上)、第三水雷戦隊(司令官橋本信太郎少将、旗艦川内)、第四航空戦隊(司令官角田覚治少将)の軽空母龍驤などを主戦力としてマレー作戦に従事し[71]、同方面作戦が順調に推移したのち蘭印作戦に協力していた[72][注釈 11]

2月15日午前9時以降、ガスパル海峡を通過中のABDA艦隊を日本軍偵察機が発見して「戦艦1隻[69]、巡洋艦3隻、駆逐艦5隻の連合軍艦隊がガスパル海峡北上中」と報告した[74][6]マラヤ型戦艦 (Q.E.級戦艦) が報告され[75]、小沢長官は日本軍輸送船団(第二護衛隊[76]:練習巡洋艦香椎、海防艦占守、駆逐艦夕霧天霧、駆潜艇、陸軍輸送船団)を退避させる[注釈 12]。 馬来部隊指揮官は「一、基地航空部隊は全力を挙げてこの敵を攻撃せよ/二、輸送船は北方に避退せよ/三、主力部隊(旗艦鳥海、第七戦隊、第三水雷戦隊第四航空戦隊)は基地航空部隊の攻撃に策応し敵を撃滅する」との方針を示した[5]。輸送船団の護衛や掃蕩任務で別動中だった第三水雷戦隊各部隊(川内、由良、第11駆逐隊)なども、馬来部隊主隊との合流を命じられている[78]

水上部隊が艦隊決戦を挑む前に、ボルネオ島クチンマレー半島クアンタンに展開していた日本海軍基地航空部隊と、四航戦の軽空母龍驤艦上機によるABDA艦隊への空襲を敢行することにした[79][注釈 13]。 無線を傍受していた第二艦隊旗艦(南方部隊旗艦)愛宕(司令長官近藤信竹中将/南方部隊旗艦)では、参謀達が「また幻の戦艦が小沢艦隊を走らせている」と冗談をかわした[69]。ABDA艦隊に含まれていた「戦艦」は、英重巡エクセター (HMS Exeter, 68) の誤認であったという[69][注釈 14]

日本側の九七式艦上攻撃機陸上攻撃機は諸事情により魚雷を搭載せず、爆弾のみを装備して出撃した[84]航空戦により[4]、ABDA艦隊の2隻が損害を受ける[65]パース級軽巡洋艦 (Perth class light cruser) ホバート (HMAS Hobart) も若干の損傷をうけた[33]。 日本側の記録によれば、日本時間13時25分に第三航空部隊(龍驤)第一次攻撃隊(九七艦攻7機)がエクゼター型巡洋艦1隻を爆撃して炎上させ撃沈または大破と報じ、19時00分に龍驤第四次攻撃隊がレアンダー型軽巡洋艦1隻を爆撃して艦尾に数発の至近弾を得たと報告している[84]

決定的な被害こそ受けなかったものの[85]、ABDA艦隊は日本軍輸送船団撃滅をあきらめて反転し[62]、バタビアにもどった[86]。日本側でも、戦況を分析していた永野修身軍令部総長が「基地航空部隊の爆弾はどうして当らないのか」と落胆したという[87]。本作戦後、四航戦司令官(角田少将)は小沢中将に「敵艦隊を発見したとき、水上部隊は急追すべきではなかったか」質問した[88]。戦後、小沢は「艦隊は輸送船団から過度に離れるべきではない。」「シンガポールからの脱出艦艇捕捉撃破も続けねばならなかった。」「まさか一回の空襲で敵艦隊が算を乱して逃げるとは思わなかった。」「後刻の偵察報告や写真判定で敵戦艦がいないとわかった。」と回想している[88]

2月17日[89]、バンカ島守備隊を収容して撤退中の蘭駆逐艦ヴァンネス (Hr.Ms. Van Nes) と輸送船1隻は[65]、空母龍驤艦上機と、基地航空隊の陸攻に襲われて2隻とも沈没した[90][91]

結末編集

2月19日、日本軍攻略部隊はバリ島サヌール泊地に進入して上陸を開始し、未明には飛行場を占領した[92]。 東南アジア方面の連合国軍艦隊は直後に生起したバリ島沖海戦で損害を重ね[93]、最終的に日本軍のジャワ島侵攻に際して発生したスラバヤ沖海戦[94]バタビヤ沖海戦で事実上壊滅することになる[95][96]。航空戦力をなんとか維持するためジャワ島にP-40 (Curtiss P-40) 戦闘機を運んできた水上機母艦ラングレー (USS Langley, AV-3) も[97]、P-40を補給する前に日本海軍基地航空隊によって撃沈されている[98]

なお、本海戦で損傷した米軽巡マーブルヘッド (USS Marblehead, CL-12) は応急修理のあとセイロン島へ避退[33]、そのまま日本軍の餌食になる太平洋を避け、インド洋・喜望峰・大西洋を経由する大航海の果てにアメリカ本国へ生還している[45]。日本側はオマハ級軽巡洋艦 (Omaha class Cruiser) と艦型が似ているクレムソン級駆逐艦ピルスバリー (USS Pillsbury, DD-227) をマーブルヘッド(もしくはオマハ)と誤認していた[36][99]3月2日高雄型重巡洋艦2隻(愛宕[注釈 15]高雄)はピルスバリーを砲撃で撃沈する[100]。日本側は『マーブルヘッドを撃沈した』と錯覚していた[101][注釈 16][注釈 17]

出典編集

注釈編集

  1. ^ “馬来作戦”について、戦史叢書では“馬來作戦”と表記することもある。また1942年(昭和17年)1月3日付で南遣艦隊は第一南遣艦隊に改称した[11]
  2. ^ 比島作戦の進展により、従来の比島部隊は新編“比島部隊”(指揮官:第三南遣艦隊司令長官杉山六蔵中将)と“蘭印部隊”(第三艦隊長官)に分割された[11][13]
  3. ^ 『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』、255ページでは「アメリカ駆逐艦4隻とオランダ駆逐艦4隻」と記述する。
  4. ^ (昭和17年2月4日記事)[28]○第十一航空艦隊(三-一六三〇)航空偵察「祭連」海北岸「パメカサン」湾口ニジャバ型(初メ戦艦ト云フ)二隻、甲巡一、乙巡二、駆逐艦九停泊中(四日之ヲ攻撃スル旨発令アリ)。
  5. ^ (昭和17年2月7日記事)昨日、ジャワ海にて米蘭連合艦隊を襲撃し、米巡1、蘭巡3撃沈せり。蘭印主力部隊大半を失う。各部隊赫々たる戦果を挙ぐ。目下航空撃滅戦展開中にして、敵空軍撃滅をもってL作戦を実施せらるる予定なり(以下略)[47]
  6. ^ 二.我軍一般情勢[51](イ)馬来方面 第二十五軍ハ一月三十一日「ジョホールバール」ニ突入之ヲ占領シ目下「新嘉坡」攻畧作戰準備中ニシテ二月八日ヲ期シ總攻撃ニ転ゼントスル対勢ニ在リ 一方「ボルネオ」作戰中ノ川口支隊ハ一月二十七日「レド」飛行場ヲ一月二十九日「ボンチヤナク」ヲ占領飛行場ノ修復ニ努メツツアリ/陸海軍航空部隊ハ「シンガポール」方面ヘ頻繁ニ往復スル敵艦艇及輸送船ヲ猛爆多大ノ戰果ヲ挙ゲルト共ニ逐次馬来及「ボルネオ」占領地区ヘ基地ヲ進出シ「ヂャバ」「スマトラ」方面ノ航空撃滅戰ニ備ヘツツアリ/馬来部隊海上兵力ノ大部竝ニ第三十八師団ハ一月末「カムラン」湾ニ集合ヲ終リ二月十日ヲ期シ「バンカ」「パレンパン」ノ攻畧ニ転ゼントス 之ニ引續キ第十六軍ハ二月上旬「カムラン」湾ニ集合二月二十一日「ヂャバ」西部攻畧予定ニテ作戰準備中(以下略)
  7. ^ 〔 第三.経過 一.指揮官ノ作戰指導及行動(中略)[52] (ロ)二月三日 本日飛行偵察ニ依レバ午後零時五十五分「シンケプ」島西方ニ敵軽巡二隻駆逐艦一隻、午後二時十分「バンカ」海峡「ムントク」沖 敵巡洋艦一隻駆逐艦一隻、「シンガポール」商港内輸送船約五十八隻(内大型十隻、中型八隻、小型約四十隻)アリ且二日以来「バンカ」海峡ヲ経テ「新嘉坡」方面トノ商船及艦艇ノ往復頻繁ナリ 敵ハ「シンガポール」ニ兵力ヲ増強シツツアルカ又ハ引揚ヲ行ヒツツアル事確実ニシテ水上艦艇ハ航路ヨ要点ニ假泊之ガ間接護衛ニ任ジ居ルモノノ如シ 〕
  8. ^ (ハ)二月四日[54]航空基地ノ整備ノ都合上海軍航空隊ノ進出不能差當リL日ヲ二日繰下ゲラル 本日モ前日同様「バンカ」海峡北口ヲ北上中ノ敵大巡一隻 軽巡一隻 駆逐艦四隻 大型商船五隻ヲ認ム 尚南下中ノ商船ノ護衛兵力ノ僅少ナル点竝ニ飛行機ヨリ空船ノ報(一隻)アリシ点等ヨリ按ジ敵ハ「シンガポール」方面ニ兵力ヲ増強シ同時ニ同方面ヨリ非戰斗員竝ニ資源ノ一部ヲ搬出シ居ル算大ナリ 〕
  9. ^ (略)陸軍第16軍司令官(今村均陸軍中将)来艦。午前中作戦を練る。新嘉坡も後旬日に迫り、脱走せんと敵輸送船密集すとのことなり、陸海の空軍力にて連爆す。(以下略)[55]
  10. ^ ABDA艦隊におけるアメリカ海軍の先任将校は、グラスフォード少将になった[38]
  11. ^ 所属部隊は作戦時期によって若干変化し、この時は軽巡由良も馬来部隊主隊に所属している[73]
  12. ^ その後、戦艦は巡洋艦の誤認と判明した[77]
  13. ^ 第四航空戦隊司令官角田覚治少将を指揮官とする第三航空部隊(龍驤、汐風敷波)は馬來部隊と共に行動していた[80]
  14. ^ 珊瑚海海戦でも[81]、日本海軍基地航空部隊は豪州海軍の重巡オーストラリア (HMAS Australia, D84) をクイーン・エリザベス級戦艦 (Queen Elizabeth class Battleship) ウォースパイト (HMS Warspite) と誤認して「撃破した」と発表した[82][83]
  15. ^ 第二艦隊司令長官近藤信竹中将(南方部隊指揮官)旗艦。
  16. ^ 3月2日夕刻、南方部隊本隊(愛宕、高雄、摩耶、嵐、野分)に「バリ島の南西方300浬付近に敵駆逐艦2隻、その南方100浬に敵軽巡1隻発見」との航空偵察情報が伝達される[102]。愛宕と高雄は軽巡洋艦(マーブルヘッド/ピルスバリー)にむかい、重巡摩耶および第4駆逐隊(野分)はイギリス駆逐艦ストロングホールド (HMS Stronghold) 攻撃のため分離し[103]、英駆逐艦を撃沈した[104]
  17. ^ 愛宕では、目標が米軽巡ではなく駆逐艦だと気付いた砲術畑の将校もいた[105]

脚注編集

  1. ^ a b #略歴(乙)S1702経過概要 p.4(昭和17年2月経過概要)〔 四日|「ジャワ」沖海戰 鹿屋空(flo×27) 高雄空(flo×9)「カンゲアン」島南ヲ航行中ノ敵C×6 d×5ヲ發見攻撃ス C×2撃沈 C×2大破セシム 〕
  2. ^ a b (昭和17年2月5日、『高松宮親王日記』第4巻88頁より)○第一空襲部隊(〇七三〇=四-二〇四〇)本四日敵艦隊ニ対スル攻撃成果左ノ通リ。「ジャバ」型二隻、「デ・ロイテル」型一隻、「マーブルヘッド」型一隻及駆逐艦七隻(内二隻「トロンプ」型ト推定)ヨリ成ル敵艦隊ノ内、ジャバ型一隻轟沈(二五番二直撃) 「デ・ロイテル」型一隻大破(二五番二直撃、至近弾多数)(一時火災停止、一時間後、油ヲ流シツヽ航行) 「スマトラ」型一隻(六番一直撃、二五番二至近弾)(一時黒色褐色煙ヲ吐キタルガ鎮火) 「マーブルヘッド」型一隻(二五番一砲塔ニ直撃、至近弾一)(相当ナ損害ヲ与フ) 尚「マカッサル」ニ向ケ航行中ノ五〇〇〇「トン」輸送船ヲ第二航空戦隊艦爆撃破炎上セシム。
  3. ^ a b 戦史叢書80 1975, p. 186航空基地推進とジャワ東部航空撃滅戦開始
  4. ^ a b c #略歴(乙)S1702経過概要 p.3(昭和17年2月)〔 十五日|菲島西部海上兵力ノ大部及31fgノfb隊「バタアン」方面ノ作戰ニ協力/「バンカ」島、「バレンパン」上陸陸軍部隊先遣部隊ノT護衛ノ海軍部隊「ムントク」入泊、陸軍ヲ上陸セシム/鳥海ノfs「バンカ」島北方ニテ敵C×3 d×5發見 航空部隊之ヲ攻撃ス/「シンガポール」英軍降伏 〕
  5. ^ a b 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 110–112遁走したガスパル海峡の英蘭連合艦隊
  6. ^ a b 戦史叢書80 1975, pp. 187–188南部スマトラの攻略とジャワ西部航空撃滅戦開始
  7. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 55–56馬来方面作戦部隊
  8. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 56–57比島方面作戦部隊
  9. ^ ニミッツ 1962, pp. 31–36日本軍、蘭印に進撃す
  10. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 39オランダ領東インドへの日本軍の前進(1942年1月~2月)
  11. ^ a b 戦史叢書80 1975, pp. 141–142第一、第三南遣艦隊の新編
  12. ^ 戦史叢書80 1975, p. 54(挿図第一)主要海軍作戦部隊展開状況
  13. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 148–149蘭印作戦東方進出部隊
  14. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 161–163ABDAコマンドとANZAC戦域の創設
  15. ^ a b トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, pp. 13a-16パリクパパン沖の戦い
  16. ^ ニミッツ 1962, p. 32.
  17. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 13b.
  18. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 163–165米英の極東増強とABDAコマンドの作戦指導
  19. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 194a-196ジャワ島攻略作戦前の連合軍の作戦指導等
  20. ^ a b トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 35.
  21. ^ 戦史叢書80 1975, p. 194b.
  22. ^ 戦史叢書26 1969, pp. 254a-256戦闘経過の検討
  23. ^ 戦史叢書95 1976, p. 232ジャワ攻略作戦/東正面航空基地推進
  24. ^ #略歴(乙)S1702経過概要 pp.3-4(昭和17年2月経過概要)〔 三日|KdB「マーシャル」進出取止メ「ジャバ」「チモール」作戰準備/11AF東「ジャバ」ヲ攻撃 撃墜炎上六二機/「アンボイナ」攻撃部隊(Y)占領 〕
  25. ^ a b ニミッツ 1962, p. 34.
  26. ^ a b c d 戦史叢書26 1969, p. 255.
  27. ^ The Java Sea Campaign, p.27-28
  28. ^ 高松宮日記4巻 1996, p. 85.
  29. ^ 戦史叢書26 1969, p. 248スラバヤ方面飛行場を爆砕
  30. ^ 戦史叢書26 1969, p. 249a-253ジャワ沖に適艦隊を撃滅
  31. ^ 基地航空隊の艦船攻撃、149-150ページ
  32. ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、250ページ、基地航空隊の艦船攻撃、150ページ
  33. ^ a b c d e トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 36.
  34. ^ 高松宮日記4巻 1996, p. 87.
  35. ^ a b 戦史叢書26 1969, p. 251.
  36. ^ a b 連合軍艦艇撃沈す 2013, pp. 170–173軽巡「マーブルヘッド」と誤認される
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参考文献編集

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  • 生出寿 『智将小沢治三郎 沈黙の提督 その戦術と人格』光人社〈光人社NF文庫〉、2017年7月 (原著1988年)。ISBN 978-4-7698-3017-7 
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  • 小板橋孝策 『愛宕奮戦記 旗艦乗組員の見たソロモン海戦』光人社〈光人NF文庫〉、2008年2月。ISBN 978-4-7698-2560-9 
  • 『写真太平洋戦争 第2巻 中部・南部太平洋方面攻略作戦/蘭印攻略作戦/インド洋作戦』光人社、1995年、ISBN 4-7698-2071-2、148-153ページ
    • 安部安雄『基地航空隊の艦船攻撃』
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  • 寺崎隆治 『最後の連合艦隊司令長官 勇将小沢治三郎の生涯』光人社〈光人社NF文庫〉、1997年12月 (原著1972年)。ISBN 4-7698-2180-8 
  • イアン・トール 著、村上和久 訳 『太平洋の試練(下) 真珠湾からミッドウェイまで』文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376430-6 
  • 中島親孝「第一章 万里の波濤〈第二艦隊参謀時代(一)〉」 『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記』光人社〈光人社NF文庫〉、2008年10月 (原著1988年)。ISBN 4-7698-2175-1 
  • チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター、実松譲・富永謙吾訳 『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1962年12月。 
  • 平間源之助著 著、平間洋一 編 『軍艦「鳥海」航海記 平間兵曹長の日記 昭和16~17年』イカロス出版、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0634-1 
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  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<2> ―昭和17年6月まで―』 第80巻、朝雲新聞社、1975年2月。 
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  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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関連項目編集