ジャン=フランソワ・ラファエリ

ジャン=フランソワ・ラファエリJean-François Raffaëlli, 1850年4月20日 - 1924年2月11日)は、フランスの写実主義の画家彫刻家版画家印象派展にも出品した。

ジャン=フランソワ・ラファエリ
Jean-François Raffaëlli
肖像写真(1890年頃)
生誕 (1850-04-20) 1850年4月20日
フランスの旗 フランス共和国 パリ
死没 (1924-02-11) 1924年2月11日(73歳没)
フランスの旗 フランス共和国 パリ
国籍 フランスの旗 フランス
著名な実績 絵画
流派 写実主義
受賞 レジオンドヌール勲章
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概要

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ラファエリのアトリエ(1885年頃-1890年頃)。

パリで生まれたが、父方の祖父母はイタリアトスカーナ州の出身であった[1]。当初、音楽や演劇に興味を持っていたが、1870年、画家になった。この年、風景画1点がサロン・ド・パリに入選した。1871年10月から3か月、エコール・デ・ボザールジャン=レオン・ジェロームの下で絵画を学んだが、それ以外には正式の絵画教育を受けていない[2]

1876年以降、パリ郊外の農民、労働者、貧民(屑拾い人)などを写実的に描くようになった。こうした新しい作品は、ジョリス=カルル・ユイスマンスのような批評家や、エドガー・ドガから高い評価を受けた。

屑拾い人は、ラファエリにとって近代社会における人間疎外の象徴となった。美術史家Barbara S. Fieldsは、ラファエリがイポリット・テーヌ実証主義哲学に関心を寄せていたことを指摘し、こう書いている。

[その哲学は]彼がcaractérismeと名付けた写実主義の理論をまとめることにつながった。彼は、自身を、考えなしの人々、見る者に自然そのままの描写を伝えるだけの写実主義者と呼ばれる画家から区別しようとした。彼の人間に対する注意深い観察は、エミール・ゾラやユイスマンスの自然主義文学における反美的、反ロマンティックな手法と軌を一にするものである[2]

ドガは、1880年と1881年の印象派展にラファエリを招待した。しかし、そのことが原因で印象派グループは分裂することになった。ラファエリは印象派の画家ではなかった上、37点という大量の出品で1880年の印象派展を占拠しようとしたためであった。クロード・モネは、写実主義者を引き入れて印象派展のメンバーを拡張しようというドガの主張を嫌悪して、出展を拒否し、「小さな教会だったものが、今や下手な初心者にも門戸を開く三流の学校になってしまった」と批判した[3]。この時期のラファエリの作品としては、『アブサンを飲む人』(1881年)がある。この作品は、もともと『退役軍人たち』というタイトルが付されていたもので、1881年の印象派展で好評を博した[4]

1889年レジオンドヌール勲章を受章した。その頃から、ラファエリは、郊外の情景からパリ市街に興味を移し、公衆や批評家から好意的な評価を受けた。数々の彫刻作品も制作したが、現在では写真で残っているだけである[2]。晩年には、版画を集中的に制作した。1924年、パリで亡くなった。

作品

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脚注

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  1. ^ Alexandre, Arsène (1909). Jean-François Raffaëlli. Paris: H. Floury. p. 15. https://archive.org/details/jeanfrancoisraff00alex 
  2. ^ a b c Turner 2000, p. 346.
  3. ^ Gordon and Forge 1988, p. 31.
  4. ^ Young 2008, p. 235.

参考文献

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  • Robert, Gordon; Andrew, Forge (1988). Degas. New York: Harry N. Abrams. ISBN 0-8109-1142-6 
  • Turner, J (2000). From Monet to Cézanne: Late 19th-century French Artists. New York: St Martin's Press. ISBN 0-312-22971-2 
  • Marnin, Young (2008-06). “Heroic Indolence: Realism and The Politics of Time in Raffaelli's Absinthe Drinkers”. The Art Bulletin 90 (2): 235-259.