ジャン5世 (アルマニャック伯)

ジャン5世(Jean V, comte d'Armagnac, 1420年1473年3月5日)は、アルマニャック伯英語版。アルマニャック伯ジャン4世英語版イザベル・ド・ナヴァールの息子。

ジャン5世
Jean V
アルマニャック伯
Jean V Comte dArmagnac.jpg
在位 1450年1473年

出生 1420年
死去 1473年3月5日
Bannière de France style 1500.svg フランス王国、レクトゥール
配偶者 イザベル・ダルマニャック(違法な結婚)
  ジャンヌ・ド・フォワ
家名 アルマニャック家
父親 アルマニャック伯ジャン4世英語版
母親 イザベル・ド・ナヴァール
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生涯編集

1450年11月5日に父親が死ぬと、ジャン5世はアルマニャック伯位を継承した。間もなく、ジャン5世は10歳下の同母妹であるイザベルと性的関係を持った。年代記編者マテュー・デスクシー英語版によると、イザベルは当時のフランスにおける美人の一人で、イングランド王ヘンリー6世との婚約が検討されていたという。兄妹の間にレクトゥール英語版城で2人の男児(ジャンとアントワーヌ)が生まれたという噂が立つと、夫婦は彼らの問題のある行為を改めると約束した。しかし、数か月のうちに3人目の子供ローズ(またはマスカローズ)という娘が生まれた時、ジャン5世は自分たちの夫婦関係は、ローマ教皇カリストゥス3世からの特免を受けたと主張した。

ジャン5世には他にも重大な問題があった。ジャン5世は王によって選ばれたオーシュ司教英語版座を拒否し、教皇の同意を得て、彼の庶系の異母兄弟を座に就かせた。ジャン5世を捕らえようと、シャルル7世高等法院は被告人不在のまま、1460年にジャン5世に大逆、反乱、近親相姦の有罪判決を下した[1]。ジャン5世を捕まえるために軍が送られたが、彼はアラゴンのいとこの下に逃げることによって刑から免れた。彼はローマで自ら弁明を行ったものの、2人は別れさせられ、間に生まれた息子たちは庶子と宣言された上、相続人から外された。

1469年、新たに国王となったルイ11世が、ジャン5世のもとに軍を送った。ジャン5世は1473年3月5日にレクトゥール英語版の拠点で包囲され、アルビ司教英語版ジャン・ジュフロワ英語版によって討たれた[2]

1469年8月19日のレクトゥールにおいて、ジャン5世はフォワ伯のガストン4世 とナバラ女王レオノールの娘であるジャンヌ(1454年 - 1476年2月10日)と結婚した。ジャンヌは、夫の死の際に妊娠8ヶ月であり、ビュゼ=シュル=タルヌ英語版の城で投獄されていた。 ギブールのアンセルム英語版によれば、彼女は1473年4月、権力争いの"数え切れないほどのレースを終わらせる"ために中絶薬を飲むことを余儀なくされた[3] 。結果的に、アルマニャック伯の称号は最初に弟シャルルが継ぎ、1497年には分家のアルマニャック=ヌムール公家に渡った。

子女編集

ジャン5世は妹イザベル(1430年頃 - 1476年8月4日)との間に3人の子供をもうけたが、庶子とされた。

  1. ジャン・ダルマニャック( - 1516年) - カンブーラ領主。1507年にジャンヌ・ドゥ・ラ・トゥールと結婚した。子供はいない。
  2. アントワーヌ( - 1516年頃) - 「バタール・ダルマニャック(アルマニャックの私生児)」と呼ばれた。生涯独身で子供なし。
  3. ローズ(またはマスカローズ)( - 1526年) - 1498年にモンブラン領主ガスパール2世・ド・ヴィルミュルと結婚した[4]。 子供あり。

参考文献編集

  1. ^ Richard Vaughan, Charles the Bold: The Last Valois Duke of Burgundy, (The Boydell Press, 1973), 45.
  2. ^ Histoire département France. Regard historique sur les départements
  3. ^ Père Anselme, Tome III, p. 424, citing “archives de Rodez”.
  4. ^ le chateau de montbrun-bocage

外部リンク編集

  • "Un vrai feuilleton" ジャン・ダルマニャックのドキュメンタリー史(フランス語)
先代:
ジャン4世英語版
アルマニャック伯
1450年 – 1473年
次代:
シャルル1世英語版