ジョゼフ・ド・モナコ
ジョゼフ・マリー・ジェローム・オノレ・ド・モナコ(Joseph Marie Jerôme Honoré de Monaco, 1763年9月10日 - 1816年6月28日)は、モナコ公家の公子。兄オノレ4世の摂政(在任:1814年 - 1815年)を務めた。
ジョゼフ・ド・モナコ Joseph de Monaco | |
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出生 |
1763年9月10日![]() |
死去 |
1816年6月28日(52歳没)![]() |
配偶者 | マリー・テレーズ・ド・ショワズール |
フランセス・ドイル | |
子女 |
オノリーヌ アテナイス デルフィーヌ |
家名 | グリマルディ家 |
父親 | モナコ公オノレ3世 |
母親 | マリー・カトリーヌ・ブリニョール |
役職 | 摂政(1814年 - 1815年) |
生涯 編集
モナコ公オノレ3世とマリー・カトリーヌ・ブリニョールの間の次男。1782年4月6日[1]、エティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール公爵の姪マリー・テレーズ・ド・ショワズールと結婚、間に3人の娘を儲ける。
モナコが1793年2月14日フランスに併合された後[2]、ジョゼフは王党派によるヴァンデの反乱に加担した[3]。このことが原因で、反革命容疑者法に基づき、父、兄夫婦、妻テレーズは革命政府に逮捕・拘禁され、妻はテルミドールのクーデタ当日に処刑された[4]。ジョゼフ自身はイギリスに避難したのち、1795年フランスに帰国した。
英領セイロン総督ウェルボア・イーリス・ドイルの未亡人フランセス・ドイル(1809年没)[5]と再婚したが、間に子は無かった。
1814年5月30日のパリ条約でフランスがモナコの再独立を認めると、病弱で君主の任に堪えない兄オノレ4世の摂政としてモナコを統治したが、翌1815年初めに甥の公世子オノレ(5世)と交替した。
子女 編集
最初の妻テレーズとの間に3人の娘があった。
- オノリーヌ・カミーユ・アテナイス(1784年 - 1879年) - 1803年ラ・シャルス侯爵ルネ=ルイ=ヴィクトル・ド・ラ・トゥール・デュ・パンと結婚、子孫あり
- アテナイス・ユーフラジー・ルイーズ・フィリッピーヌ(1786年 - 1860年) - 1814年ルーヴロワ侯爵及びトネール伯爵ルイ・ル・テリエと結婚、子孫なし
- デルフィーヌ・エメ・シャルロット(1788年 - ?) - 夭折
長女オノリーヌ・ド・モナコの子孫は、潜在的なモナコ公位継承権を有している。