ジョフロワ2世 (アンジュー伯)

ジョフロワ2世(ゴーフリードまたはジョフレード)(Geoffroy II, 1006年10月14日 - 1060年11月14日)は、アンジェルジェ家出身のフランスの貴族。マルテル(Martel、鉄鎚伯)と呼ばれる。ヴァンドーム伯(在位:1032年 - 1056年)、アンジュー伯(在位:1040年 - 1060年)およびトゥール伯(在位:1044年 - 1060年)。アンジュー伯フルク3世ネラと2番目の妻イルドガルド・ド・オート=ロレーヌ・ド・スンゴー上ロレーヌ公ティエリー1世公女) との間に生まれた長男。

ジョフロワ2世マルテル
Geoffroy II Martel
アンジュー伯
ヴァンドーム伯
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在位 アンジュー伯1040年 - 1060年
ヴァンドーム伯1032年 - 1056年

出生 (1006-10-14) 1006年10月14日
死去 (1060-11-14) 1060年11月14日(54歳没)
埋葬 アンジェ、サン=ニコラ修道院
配偶者 アニェス・ド・ブルゴーニュ
  グレイシア・ド・ランジェ
  アデル(あるいはアルモディス)・ド・ブロワ
  アデライード・ トゥトニス
家名 アンジェルジェ家
父親 アンジュー伯フルク3世
母親 イルドガルド・ド・オート=ロレーヌ・ド・スンゴー
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生涯編集

アンジュー伯領を父親がジョフロワと親子で共同統治したがらなかったため、その他所に領地を作ることから領主としての人生を始めた。

1032年アキテーヌ公ギヨーム5世寡婦アニェス・ド・ブルゴーニュと結婚した。

アニェスはアキテーヌ公領での自分の地位の維持を望み、アキテーヌにジョフロワが介入することを奨励、ジョフロワは、先代アキテーヌ公とアニェス以外の前妻達との息子、ギヨーム6世およびウードと戦った。

まず、ジョフロワは1033年にモンコントゥールでギヨーム6世を破り、サントンジュを占領した。

1039年にジョフロワの同盟領主であるトゥアール副伯ジョフロワ2世を妻アニェスの継子であったウードが攻撃した際にモーゼで包囲戦になり、そこでウードは戦死した。その後にアニェスの長子であったギヨーム7世がポワティエ伯位およびアキテーヌ公位を相続したが、まだ少年であったため、これら領地のジョフロワが代理の領主となり、実質的にはギヨーム7世の実母であるアニェスが統治していた。

この期間の間、1028年、ジョフロワの異母姉(父フルクと初婚の妻の長女)に当たるヴァンドーム女伯アデールは共同統治者の息子フルク・ロワソンと領地の分割や処遇を巡って争いになり、息子にヴァンドームから追放されそうになったアデールは自から統治していたヴァンドーム伯領の半分の統治権を放棄し、ジョフロワに譲渡した。

そのすぐ後にフランス王アンリ1世の命により、ジョフロワはすぐに領地を甥フルクから略取し、1032年には残りの半分を占領し、ヴァンドーム伯ジョフロワ1世となる。

後の1056年にフルク・ロワソンから協力を請われたフランス王アンリ1世からの要請に応じ、ヴァンドーム伯領の統治権はフルク・ロワソンに返還したが、それを機にジョフロワ2世は甥フルクを臣下とし、支配下に置いた。

ジョフロワはヴァンドーム滞在中にラ・トリニテ修道院を設立している。

その後、父フルク3世とジョフロワが対立し、1036年から1039年までの間戦争になった。結果的にジョフロワは父に敗北したが、フルクはその翌年に死亡した。

ジョフロワはアンリ1世と同盟しブロワ家と戦い、1044年のヌイの戦いでブロワ伯ティボー3世を倒し捕らえた。ジョフロワはブロワ家側の捕虜の開放条件にトゥーレーヌ伯領の支配権を条件として提示した。しかしアンリ1世はジョフロワの権力がより強くなることを懸念し、トゥーレーヌの占領を阻止しようとした。

トゥーレーヌ占領後、次にジョフロワはメーヌ伯領略取を試み、メーヌ伯ユーグ4世に加え、ノルマンディー公ギヨーム1世とユーグ4世を支援するル=マン司教の甥ジェルヴェ・ド・シャトー・デュ・ロアールらと対抗した。

1047年、ジェルヴェを捕らえ捕虜とし7年間拘留した後、1049年にジョフロワはローマ法王から破門された。

1057年、ジョフロワはル・マンを占領できたが、この遠征で命を落とした。

ジョフロワは1060年11月14日死去し、アンジューのサン=ニコラ修道院に埋葬された。

口頭伝承によって彼の甥、フルク4世・ル・レシャン(病気質伯)に伝えられた伝記によれば、ジョフロワから勇猛なるアンジュー伯年代記を書くように促され、それはアンジューの修道士によって1100年から1140年に書かれた。

結婚編集

ジョフロワの妻になった女性は4人いるとされる。1032年ブルゴーニュ伯オット=ギヨームエルマントルド・ド・ルシーの三女であり、アキテーヌ公ギヨーム5世未亡人のアニェス・ド・ブルゴーニュと結婚したが、彼らには子ができず、そして、3親等の親類であることを申し立て、ジョフロワは1049年~1052年に婚姻を無効とした。ジョフロワが離婚を望んだ本当の理由は、おそらくアニェスとの間に子どもができなかったことである。

アニェスとの離婚後、間もなくランジェ家の出身でモントルイユ卿ベレー1世の未亡人グレイシアと再婚した。

しかし、より条件の良い妻との結婚を望んだジョフロワはグレイシアとも3~4親等の親戚であることを教会に主張して離婚し、ブロワ伯ウード(おそらくウード2世)の娘と思われるアデル(アルモディスとも)という女性と再婚し、その恩恵を受けたが、結局アデルとも離婚し再び元妻グレイシアと再婚した。

最終的にはアデライード・トゥトニス(トゥトニスは姓でなくゲルマン系民族の意)という女性と結婚している。

以上これだけの数の結婚を繰り返したが(年代記を編集した修道士達はさらに愛人の存在についても記述)、子女に恵まれることはなかった。

彼の死後、アンジュー伯位を継いだのはジョフロワの実妹エルマンガルド=ブランシュの息子で、甥に当たるジョフロワ3世(髭伯)である。

参考文献編集

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